去年の夏のはなし
去年の7月の上旬、2人があの場所にはじめて訪れた日であった。その場所とは喫茶店と言おうか珈琲屋と言うのか、それとも今はカフェと仏語で趣向を利かせていうものなのであろうか、とにかくそのようなモノだった。梅雨もあけたばかりの日、丁度午後の講義が休講になっての大学からの帰り道だった。第二次世界大戦時、空襲を受けることのなかったこの地方都市のもっとも寂れた地域の狭い路地にたまたま迷い込んで見つけたのだった。その場所を見つけたのは必然であったのか偶然であったのかは自分が一番知っている。はず。
別に都会と言うでもなく田舎というでもない町から出てきて大学の近くでの下宿生活にも変化がなくなって来た3回生の夏だ。いつものように片桐と2人で地元の鉄道会社が経営する市電に目的地もなくふらっと乗った。最近、叫ばれ始めたエコやら節電やらのためエアコンの気温設定が高く設定されていたし真夏の昼間の日差しを受け体感気温35℃以上になっているであろう車両に居心地が悪く逃げ出したくなり、下りたのがその3つ目の駅だった。iPodで最近流行の涼しげなポップソングを聴いたがまったく涼しくはなかった。
新しい土地に、特別期待というモノを膨らませていたわけではないが、どこかしら人間という生き物は良い方向に転ばないかという期待はしているものだ。僕も片桐も人間である以上そういう思考には至ったわけだった。
うだるような暑さの車両から解放されホームを出て無愛想な駅員に乗車券を渡す。改札を出るとすぐ駅の外に出た。このときこの駅で下車したのは2人だけだった。とにかく喉が渇いていたので清涼飲料水の自販機を探した。しかし全く見つからなかった。この地域の開発が進んだ時期には自販機というものは存在しなかったのだろうか。とかどうでもいいことを考えつつ店を探した。いっこうに見当たらない。閉じられたシャッターと白線が消えかけている駐車場だけがあった。そして、役目を果たしていない信号機だけが僕を見つめていた。その間にも真夏の太陽は何億光年後には自己が破滅することも知らずに2人を照らし続けた。
喫茶店を探そうとして歩みを進めたわけではないが、或る一軒の喫茶店を見つけた。何かを探しにこの街に来たわけだが、探そうとしてでなく見つけた。要するに探すでもなくたまたまでもなく見つけた喫茶店だった。実際、僕は喉が渇いたからとか友人と雑談がしたいからとかいって喫茶店に入るような古風で他人とは一風違った人間ではなかったし。片桐もそんなシャレの効いた人間ではないが黙ってついてきた。
店の外観や雰囲気などには気も触れず、乾いた喉を潤すためだけにドアノブを引いた。疲れていたからなのか、古く軋んでいたからなのかは覚えていないが、とにかくドアは重苦しく感じた。けれども、店のドアに古びれた革ひもできつく結ってあるドアベルの音とオアシスの様な涼しい空気にとてもこの世のものとは感じられないほどの心地よさを覚えた。僕自身も涼しい場所に来ただけで「この世のものとは思えないほど心地よい」と表現するのはおかしいとは分かってはいた。心地よいと感じたのはそれだけが理由ではなかったからなのだろう。
2人が店に入ると誰もいなかった。レトロな店内とは不釣り合いな10年ほど前のブラウン管のテレビがほこりをかぶってコーヒーの豆達と兄弟のようにおとなしく座っていた。お昼のワイドショーのキャスターの声だけが小さく聞こえる。「すいません」と乾いた喉で小さく言った。またキャスターが「・・・最近の・・・は駄目ですね・・・らわないと。」とかしゃべり始めた。自我のない子供の頃はテレビッ子だった僕も最近はテレビはあまり見ない、ほとんど見ない。片桐は根っからテレビっこだが。もっと楽しいことは世の中にたくさんあるから。ここだけは一風変わっているのかもしれない。「すいませんっ」と今度はちょっと大きめに叫んだ。高い天井に木造の室内に声は響いた。
CMが始まりあのキャスターの顔が見えなくなった時、「トンッ、トンッ、トンッ」と革靴で木造の階段を下りてくる音がした。