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今日も本当に幸せだ。
私より先にベッドに寝転びだらしない寝顔を見せる彼に、自然と私の頬も緩む。中学生の時にお互い惹かれて付き合って、そして今はもう二人して20歳になった。私は女子大生として日々勉強に追われる毎日、彼はIT関係の仕事に就いて日々業務に追われる毎日。
最初は別々に暮らしていても我慢出来た寂しさも次第には我慢することが難しくなって心がすれ違うことも多かった。そんな時、仕事も大学もない休日に彼が呼び出したのは全く知らないマンションの前で。もちろん私の家でも、何度も遊びに行った彼の家でもない。エレベータに乗って彼の言う通りの部屋の番号に着いて、何度か躊躇ったけど意を決してチャイムを鳴らした。
「やっと来たか。遅いよ」
チャイム越しに聞こえてきたのは、やはりと言うべきか当然と言うべきか彼の声で。部屋を間違っていなかったという安堵からほっと胸を撫で下ろしたけど呼び出しておいて遅いとはどういうことなのか。こっちは大学のレポートやら復習やら、色々としなければあらないことはあったのに。それにここは誰が住んでる場所で、何で彼がここにいて、どうして私を呼び出したのか。聞きたいことも不満も文句もいっぱいあった。
あった、はずなんだけど…。
「よっ、とにかく入れって」
「はい?ちょ、ちょっと待ってよ」
「ああ、別に他人の家とかじゃないから」
「じゃあ一体誰の――」
「だから入れば分かるって」
ドアを開けたと思ったらいきなり入ることを勧められて私は文句を言う前に戸惑った。確かに、私が戸惑った理由を彼が先に気付いて説明してくれたのはいいけど…じゃあ、誰が住んでるの?誰の家なの?でも確かに入らないと話は進まない。私は諦め半分不安半分で彼の勧め通り足を踏み入れた。
そして足を踏み入れた先の玄関を見て、言葉を失った。そこまで広くはない、けど一人身の人からしたら十分なスペースのある玄関には昔私が作った三百羽鶴が壁に掛けられていた。けど、あの鶴は確か私の家にあるはずのもので…でも私が今まさに掛けられているのは私が折ったもの。
「こんなことで驚いてたら、先が思いやられるんだけどな」
苦笑い気味に、でも嬉しそうに言う彼に私は何も返せなかった。とにかく、と肩に手を置かれて先に進み最初のドアをあけるとそこは広い空間だった。もちろん、一人の人間が使うにしては、だけど。それでも二人の人間が使ってもそこまで窮屈な印象は受けないと思う。カウンター付きキッチンに、セットだろうことが窺える同じ木の素材の机と二脚の椅子がリビングの半分を占める。さらにもう半分を占めるのは低く丸いガラステーブル、そしてその前後の二人掛けのソファとテレビ。他にも壁際には棚とか色々小物があって間違いなく彼一人のものじゃないことが分かる。
リビングの中でまた言葉を失う私に、彼はやっと嬉しそうに説明を始めてくれた。
「だから言っただろ、あんなので驚くようじゃ先が思いやられるって」
「…えっと、そういう問題?というかここって誰の家なの?」
「だから他人の家じゃないってば」
「そうじゃなくて!だから誰のって聞いてるの!」
勿体ぶるような彼の話に少し苛立った私がキッと彼を睨み上げてそう問い詰めれば彼は溜息をついて私の頭を撫でた。撫でられているような気分じゃないけど、答えを早く聞きたくて私はその手をどかすことはしない。
「まあ、そうだよな…こんな回りくどい方法じゃ分かんないか」
「…何の話?」
「ここは、俺の家だよ」
彼の言葉に、私は目を見開いた。就職が決まっても、お金を貯めたいからと言って実家から通っていた彼が一人暮らし?いや、でも椅子もソファも一人用じゃないのは何で?さらに疑問が浮かぶもうまく言葉にならず私は彼の言葉を待つことにした。
「確かにここは俺の家だけど」
そう言って彼はコホンと軽く、わざとらしい咳払いをして、言う。
「今日からお前の家でもあるんだ」
………彼の言葉を理解するのに数十秒かかった。
かかって、ようやく私にも理解が出来たけどあまりの突然のことにまた言葉が出ない。そういえば、よく見れば棚の上には私と彼の写真がある。ソファや絨毯の色も彼の好みとは違う。
「…何で」
ようやく出たのはその一言。何で言ってくれなかったのか、何で相談さえしてくれなかったのか、何で―――こんな嬉しいことを。
「何でってお前な…そこは彼女らしく抱き着いて涙目でお礼言うとこだろ。あ、上目遣いもな」
「…それはともかく」
さりげに自分の願望入れてきやがった。私の最後の感動を返してほしい。
「何で急に?そりゃ、もちろん嬉しいけど」
「別に急じゃないさ。この為に今までは実家から会社行ってたんだし」
