第1話
ジェシーがその報せを受けたのは、午後の授業が始まる直前のことだった。
教官が教室に足を踏み入れた途端、おしゃべりに夢中になっていた女学生たちは、ぴたりとその行為を止めた。不自然な静けさが室内を占めるなか、教官は目ざとく目的の学生を見付け、よく通る声で名を呼ぶ。
「ジェシー」
「は、はいっ」
勢いよく席を立つと、静まり返った教室に耳障りな音が響く。普段から椅子の引き方を教育されていた彼女は、あっと口を開けた。
「すみません」
眉をひそめた教官に、ジェシーはいち早く謝る。それでも、お小言がくるものと覚悟したが、珍しく教官は何も言わなかった。
「いらっしゃい。ご実家から電報が届いています」
「あ、はい」
用件だけ言って教室を去ろうとする教官を、ジェシーは慌てて追いかけた。教官はとにかく歩くのが早い。ジェシーは走らないように気をつけながら――廊下を走ると怒られるのだ――その後を追った。
「これです。ごらんなさい」
ジェシーは「はい」と言って、やや緊張した面持ちで紙を受け取った。
(家からって……何なんだろう)
渡された電報の文字を追っていく。彼女の通う寄宿学校まで送ってくるなんて、よほどのことだ。一か月前の長期休暇の時に帰省したばかりだというのに、一体何の用だろうか。
教官室に来るまでは、「良い報せならいいんだけど」と思っていたジェシーだったが、彼女の希望はいともたやすく打ち砕かれた。
(え……?)
その信じられない単語を、何度も何度も読み返す。
(「借金」って……何これ)
そこに書いてあったのは、実家が事業に失敗して多額の借金を抱えてしまったこと、そして大至急帰って来るようにとのことだった。
王都のはずれに、昼時になるといつも賑わう大衆食堂がある。そこには腕のいい店主がいて、彼とその妻が中心になって切り盛りしていた。
「こらジェシー! ぼやぼやするんじゃないよ! こっちに来な、料理は上がってるんだよ!」
「は、はいっ!」
最も混み合う時間帯であるお昼時。決して広くはない客席は、勿論全て埋め尽くされている。平日に見られる、いつもの光景だ。
「ねえ、こっちにお水くれるかな」
「あ、はい」
客の要望を受け、ジェシーは水の入ったポットを取りに、厨房の手前まで行った。厨房からは、出来立ての料理が次々とカウンターに並べられていく。おいしそうな香りが、微風に乗って客席へと運ばれていた。
しかし彼女は料理には目を向けず、ポットを手に取る。からん、と中に入っている氷が涼しげな音を立てた。
(早くお客さんのテーブルに持っていかなきゃ)
そう思って客席へ向かおうとしたところ、
「ジェシー! なにやってんだい!」
再び、おかみさんの声が飛んだ。
「そんなことはいいんだよ! 早くこれを持っていきな!」
ジェシーの、「でも、お客さんにお水を……」という声は、店内の喧騒により掻き消される。奪うようにしてポットを取り上げられ、代わりに熱々の料理が手に乗せられた。
「どこに運ぶか、分かってんだろうね?」
「えっと……」
視線をさまよわせていると、厨房にいる少年と目が合った。彼は右手で食材を炒めつつ、左手である席を指している。おかみさんの声が聞こえたのだ。
「大丈夫です。分かります」
「じゃあ早く運んどいで!」
おかみさんの機嫌が悪くならないうちに、とジェシーは慌ててテーブルへと向かう。途中投げかけられた、「お水まだ?」との声に謝りながら、彼女はひたすら料理を運んだ。
目が回るような時間帯を過ぎると、食堂は一旦落ち着きを取り戻す。
ジェシーは布巾で、順番にテーブルを拭いていった。調理の補助をすることも、後片付けをすることも、そして会計をすることも出来ない彼女が任された、唯一の専用の仕事だ。
全てのテーブルを拭き終えたジェシーは、布巾を洗うために、厨房に入ろうとした。そこで、
「駄目だね、あの子は。全然使えないよ」
その会話を聞いてしまった。
(え? 何……?)
この声は、おかみさんだ。
顔を半分だけ覗かせて中を窺うと、店主の姿も見えた。他の従業員は休憩に入っているのだろう。二人だけのようだ。
本能で、今は中に入るべきではないと察する。ジェシーは布巾を握ったまま、声を殺した。この位置なら、中の声をしっかりと拾うことができる。
「カッターさんの紹介ならと思って、雇ったけどねぇ」
まるで、それが失敗だったと言わんばかりの言い様だ。ジェシーは、先ほどよりももっと強く、布巾を握りしめた。
(わたしのことだ……)
カッターさんの紹介で雇った人物といえば、ジェシーしかいない。今の会話だけで、ジェシーは自分が役立たずだ思われていることを知った。重宝がられているとは思っていなかったが、こうもはっきりと言われるとは――。
布越しに、爪が手のひらに食い込む。
「そういえば、あの子は何やってんだろうね。テーブルを拭いとくように言ってあるんだけど……まだ終わってないのかね」
(あっ)
空気が動く気配がして、ジェシーは身を固くした。続いて聞こえた、「どれ、見てこようかね」との声に、もう駄目だと確信する。
床を鳴らす三歩分の足音の後、予想通りに、二人は鉢合わせた。
「ジェシー!?」
おかみさんは驚きの声を上げ、目の前の少女をまじまじと見た。後に続く言葉は出てこない。
気まずい空気が流れる。ジェシー自身も、何と言って良いか分からなかった。様子を見ようと奥から出てきた店主も、あっと声を上げたきり口を噤んだままだ。
はっきりとした物言いが特徴的なおかみさんも、この時ばかりは口元を手で覆い隠し、視線をさまよわせる。彼女にとって予想外の出来事だったのだろう。
それでも、やっと手を下ろして口を開きかけ、
「――あの」
ジェシーの言葉に遮られた。
おかみさんと店主は、はっとして彼女を見る。黙ってジェシーの言葉に耳を傾ける二人に、彼女は驚くほど冷静に告げた。
「わたし……辞めます」
――こうして彼女は、三週間前に入ったばかりの食堂を辞めたのだった。