烏が鳴いたら
手の中で少しずつ、熱を失っていくカラスの雛をじっと見つめながら幼い私は泣いている。
この雛に何かしらの愛着があった訳でもない。
それも当然で、公園の桜の木の根元に落ちて弱々しく鳴いていた雛を見つけたのは、まるで偶然なのだ。
それを見つけた幼い私には、どうして良いのか判らなくなり、両手ですくい上げたカラスの雛は熱を失い、先程まで助けを呼びかける様に鳴いていた声も、今は無い。
私の手の中で死んでいった雛を、ただ泣きながら見ることしか出来ない私に、祖母が言う。
――この雛は死んでしまったの。
私はこの時、初めて"死"というものに触れた。
悲しい訳ではなく、ただ恐ろしくなり泣き続ける私の頭を、祖母の皺だらけの手が優しく撫でる。
――その子を弔ってあげましょう。
祖母はそう言うと、私の手の中で冷たくなったカラスの雛をそっと受けとり、公園の片隅に穴を掘り、小さな花を添えて葬ったのだった。
*
数年後、元気だった祖母は認知症を煩い入院した。
幼かった私はまだその事は判らず、入院した祖母の見舞いにいくと遊び相手になってくれる、子供の様な祖母とのお手玉やアヤトリをして遊ぶのが楽しみであった。
そんな祖母との遊び相手としての関係は、私が思春期を迎え家の事に対して反発を持つようになると自然に終わった。
やがて、私が高校に上がる頃には祖母も認知症の症状が進み、もはや家族の顔すらも判らなくなり、祖母が病院の中で顔の判らない"お客さん"に来てもらい、話すのが楽しいと母に嬉しそうに語り掛けるのを見たときに、私は途轍もない喪失感に襲われ再び祖母の病室へ頻繁に通う様になったのであった。
・
――今日は、来てくれるのかしら?
晩年の祖母は学校の帰りに見舞いに訪れた私に向かって、そう訊ねる事があった。
その時はきっと、祖母の知り合いが訪れてくれているのだろうと思っていた。
しかし、ある日看護士の人と話をしている時にその話題を振ると、看護士は訝しげな表情でこの数週間は私と母以外の誰もお見舞いに来たことは無い、と言うのであった。
祖母が、私か母の事を言っているのかと結論付けたのだが、その疑問は私の心の片隅に残り続けたのだった。
そして、すぐにその答えを祖母から聞く事になるのであった。
いつもの様に、学校の帰り道にある病院へ足を向けた私は、不思議な光景を目にする。
病院の外からじっと、祖母の病室のある窓を覗いている一人の少女。
それだけならば別に奇妙な事はないだろう。
しかし、問題なのはその少女の服装であった。
まるで、喪服のように真っ黒なワンピースに身を包んだ少女に、私は不謹慎だと思うよりも先に、酷く嫌な予感を感じて、私はその少女の前から祖母の病室へと逃げるように早足で向かうのであった。
そしてその事を祖母に話すと、祖母は目を丸くして少し驚いた表情を見せすぐに嬉しそうに笑う。
――今日も、来ていてくれたのね。
祖母は嬉しそうにそう言った。
不意に、祖母のベッドの枕元に在るソレに気が付くと、嬉しそうに微笑んでいる祖母に私は訊ねる。
――コレは私の宝物、あの子が持ってきてくれたのよ。
祖母はそう言って、嬉しそうにその宝物を私に見せる。
コインやガラス玉、プルタブ等のガラクタも混ざっていた。
その宝物を祖母は大切そうに枕元へ並べると、その中の一つを私に手渡した。
それは、緋色の石で勾玉の形状をした、祖母が昔から大事にしていた本物の宝物であった。
――コレはね、もう私には必要ないの。だからあなたにあげるわ。
そう言って、祖母は私に緋色の勾玉を握らせると微笑む。
こうして、祖母から緋色の勾玉を譲り受けたあの日からというもの、その黒いワンピースを着た少女は、いつも同じ場所から祖母の病室を眺めていたのを、私はその後も見かける事となるのであった。
・
ある日、授業中であった私は職員室へ呼び出されると、母からの電話で祖母が亡くなった事を知る。
担任の教員に許可を取り、私はその日、早々に授業を切り上げ病院へと向かう。
そこで私はちょっとした違和感を覚えた。
あの黒いワンピースの少女が、じっと祖母の病室の窓を眺めていたのだ。
