第3章 第1話
街外れに随分と古ぼけたビルがある。その地下には、お似合いの古くて狭いスタジオがある。確かに古いのだが、安い値段で思い切り音を出せるスタジオは多くは無い。由紀子たちのバンドメンバーは、このスタジオの常連だった。由紀子は機材の音合わせのために、Aメロだけを軽く歌った。好きなコード進行だが、今日もみんなの音は何か足りない気がした。このところ、ずっとそうだ。狭いスタジオの中は温い緊張感に支配されている。いまハイハットの音が少しカラ振ったと思う。気が付いたときに歌いながらもついついそっちを見てしまうのが由紀子の癖だった。
あまり良い音が出せてないのは今日だけではない。それは他のメンバーも感じているのが伝わってくる。エッジの効いていないナイフのように突き刺さってこない音だった。とりあえず一曲やってみました。みたいに後に繋がらない練習だった。曲の最後の音が鳴り終わって由紀子はハンカチで汗をぬぐう。
リーダーのヒロトがギターを隅においてため息をついた。「こんなんで良いわけ?」ヒロトの声が狭いスタジオの壁にぶつかって無残に砕ける。壁を拳で叩く。それでもドラムのケンタローとベースのマサキヨは何も言わなかった。見た目で言うと右から見ても左から見てもチンピラにしか見えないヒロトだが演奏の仕上げにはうるさい。まだアンプのチューニングも終わってないのにこの権幕だ。ヒロトが怒ると誰も逆らわなかった。このところ練習のたびにヒロトの機嫌が悪くなっていく。ライブハウスで知り合ったレコード会社の人から言われているデモテープの締め切り日が迫っていた。
「歌詞もインパクトを狙ったようなのに変えられないか」ヒロトは由紀子に数日前から脅迫するかのように歌詞の書き直しを求めていている。出来ないとは言えないし、そう言ってはいけないのかもしれないが他に何曲か持っているのと1曲だけ毛色の違う曲を作って良いものだろうか?
ヒロトが煙草を吸いにスタジオの外へ出た。誰も逆らわないのはヒロトの見た目の迫力からじゃない。一応バンドをまとめる気力がヒロトには有った。27歳にもなるのに眉毛は通常の人の75%くらいの幅に刈られているし、80年代の暴走族みたいに”剃りこみ”が入っている。博物館に寄贈したいくらいの不良青年だ。それでもバンドには真剣だという事を皆よく理解している。いまも煙草を吸うのに外へ出たのは由紀子に煙を吸わせないための気遣いである。
ケンタローやマサキヨは、ほっとしたようにアンプをいじくったりしていた。由紀子も録音室の隅のテーブルで歌詞を書きとめたノートを広げて歌詞を書き直せないかと考えあぐねる。由紀子にはこのバンドの中の温度差を明瞭に感じ取れる。音楽一筋のヒロトと違って、就職したくないから音楽をやっているようなケンタローや、ちょっと手先が器用だからベースを弾いているようなマサキヨには熱が無かった。曲の完成度が低い事は判っているが何とかしたいという気持ちには明らかな差がある。他に適切な演奏レベルを持った人がいないから繋がっているのが本当のところで、このバンドは深いところではもうとっくに切れていた。
由紀子からみてヒロトは、センスのない昔気質のミュージシャンという印象で、それは出会った頃から変わらなかった。もっと若い子たちが、どんどん新しいサウンドを始めようと実験的なアプローチを始めているのに、ヒロトは子供の頃にお父さんのレコードで聞いたような音を作りたがった。打ち込みの音にも興味が無い。もちろんデビューできればスタッフが付くのでサウンドは今の技術に置き換えられてしまうだろう。でもヒロトはきっとそれを嫌がるだろうし、そういうものについて行けないのではないだろうか。
ライブハウスには、時代に適応できずに滅ぶことを覚悟したような古いミュージシャンが確かにいる。
由紀子は、ヒロトが何もしないで腐っていくような人ではないことは判っている、でもヒロトは刀一本で革命を起こそうとする幕末の侍のように変化に適応できない人種だった。幕末の侍の悲劇は、滅びるときに仲間を道連れにしたことではないだろうか。メンバーの誰にも見せていない由紀子のソロ曲の譜面は鞄の中にそっと忍ばせてある。隠れキリシタンがいつか救いをもたらすと信じた神の十字架のように。