初耳だった。また、思わず目を見開いた。この為にということは、彼はずっと私と一緒に暮らしたいと思ってくれてたんだ。そのことが嬉しくて、私は彼に抱き着いた。「おっ?」と驚きながらも頭一個分背の低い私を受け止めて頭を撫でてくれる彼を軽く見上げ、本当に小さく、蚊の鳴くような声でお礼を言った。きっと私の顔は赤くなってる、そんな自覚を持ちながら。
滅多にしない私の行動に、彼は面食らって固まってから私の頭に顎を乗せて私を抱きしめる腕に力を入れた。
「…やっべ、それ反則だろ」
「そ、そっちがやれって!」
「まあ、うん、そうだけど。涙目よりその照れた顔の方が何倍も可愛いってどういうことだよ。いや、涙目も好きだけどさ」
「そんな話してない馬鹿!」
彼の腕の中で必死の赤い顔を隠しながら、私達はしばらくそうやって抱きしめ合ったままでいた。その後は彼から貰った合鍵で何度か行き来して私の私物も増やしていった。
二年も経った今じゃ、彼の言葉通りここは私の家でもある。一緒に住み始めたことで新婚夫婦のようなことも何度か経験した。ある時は料理を作って彼がそれを泣きながら食べていたり。彼と一緒に晩御飯を食べたくて待っていたらいつの間にか食卓の上で寝ていて、帰ってきた彼に苦笑いされたり。もちろん、喧嘩だってした。そのほとんどが覚えていないようなくだらないことだけど、仲直りしない日はなかった。
お互いが変に気遣ったりしないから衝突することはあるけど、私達はいつだって本気だった。本音を言い合い、けど頭ごなしに否定するんじゃなくて理解出来ないものは理解できないとちゃんと説明する。譲れないものほどちゃんと向き合って、妥協できるものはお互いがお互いを想いながら折り合いをつけていた。そうやって過ごした二年間は、本当に幸せだった。
今は過去を振り返ってるだけであってきっともっと、幸せなことは続いていく。彼と一緒ならそう信じられる。
「…大好きだよ」
寝ている彼の額にそっと口づけをして、起こさないように私もベッドに入り目覚まし時計代わりにしている携帯を片手に寄り添うように眠る。微睡む中で、彼の温もりを感じて、幸せを噛みしめながら。
そして、夢を見た。
ここは海辺の海岸で、隣にいるのはもちろん彼。手を繋ぎながら夕暮れの海を眺め二人で寄り添う。綺麗な海の夕暮れと彼の甘い愛の囁きと、二人のその薬指には今はない銀色のシンプルな指輪が――――。
ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ。
…その機械音が、幸せな夢をぶち壊した。この聞き覚えのある音に舌打ちしながら私は覚醒しつつある意識の中でその音を止めようと手に持つ携帯を開く。時刻は設定時間の7時ジャスト。五月蠅い音を止め数十秒後、私は跳ね起きた。
…どうなってんの?!
思わず叫びそうになったのを我慢した自分を褒めてみる。しかしそんな現実逃避をしても現実は変わらない。
「…………どうなってんの」
結局は叫びそうになった言葉を小さく呟くことになった。いくら考えても言葉は出ない。まず、私は昨日彼と一緒のベッドで寝たはず…なのに、隣に彼はいないどころかベッドがやたら大きかった。多分、キングサイズくらい?しかも私好みのシーツはどこにもなく、シーツも枕も全部真っ白。さらに上を見上げれば天蓋だったかな?とにかく貴族とか昔のお金持ちの人たちが使うようなやつ。要するに、キングサイズの天蓋ベッドってこと。
…いや、そうじゃなくて。私何でそんなとこで寝てんの?とにかくこんな高いベッドにいて変に勘違いされても嫌だし出よう。混乱したままの頭でそう思ってベッドを出るとさらに頭が混乱した。
私はいつも寝るときはワンピースタイプのパジャマを着ている。確かに今着てるのもそうなんだけど…どこか違う。そもそも私のパジャマにボタンはない。なのにこれは襟があり、そこから太腿付近にかけてボタンがある。何で?私いつの間に着替えたの?思い出そうと頭をいくら捻ってもそんな記憶はない。
…ちょっと待って。何だか私、いつもより目線が高いような。足元を見ても靴なんて履いてない。裸足だ、うん…うん?なんか私の足大きい?混乱が絶頂に達しそうになった時、ノックをする音が聞こえた。慌ててそっちを見ると何やら人の声が。
「ちょ、ちょっと待ってよ…」
しかしノックなんかよりもっと大事なことに気付いた。ここ、私と彼の寝室じゃない。改めて部屋を見渡すと、あの大きいベットにそばには小さなランプ、壁には大きな木の棚…?があった。あ、天蓋の上の方だけ深みのある赤だ。明らかにここは誰かの寝室、そして私室だ。何で?何で私こんなとこにいるの?頭を抱えてもどうにもならない。…あれ?何かもう一つ気になることがあったような。