第5話
食堂を辞めて三か月。ジェシーはいまだ、新しい働き口を見付けられないでいた。またもカッター氏に頼んだのだが、断られてしまったのだ。
悪いが、もう仕事は紹介したくない。そう、はっきりと言われてしまった。紹介できない、ではなく――したくない、と。
もっともだと、ジェシーは思う。これまで人に紹介してもらった仕事を、ことごとく辞めてしまっているのだ。しかも、働き始めて間もないうちに。誰だって、二度と紹介したくないと思うだろう。
ジェシーは今更ながら、自分の浅はかな行動に気付き、愚かな自分を呪った。
ふらふらと歩いていると、良く知った場所に来ていた。忘れるわけがない。毎日往復していた道だ。
(少しだけ……)
辞めてから、一度も近付かなかった食堂。
いつもなら自然と足が遠退いていた場所だったが、今日はなぜか、引き寄せられるようにそこへと向かっていた。
半開きになった窓から中を見ると、昼時はとっくに過ぎたというのに、席はほぼ満席状態だった。店内ではさまざまな会話が繰り広げられ、温かい雰囲気に包まれている。中からの様子しか知らなかったジェシーは、新鮮な思いで、その光景を見た。
身体を少し捻ると、厨房がぎりぎり見える。慌ただしく調理を続ける二人の料理人が、彼女の視界に入った。
「マット……」
かつての同僚の名を呟く。
懐かしさが急に込み上げる。
(でも……合わせる顔なんてない)
あれだけ酷いことを言って。あんな別れ方をしておいて。
そう思うと、ジェシーは無言で身体をずらすしかなかった。
彼の向かいには、一人の少女がいた。年の頃は、ジェシーと同じかやや下といったところか。ジェシーが辞めてから、新しく雇われたのだろう。くるくると動く姿が愛らしい。
マットが出した料理を、彼女が受け取って行く。言葉を交わしているのか、少女がにっこりと笑ったのが見えた。
「いらっしゃ……い――あ!」
「っ!」
半開きになった窓越しに目が合った瞬間、ジェシーは駆けだしていた。
(駄目だ、わたしっ……駄目だ!)
走りながら、ジェシーは思う。もう戻れないのだ、と。楽しかったとは言えないけれど、それでも大切だったあの日々には、決して戻れない。彼女の居場所なんて、とっくの昔になくなっているのだから。
気付けば、空は黒く色を変え始めていた。そろそろ帰らないと家族が心配する、とジェシーは焦った。ここのところ職探しに躍起になっている彼女を、両親が心配そうに見ているのを知っていたからだ。
しかし、帰路を急ごうとした足を、ジェシーは不意に止める。片足が時間をかけて地面に着いた。
(帰りたくないな)
家族の元に戻るには、整理できていないことが多すぎる。こんな状態で家に帰ったら、さらに心配をかけるだろう。
ジェシーは方向を変え、いつもは通らない道に入っていく。普段なら、暗い路地はそれだけで落ち着かなくなるのに、今日は平気だった。
「ここは……?」
しばらく歩いた先――目に飛び込んできたのは、一軒のレストランだった。
入口の狭い、小さなレストラン。よく見ると、屋根は真っ赤に塗られていた。
ジェシーはふらふらと近付いて行き、気付けばドアノブに手を伸ばしていた。
からんからん
来客を告げる鐘の音が響く。ジェシーは扉の隙間から覗くようにして中に入った。
「いらっしゃい」
「きゃっ!」
カウンターの向こうから低めの女声がして、ジェシーは飛び上がった。そこに人がいるとは思わなかったのだ。
「どうぞ。座って」
「あ、はい」
奥から現れたのは、無表情の女性だった。おそらく店主だろう。
彼女に勧められ席に着いたものの、ジェシーは所在なさげに周りを見回す。
「どうぞ」
メニューを見てもなかなか決めようとしないジェシーの前に、おまかせの料理が出された。魚料理がメインのようだが、真っ赤なトマトのスープが目に鮮やかで、ジェシーははっとした。
