第3話
ジェシーが店に戻ってきて、一か月が経った。会計はまだおぼつかないが、今では一人で後片付けを任されるようになっている。これから簡単な調理補助を覚えていく予定だ。
マットとは、あれからよく話をするようになった。聞けば、彼はコックになりたいのだという。いつか自分でお店を開くのが夢だと言っていた。
「まあ、まだ全然だけどな」
そう照れくさそうに笑う彼は、年下とは思えないほど大人びていて、ジェシーには眩しかった。
そんなある日、食堂にちょっとした事件が起こった。
「大変だよジェシー!」
休憩中のジェシーに、おかみさんが物凄い勢いで迫る。今まで休憩中に呼ばれたことがなかったので、彼女は何事かと緊張した。
「どうしたんですか?」
恐る恐る尋ねると、おかみさんは堰を切ったように捲し立てた。
「先週、あんたに話しかけてたお客さんがいたじゃないか。あのお客さんが、あんたのことを気に入ったらしいんだよ! あんたがまだ独り身なら、妻にどうかってね。どうだい?」
「ええっ!?」
その客とは、エイデン商会の三男坊である。エイデン商会と言えば、王都で知らぬ者はないほどの商家で、金貸し業も営んでいる。確か、ティレット家も世話になっているはずだ。
三男とはいえ、エイデン家の妻となれば、一生楽に暮らせるだろう。もしかしたら、実家にも経済的な援助をしてくれるかもしれない。そうなれば、家族を助けられるのではないか。一瞬にして、ジェシーの中に様々な思いが渦巻いた。
(でも)
迷いなくその決断が下せるかと訊かれれば、おそらく無理だ。少なくとも、喜び勇んでその話に飛びつくことはない。――今ならば。
(いいのかな、こんなことで)
ジェシーは一人、椅子の背もたれに体重を預け、ぼんやりと虚空を見つめた。
少し前なら、家のためと思って、二つ返事で受けたかもしれなかったことだ。
どうせ仕事は長続きしない。これといって秀でたものも持ち合わせていない。それならいっそお嫁にでも行った方が、よほど家に貢献できるのではないか――そう考えて。
けれどこの一か月、食堂で働いてみて、そんな考えが少しだけ変わった。
(わたしでも、できることがあるんだもの)
確かに仕事はキツい。今でもおかみさんに怒られることだってある。けれど、少しずつでもできることが増えていくのは、純粋に嬉しかった。働くことに、確かに楽しみを見出していた。なのに、このまま辞めてしまっても良いのか。
家族に相談すれば、「無理をしなくていいんだよ」と言われるに決まっている。彼女が働きたいと言った時でさえ、そうだったのだから。
優秀な姉たちが次々と進路を決めていき、じゃあ自分は何をすれば良いのだろうかと悩んでいたジェシーに、両親は「ゆっくり決めていいんだよ」と言ってくれた。焦らなくていいから、家のことを手伝いながら考えてみてごらん、と。
それがまるで、姉がいるからおまえは何もしなくて良い、というように聞こえて、ジェシーは悲しかった。だから、知り合いに頼んで働き口を紹介してもらったのだ。
(みんなには相談できない。わたしが、決めないと)
このまま食堂で働き続けるのか、それともお嫁にいくのか。
(わたし……)
ジェシーは俯く。薄暗い室内で、足元にうっすらと影ができた。
(わかってる、わかってるの……!)
ジェシーは膝の上で拳を作り、ぎゅっと押さえる。短く切った爪が手のひらに食い込んだ。
(一か月前だったら、きっと迷うことなんてなかったのに)
あの頃だったら――。
ジェシーは思い出す。
一か月前の、何もできなかった自分。
すぐに逃げ出そうとしていた自分。
あの頃の自分に戻りたいとは思わない。けれど、この時ばかりは羨ましかった。
テーブルの木目を視界に収め、ジェシーは静かに秒針の音を聞く。久しぶりに、時の流れを感じられた気がした。
「――――うん」
浅く頷いて、立ち上がる。休憩時間も終わる頃だ。早くしないと、またおかみさんに怒られてしまう。
そこへ、からぁん、という金属音が耳に入ってきた。びっくりして音のした方を向くと、続けて聞こえる「すいません!」との声。
「あ……」
ジェシーは、踏み出しかけていた足を止めた。
コックになりたいと言っていた同僚の顔がちらつく。二人で歩いたあの道と、彼の語った夢――それらが一気に蘇る。扉の先で起こったであろうことを想像しただけなのに、思い起こされたのは二人で過ごした日々のことだった。
つい最近のことなのに、何故か懐かしく感じられる記憶――。
それを振り払うかのように、ジェシーは首を振る。もう一度、今度は先ほどよりも深く頷いて、休憩室の扉を開けた。