第4話
「あの、おかみさん。先ほどのお話なんですけど……」
「ああ、どうだい? ちょっとは考えてみたかい?」
いまだ興奮が冷めやらぬおかみさんは、お盆を拭きながら、ジェシーに顔を寄せる。面白がっているような表情で、あまり真剣な雰囲気は感じられない。
「お受けしようと思います」
「なんだって!?」
おかみさんは素っ頓狂な声を上げ、手に持っていたお盆を床に落とした。ステンレスの派手な音が店内に響く。
「わたし、エイデンさんにのところにお嫁に行きます」
「シェ、ジェシー!? なにも、そんなに急いで決めなくてもいいんだよ。一生のことだ、ゆっくり考え――」
「いえ、このお話、受けさせてください」
おかみさんの言葉を遮り、ジェシーは硬い声でそう告げる。確かな決意を感じさせる声に、おかみさんも開きかけた口を閉じた。
「ちゃんと考えたんです。自分のこと、家族のこと……そしたら、これが一番だって分かって……、だから進めてください。お願いします」
深く頭を下げた少女に、おかみさんは「そこまで言うなら……」と言った。その目はまだ納得しているようには見えなかったが、ジェシーはそのことに気付かなかった。
仕事を終えたジェシーが店を出ると、直後、閉めたはずの扉が乱暴に開かれた。びっくりして彼女が振り返るのと、名前が呼ばれるのはほぼ同時だった。
「ジェシー!」
合ってしまった目。完全に逸らすタイミングを逃し、ジェシーは視線を左右にさせる。
いやでも視界に入る同僚の顔は険しい。だが、ただ怒っているというよりも、どこか困惑しているようにも見えた。
「マット……」
なぜ、ここにいるのか。
そんなことを訊く必要はなかった。おかみさんとの会話を聞かれていたことは、知っていたから。
「また逃げるのか?」
ぐさりと、その言葉が胸に突き刺さる。「また」というのが、一か月前の、あの出来事のことを指していることは容易に知れた。しかし、
(違う! あの時とは違う!)
今度はちゃんと考えた。悩んだ。それで決断した。何も考えず嫌なことから逃げてきた、あの頃とは違う――。
そう言いたかったのに、なぜか否定の言葉は出てこない。「違う」の一言が、どうしても言えないのだ。
ジェシーは唇を噛む。こんな自分が、とても嫌だった。
「何か言えよ」
マットが不機嫌そうに言う。
何か言わないと、とジェシーは無理やり口を開けた。ところが運の悪いことに、言葉を発そうとしたのは彼女だけではなかった。
「そんなに、楽がしたいのかよ」
え、とジェシーの目が見開かれる。まさかそんなことを言われるとは思っていなかった。
楽。
確かに、金銭面では不自由のない暮らしができるだろう。働かなくても良くなるし、今よりもずっと楽な暮らしができるはずだ。けれど、
(そうじゃないのに!)
自分が楽をしたくて、そうするんじゃない。家族のため。家に借金があって、どうしようもないから。ジェシーはそう言いたかった。自分勝手な理由でないことを、彼にだけは知っていてほしかった。
しかし――なぜだろうか。代わりに出てきたのは別の言葉だった。
「だって! だって、お金が必要なんだもの! いけない?」
「なんだって?」
マットは信じられない言葉を聞いた、といった表情になった 。
「わたしはお金を稼ぐために働いているの! マットと違って、好きで食堂にいるんじゃないの! 料理だって、別に好きでも何でもないの! だから、働かなくてもいいんなら、わたしは働かないわ!」
震える声で、ジェシーは一気に捲し立てる。
マットは呆然とした様子で彼女を見ていた。
軽蔑されている。それが、はっきりとジェシーにはわかった。
しばらくの沈黙は、彼らにとって長く感じられるものだった。
遠くで子どもの騒ぎ声が聞こえる。学校からの帰り道なのだろう。ぱたぱたと地面を蹴る音とともに、楽しげな笑い声が響く。その声は近付いたかと思うと、あっという間に消えてしまった。
再び訪れた静寂のなか、マットはようやく口を開いた。
「……そうかよ。なら、勝手にしな」
「……ぁ」