スプーンを手に取り、スープをすくっていく。
銀色の中に鮮明な赤が混じっていく――それだけのことなのに、あまりに綺麗すぎて、ジェシーは無性に泣きたくなった。
「……おいしい」
「そう。良かった」
「おいしい、です」
ジェシーは繰り返す。
彼女の目から零れ落ちたものは、木製のテーブルに小さな染みをつくった。
「おいしっ……うっ、うっ……」
もう、止めることは出来なかった。一つ二つと落ちていくと、ジェシーは堪えきれなくなってスプーンを置いた。
点々と染みが増え、または広がっていく。
ぼやけた視界の中で、皿に残る真っ赤なトマトが輝いていた。
「わたし……わたしっ」
喉がきゅうっと痛くなり、顔を上げる。そこには、やはり無表情の女店主がいた。
ジェシーはグラスを手に取り、一気に水を胃に流し込んだ。色々なものを呑み込むように。それを見た女店主は無言で奥へと引っ込み、次に現れた時には、代わりのグラスを手に持っていた。
「あ……」
ことりと、グラスがテーブルに置かれる。綺麗な音を立て、中で氷が泳いだ。
さっそくグラスに口を近付けると、柑橘系の香りがした。
(おいしい……)
どうやらレモンの香りがついた水のようだ。今度は時間をかけて口に含んでいく。酸味の中に甘みが感じられる、不思議な水だった。
指先で頬を伝ったものを拭き取ると、ジェシーは再びスプーンを手に取った。
(あそこの料理って、どんな味だったっけ)
トマトスープを口に含みながら頭に思い浮かぶのは、やはり大衆食堂のこと。そして、そこにいた人たちのこと――。
思い出しても仕方がない。もう戻れない日々を懐かしんだところで、どうにもならない。わかっていても、ジェシーの頭から彼らが消えることはなかった。
音を立てずにスプーンを置くと、ジェシーは女店主を見た。彼女はジェシーの方を始終見ていたわけでもないのに、タイミングよく顔を上げた。
「どうやったら、こんなおいしいものが作れるんですか?」
ジェシーの問いかけに、女店主は顔色一つ変えずに答える。
「愛」
「え?」
「嘘よ。まずは技術。当たり前じゃない」
彼女は、気だるげにカウンターに肘をついた。顎を手の甲に乗せ、やはり何を考えているのかよく分からない表情をして。
それに、ジェシーは「そうですか」と小さく言った。
「あの、ごちそうさまでした。凄く、おいしかったです」
お金を渡してもう一度言うと、女店主は「そう。良かった」と、最初の時と同じ台詞を口にした。
「……何?」
会計を済ませたのに動こうとしない彼女を訝しんで、女店主は声をかける。ジェシーは、食べながらずっと考えていたことを口にすることに決めた。
「あ、あのっ! お願いが、あるんですが……」
「何?」
ただならぬ言い方にも、女店主は表情を崩さない。
「わたしに、料理を教えてもらえませんか!? わたしも、こんなおいしいものが作りたいんです!」
「何のために?」
何のため? ジェシーは自分に問いかける。
おいしいものが作りたい、と言った。それは理由にはなり得ないのか。
(わたしは、どうして……?)
また、どこかで雇ってもらいたいから?
それとも自分でお店を開くため?
お金儲けのためなの?
(違う……)
少し前までは、そう思ったかもしれない。お金を稼ぐことしか頭になくて、それで人を傷つけて。でも、今は――。
(もう、逃げたくない。逃げたりなんかしない。もう一度、彼に向き合いたい。そのために――)
「食べてもらいたい人がいるんです。わたしの、料理を」
「そう」
「あ、あのっ!」
あまりにあっさりした物言いに、ジェシーは慌てる。どうやったら説得できるか分からない。それでも、簡単に諦めたくはなかった。断られても、何度だってお願いするつもりでいた。
しかし、その必要はなかった。
「私、厳しいわよ。それでもいいの?」
彼女はそう言って、初めて口元を緩ませた。