復讐の花
それは大きな口から唾液を垂らし、緑色の瞳をリックスに向けていた。
全長は三メールほど、茶色の毛が体中を覆っており、四本足の指の先には長くて、鋭い爪がついている。
「リックス!」
隊長が彼の名を呼ぶ。モンスター対抗部隊と呼ばれる第六十七部隊で、リックスは最年少の兵士だった。だが、腕前は確かで隊に所属してから一年で彼が倒したモンスターは数匹に及ぶ。
だからこそ、隊長のナクラは彼の様子に違和感を覚えていた。
「リックス!」
ナクラは自分の目を疑う。若い兵士は剣を構えるのをやめ、モンスターに向かって足を踏み出した。
ここだとばかり、モンスターはその大きな口を開き、リックスに襲い掛った。
鮮血が飛び散る。しかしその血は彼のものではない。
モンスターが雄叫びをあげ、両目を抑えた。ナイフが両目に刺さりながらも、それは歩みを止めない。
「やめてくれ!」
さらに攻撃を加えようとする男の前に、リックスが飛び込んだ。
しかし別方向からナクラが飛び出し、モンスターを切りつけた。それの腹部がぱっくりと避け、赤黒い血が周囲を濡らす。
「隊長!」
血を流してうずくまるそれを、リックスが守るように立ち塞がる。
「邪魔だ、どけ!」
止めを刺そうと剣を握りしめ、ナクラは部下に命じた。
二人の睨み合いは長く続くことはなかった。それは唸り声をあげ、走り出す。両目が効かなくなったモンスターは建物にぶつかりながら街に逃げた。
「俺が追う!」
後を追おうとした兵士達を止めたのはリックスだ。
「俺に任せてください」
彼は仲間の中心に立つ隊長にそう言うと、手負いのモンスターの後を追った。
手負いと言えどもモンスターの足は速く、リックスが追いつくことはできなかった。月明かりを頼りに、彼が追ったのは血の跡だ。
点々と続くそれは、モンスターが致命傷を負っていることを伝える。
部隊の仲間はリックスに後を任せたのか、それともそれの死期がすぐに来ることを知っているのか、誰も後を追ってこなかった。
(マット……)
血の跡を追いながら、リックスは少年のことを思い出す。あのモンスターと同じ色の瞳、その毛色は少年の髪の色と一致していた。
そんなはずはないと言い聞かせながらも、心のどこかでそれが少年であることを認めていた。
人が復讐を願う時に現れるキリサの花――人をモンスターに進化させる、伝説の花。
その花を食するものはモンスターへと進化するという。そして人だった者はその復讐のために命をかけ、目的を達すれば死ぬ。
誰も見たことがない花、しかし単なる伝説だと言い切ることはできない。力のない平民が無残な遺体で発見されたときに、モンスターは復讐のために現れるのだ。
§ § §
ざわざわと人だかりができていた。興味がてらに人垣を覗くと川で死体が発見されたということだった。
「あんた!?」
くるりと背を向け、兵舎に戻ろうとしたリックスを呼び止めたのは、中年の女だ。彼には見覚えのない顔で無視しようとしたが、女はグイっとリックスの肩を掴んだ。
「あんた!ケイトの家に出入りしてた男だろ!」
出入りとはなんだと言い返そうとして、ケイトという名に思い当たる。出入りなどという仲では決してなかった。二週間に町で絡まれていたのを助けたくらいだ。まあ、それが縁で何度か家に呼ばれて食事しているが、親しくはない。
リックス達、第六十七部隊は積極的に街の者と関わることはなかった。それはいざというときにモンスターと戦えなくなる可能性があるからであり、彼もそれを守っていた。
ただしケイトの弟があらわれるまでだが。
ケイトの弟――マットは十四歳の少年だ。年のわりに幼く、リックスの弟に似ていた。だから食事に誘われ断れなかったのだ。
「あんた。昨日の晩、何してたんだよ!」
「どういう意味だ?」
「ケイトがこんな姿に、マットまでいなくなって」
「死体はケイトなのか?」
「そうだよ。可哀そうに」
リックスは女の言葉を遮って白い布が被さった遺体に近づく。そして布を持ち上げる。
「ケイト……」
顔が腫れ上がっていたが、輪郭が辛うじて確認ができた。
「マットはどこだ?」
「知らないよ!」
掴みかかりそうな勢いでにじり寄った彼に、女は顔を引きつらせる。
リックスは女に背を向けると駆け出した。家に行くと荒らされた後があった。しかしマットの姿はない。
たった数回食事をした仲に過ぎない。リックスには彼の居場所が想像できなかった。また家の様子から彼の安否も不明だった。
(だれが死のうが、俺には関係がないことだ)
第六十七部隊で多くの死を見てきた。自らもモンスターに変化した者達を何人も殺してきた。
人を思う情など、弟を見殺しにした時に無くなったはずだった。
§ § §
血の跡はリックスを導くように続いている。
絶え間なく続くそれは、既に致死量を超えているようだ。モンスターと言えども、動いているのが不思議だった。
(マット)
モンスターはマットに違いがなかった。姉の仇を打つためにモンスター化した。
今夜リックス達が警備したのは、ある貴族だった。街で見かけたケイトを手籠めにした上、殺したうじ虫野郎。