相手に届くか届かないかという小さな声が、ジェシーから漏れる。
彼女の見た先には、公園まで迎えに来てくれた彼はいなかった。手を伸ばして、「帰ろう」と言ってくれた彼は、もういない。
「マッ――」
ジェシーがその名を呼ぼうとした時には、マットは既に背を向けていた。そのまま店の中へと入って行く。扉を閉める音だけが虚しく響いた。
運が良いのか悪いのか、翌日はジェシーの仕事は休みだった。あんなことがあった日の次の日だから、出勤するとなれば憂鬱だっただろう。だから、食堂に行かなくて済む――マットと会わなくて良いのは、随分と心が楽になるものだった。
心配事があるとすれば、エイデン家との話がどのように進んでいるのか、さっぱりわからないことだ。おかみさんは、もう返事をしてくれたのだろうか。それだけが少し気がかりだった。
(でも、もしかしたら昨日のうちに返事をしてくれたのかも)
あの興奮した様子からすると、可能性は高い。ジェシーはそうならいいな、と思った。
ところが、翌日に出勤したジェシーに、おかみさんは意外なことを言った。
「ジェシー、あの話なんだけど……」
そう切り出したおかみさんは、やや申し訳なさそうな表情でジェシーを見る。気遣われているような感覚に、ジェシーは嫌な予感を覚えた。
「無理しなくていいんだよ」
え、とジェシーはおかみさんを見る。予想外の言葉だった。てっきり、やっぱりあの話はなかったことに……と言われるものだと思っていたからだ。
「あちらさんから話があった時には、なんだい……ちょっと興奮しちまったけどね。あれから考えたんだよ。あんたが幸せになれるかどうか、ってさ。そしたらあたしは、この話を無理に進められなくなっちまったのさ。だって考えてもみな、エイデン商会の三男坊っていやぁ、この辺りじゃ評判のドラ息子だ。あんたが泣かされるのは目に見えてるじゃないか」
「でもわたし、もう受けるって……」
「それなら安心しな。あちらさんには、まだ何も返事してないよ。だから、今なら断れるんだ」
おかみさんの目は、ジェシーを説得しようとしているようにも見える。断れ、と。今ならまだ間に合うから、と。
しかしながら、ジェシーにおかみさんの思いは伝わらなかった。彼女は俯き、おかみさんの言葉を拒絶する。
(何でいまさら、そんなこと言うの? 決めたんだから! お嫁に行くって、決めたんだから!)
「ジェシー、あんた……」
彼女の態度に何を思ったか、おかみさんは更に気遣うような声色で問う。
「気持ちは変わらないのかい?」
「…………はい」
「後悔しないかい?」
「…………」
「本当に、それでいいんだね?」
「…………わたしっ」
顔を上げた瞬間、ジェシーは駄目だと思った。おかみさんの、全てを見透かしているような表情を目にした時、もう自分に嘘はつけないと思ってしまった。
「ごめんよ、ジェシー。あたしが、もっとよく考えりゃ良かったんだ。あんたを悩ませるようなことして……ほんと馬鹿だよ」
おかみさんの声には後悔が含まれている。心底、己の言動を悔いていることが伝わってきた。
「おかみさん……」
「嫌だってんなら、あたしが責任持って断ってやるさ。けど……ここにはもう来ない方がいいかもしれない。いや、うちは来てもらっても全然構わないんだけどね、断ったとあっちゃあ、あの三男坊が何をしでかすか分からない。あんたが嫌な思いをするんじゃないかと思うんだ」
ジェシーはこくりと頷く。付き纏われては迷惑だし、彼女自身も店に迷惑はかけたくない。
「本当にね、あんたは良くやってくれたよ、ジェシー。こんな形であんたを失うのは残念だ。もっといてもらいたかったんだけどね」
「……いいんです。今でお世話になりました」
ジェシーはそう言って、深々と頭を下げた。
店主に別れの挨拶をして店を出る直前、ジェシーは厨房の奥を見た。普段なら忙しそうに調理をしているはずの同僚の姿は、そこになかった。
しばらく厨房を見つめた後、くるりと踵を返す。会えなくて残念なのか、それともほっとしているのか、よくわからなかった。