私は、あの少女がきっと死神やそう言った、祖母を連れて行ってしまう類のモノなのだと思っていたのだ。
しかし少女は祖母が死んだ後も尚、じっと窓を眺めてその視線を外そうともしなかった。
そして、私は少女を横目で見ながら祖母の病室へと急ぐと、そこには父と、母が寄り添うようにしてすすり泣く姿があった。
祖母の死に顔は、とても穏やかで安らかなものであった。
私は本当に死んでいるのか判らずに、その手を握る。
だが、祖母の温かかった手は、いつか手のひらで冷たくなっていった雛の様に、熱を持たず、冷たい。
私は祖母が死んだ事を、その時初めて受け入れたのだ。
そして、祖母の大事にしていた宝物の入った箱を見つけると、私は呆然とその箱に手を伸ばしその箱を持って帰宅するのであった。
*
その日、私は夢を見た。
夢の中には真っ黒なワンピースを着た少女が、幼い私を待っていた。
私は、その黒いワンピースの少女が祖母の子供の頃の姿であると気が付くと、お手玉やアヤトリで遊んだあの幼い日の様に私と祖母は夢中に遊んだ。
やがて、空が夕暮れ色に変わる頃、私はふと帰らねばならない気がして祖母に告げた。
――もっと、遊ぼうよ。
少女は私の手を掴み、引き留めるようにそう言う。
私が躊躇うと、少女はオハジキやメンコを私の手に握らせて無邪気に笑い言う。
――遊び足りないもの……もっともっと一緒に遊ぼうよ。
少女はそう言うと、力強く私の手を握りしめる。
その熱の無い、ヒヤリとした手は私の手が痺れる程強く、握りしめてくる。
私が恐怖で顔をしかめ、その手を振り払い拒絶すると少女はスッと目を細める。
――どうして?
少女は、怯む私に近づく。
――どうして、遊んでくれないの?
再び少女が手を伸ばす。
そして、その手が私の胸元に触れた瞬間、その声が響いた。
まるで、何羽ものカラスが一斉に鳴き始めたかの様な、騒がしいカラスの鳴き声の大合唱。
私の胸元では強く温かな光を放つ。
私はその胸元に在る、緋色の勾玉を見た。
勾玉は光を放ちながら私の胸元から浮き上がり、やがて姿を変えていく。
それは一羽のカラスとなり、黒いワンピースを着た少女姿の祖母を見据えると、カァと鳴いた。
――もう、帰らなきゃ。カラスが鳴いたら帰る時間だわ。
そう言って、少女は無邪気に笑うと、その身体は無数のカラスの姿に変え、夕焼けの赤い空へと融け、羽ばたいて行くのであった。
身体の半分以上がカラスとなり、羽ばたいていかんとする少女は、最後にもう一度だけ微笑み、私に告げた。
――ありがとう、さようなら。
そして、その言葉をきっかけに私の意識は遠くなり、やがて全てが闇の中へと溶けて行くのであった。
*
目を覚ますと私は自分のベッドでは無く、祖母の見舞いに通っていた病院の一室に居た。
あの日、私は祖母の大切にしていた宝物を入れていた箱を手に取った直後に意識を失い、そのまま原因不明の高熱にうなされ続けて、三日三晩眠り続けていたのだと言う。
きっと、祖母が私を連れて行こうとしたのだと、母は言う。
しかし、あの夢の中で私に手を伸ばした祖母は、ただ寂しかったのだと私は思う。
あの頃の様に、もう一度だけ無邪気に遊ぶ相手が欲しかっただけなのだ。
そして、祖母の願いをあの黒いワンピースの少女が叶えたのだろうか。
思うに、あの少女はかつて私が看取ったカラスの雛だったのかもしれない。
ありがとう、と言う言葉の意味は祖母だけではなく雛を看取り、弔った私と祖母へ対する言葉だったのだろうか。
その意味を知ることはもう出来ない。
しかし、あの雛のおかげで、祖母と私は救われたのだという確信はあった。
熱のせいで少しだるいし、身体の節々も痛い。
けれども、その熱も痛みも総てが生きていると言う証なのだと私は感じ、いつの間にか手に握っていた祖母の緋色の勾玉に、優しげな祖母の温もりを覚えると、誰に言うでも無くつぶやいた。
「ありがとう」
それは、誰に感謝する言葉なのか。
自分自身でも判らないけれど、私はその時初めて心の底から、その願いを込めた言葉を呟いたのであった。