第六十七部隊として出動し、警備を固めている時に彼は偶然、屋敷の警備兵が話しているのを聞いてしまった。殴り付け、男達から聞き出したのはマットのこと。姉を守ろうとした彼を男達は袋叩きにし、川に流したと言っていた。
怒りに任せて男達を殺そうとした時、現れたのがモンスターだった。
その瞳、毛色を見てリックスはそれがマットだと思った。
モンスターを見て、体が動かない自分に驚いた。恐怖などではなく、リックスはこのまま殺されたいと願ったのだ。
弟を殺した罪、それを償いたかった。
八年前、リックスとその弟は街で高く売れる果実の採集のため、山に入った。そこで遭遇したオオカミの群れだ。後方にいた弟が襲われた。何匹ものオオカミが弟の体に被りつき、森を血で赤く染めた。
リックスは弟を捨てて逃げた。
肉片と骨と化した弟が発見されたのは翌日だった。見捨てた兄は裏切り者だと親にも見放された。一人になったリックスは街に出て軍に志願した。
軍で訓練を積み、戦地に向かう。訓練で鍛え上げた腕は彼を守り、彼は死ぬことはなかった。
八年前、弟を見殺しにした少年はもう、そこにはいなかった。
一年前、そんな彼に転機が来た。第六十七部隊に空きができたのだ。若いが戦い慣れしている彼は請われて入隊した。入隊後、何度かモンスターと対戦し、彼は迷いなく殺してきた。
モンスター化が解けた遺体を見ても、彼の顔色が変わることはなかった。
§ § §
血の後を追い、森の中にたどり着く。月の光が消え、リックスは嗅覚を頼りに血の跡を辿る。
八年前のあの時を思い出すような強烈な血の匂いがした。
悲鳴をあげる弟、何度も名前を呼ばれた。
しかしリックスの足はすくみ、動けなかった。そして一匹のオオカミが彼に気付き、顔を上げた時、彼は逃げ出していた。
生きる価値がない。
どうして生き残ったのかと、両親に糾弾された。
何度か死のうと試みたが、弱いリックスはできなかった。
誰かに殺してもらうために入った軍、そこでも死ぬことはなかった。軍でただ訓練に打ち込んだ彼は優秀すぎた。殺す者はいなかった。
(なぜ、生きてるんだ)
死を覚悟しているはずの彼、しかし体は勝手に動き、彼は死ねなかった。
ふいに視界が開けた。そして溢れる月の光。
光を受け、輝く白い花々。一点の曇りもない白色の花弁が十数枚重なり、月を仰ぐように開いていた。そして仄かな黄色く色づいた雄蕊と雌蕊は寄り添うよう花の中心を彩っている。
リックスは見たことがない美しい光景に目が奪われた。しかし微かに動くものを見つけ、走り出す。
探していた存在がそこにいた。
「マット!」
それは弟に似た顔立ちの少年。緑色の瞳は閉じられ、両目から涙のように血が流れている。懐の大きな傷からは血が噴き出し、モンスター化が解けた体を真っ赤に染めていた。
八年前の記憶が蘇る。
「リッ……クス……さん」
少年の声でリックスは我に返る。そしてマットを抱き起した。ぬるりと生暖かい血が服にこびりつく。
「リックスさ…ん。なん…で……、あそこに…いたの?俺…が……あいつらを、殺して、殺して……やる…つもりだったのに」
少年が声を出すたびに口から血が溢れ出る。
強烈な血の匂い、光景が八年前の記憶と重なり、リックスは動けなかった。話すと死期が早まるのに止めることすらできない。彼はただマットの言葉を聞いていた。
「俺は…悔しい。なんで、俺は…ここで死なないと……いけないんだ。あいつらを、あいつらを殺してやりたいのに」
そこまで言い切り、少年の体が大きく跳ねる。そして動かなくなった。
風がリックスと少年の周りに吹く。すると花が一気に散り、花びらが宙を舞った。月明かりの中でそれは粉雪のように見えた。
「キリサの花か」
誰も見たことがない花。
しかしリックスはそう確信した。
風が止み、花弁がゆっくりと二人に降り注ぐ。
(俺は何をしてるんだ)
リックスは自分の行動がわからなかった。何のためにモンスター、マットを追ったのか。何をしたかったのか。
(結局死んでしまった。弟と同じように。結局自分がこうしてまた見捨ててしまった)
『あいつらを殺してやりたいのに』
少年の言葉が脳裏によみがえる。
(マットの最後の願い……か)
リックスは少年の遺体を静かに地面に横たえた。キリサの花弁は風もないのに、舞い続けていた。
「甘い。こんなに甘いのか……」
舞い落ちる花弁を一枚掴み、それを口に含んでその甘さに驚く。それは蜂蜜のように甘く、口の中で溶けた。
「甘くてよかったな……」
リックスはマットに言い聞かせるようにつぶやく。彼が食した最後のものはこの花弁のはずだ。生前、甘いものが好きでケイトの作った菓子をおいしそうに食べていた。
みしみしっと音がした。自分の骨が声をあげていた。驚くことに痛みは感じなかった。月明かりの下でリックスの体が変化していく。モンスターになるまでに時間はかからなかった。
モンスターになった彼に、思考は存在してなかった。ただ一つの意志のみが存在していた。彼は全身を震わし、そう雄叫びをあげる。そして森を抜け、街へ駆け出した。