風に散る花
すべての子供が、母親に愛されて幸せに過ごせますように。
初めて「わたし」というものに気づいた時、
わたしは箱の中にいた。
ぼろぼろのダンボール箱がわたしの家。
その頃の「わたし」には名前がない。
部屋の中が明るくなって、暗くなる。
それがわたしの一日。
お腹はずっと減っていた。
時々「ママ」が箱に投げ込んでくれるパンやお菓子が、
わたしのわずかなエサだった。
箱から出るとママが怒るので、
わたしはずっと、狭い箱の中でじっとしている。
「パパ」といわれる人が何度か変わり、
なつかないとママにしかられるので、
わたしは一生懸命、パパを好きになろうとした。
ママは好き。
どうして好きなのかわからないけど、わたしはママを好き。
ママにわたしを好きになってもらいたいと思う。
でも、わたしがちっともいい子じゃないので、
なかなかママに好きになってもらえない。
わたしはもっとがんばって、いい子にならなきゃと思う。
明るいのと暗いのを何度も何度も繰り返した、何回目かの暗い時に、
わたしは熱いお湯をかけられた。
たぶん、わたしが悪い子だったからだと思う。
熱くて熱くて、いっぱい泣いてしまったので、何人目かのパパに
たくさん殴られた。
そうして今度は冷たいお風呂の中に漬けられて、気がついたら
違う場所にいた。
新しい場所は箱の中ではなく、エサを投げられることもなかった。
人間みたいだと思った。
わたしはそこで初めて、わたしには「風花」という名前が
あるのだと教えてもらった。
「ここは安全だよ。」と優しそうなおばさんが教えてくれたけど、
ママがいないので寂しくなった。
「風花」という人間になってからしばらく、わたしは
シセツというところで暮らした。
そこにはたくさん人間の子供がいて、わたしと同じように
体が傷だらけの子供もいた。
背中にたくさんのタバコの跡をつけた男の子は、
「早くママが来てくれるといいな。」と笑って言った。
わたしもママに会いたいと思った。
私が「しょうがっこう」に入る時、ママが迎えに来てくれた。
やっとママと一緒に暮らせる。
シセツの人も、おめでとうと言ってくれた。
わたしのすごく素敵な日。
おうちに帰って、やっぱりいつもお腹の空く日ばかりだったけど、
ママと暮らせるから、わたしはしあわせ。
ママはよく恐い顔で、ホウキの柄でわたしを殴ったりするけれど、
「パチンコ」というものがうまくいった時なんかは、
わたしにお菓子をくれたりする。
優しくしてもらえると、わたしはすごく嬉しい。
もっといい子にしなきゃと思う。
ママが怒らなくてもいいように、いい子にならなきゃ。
小学校はつまらないところだった。
勉強はよくわからないし、男の子たちが、わたしのことを
くさいと言う。
洋服が汚れているのがいけないらしいので、
小学校のせっけんで洗ってみた。
乾かすところがなくて、濡れた服を着たまま帰ったら、
家に入れてもらえなかった。
その時は冬だったから、とても寒くて、
冬に洗濯はやめようと思った。
小学校はきらいだけど、給食は好き。
給食を食べた時だけ、お腹がいっぱいになって、すごく幸せになれる。
だから給食がない日は、泣きたくなるほど悲しい。
あんまり給食がおいしいので、みんなのパンの残りを集めて
こっそり持って帰って、ママにプレゼントしてみたら、
みっともないと殴られた。
わたしはママの喜ぶことが上手にできない。
もっともっと、いい子にならなければ。
わたしがいつもお腹を空かせているから、時々近所のおばさんが、
ごはんをわけてくれる。
おばさんの作ってくれるごはんは、給食よりずっとおいしい。
何度目かのごはんをもらった時、そこのうちのおじさんが、
「野良猫にエサをやるようなマネをするな。」とおばさんを怒鳴っていた。
わたしが来ることで、優しいおばさんが悲しい思いをするのはいやだ。
小学校から帰る時、わざとその家の前は通らないようにした。
学校からの帰り道の公園で、「猫にエサをやらないでください」と
書いてある張り紙を見た。
日向ぼっこをしているおばあちゃんに、「どうして?」と
聞いてみた。
「責任持って面倒を見るつもりがないなら、エサをあげるのは無責任だってことだよ。」
「エサをやるなら、ちゃんと飼いなさいってこと?」
「まぁ、そうだね。」
飼ってもらえないからノラなのに、ごはんももらえなかったら、悲しくなると思う。
「ノラネコはどうしていけないの?」
「迷惑だからだよ。」
いるだけで迷惑だなんて、ノラネコはなんてかわいそうなんだろう。
公園の隅に、白い小さな子猫がいた。
病気なのか、目にたくさん目やにがたまっている。
やせて力のない猫。
私は何もあげられない。
「ごめんね。」
帰るところのない、かわいそうな猫。
私はちゃんと、おうちがあるんだ。
ごめん。ごめんね。
家に帰ると、いきなり殴られた。
夏休み前で給食がなかったので、あんまりお腹が空いて、
ママのお菓子を食べたのがばれたのだ。
「ごめんなさい。」
涙が出そうだったけど、ぐっと我慢する。
泣くともっと、怒られてしまうから。
一生懸命謝ったけど、家の外に出されてしまった。
外は雨が降り始めていたけど、冬じゃないから寒くない。
はだしで道を歩きながら、寒くなくてよかったと思った。
公園の隅にいた猫は、雨に打たれたまま動かなくなっていた。
名前もなく死んでいった猫。
せめて名前くらい、つけてあげたい。
風花というのは、雪の名前だとシセツの人が言っていた。
晴れた空に降る雪の名前。
誰がつけたのかわからないけど、すごくきれいな名前だと思う。
わたしは冬に生まれたんだろうか?
きれいな名前をつけてくれたのが、ママだったらいいな。
猫には風花の一字をとって、ハナちゃんとつけてあげた。
ばいばい、ハナちゃん。
次に生まれてくる時は、やさしい飼い主が見つかるといいね。
夏休みのある夜に、ママが花火を見に連れてってくれると言った。
すごく嬉しい。
町内会館の張り紙で、花火の日は明日だって知ってたけど、
ママが一緒におでかけしてくれるから、そのことは言わないことにした。
近所で一番高いマンションの、螺旋階段に立った時、
ママはしばらく黙ったままだった。
「ママ、ここで花火見るの?」
「高いからね。よく見えるよ。」
「誰も来てないよ?」
「一番よく見える秘密の場所だから。
もうすぐ花火が始まるよ。」
ママは私を抱きかかえ、階段の手すりに乗せた。
下から風が吹き上げる。
車がミニカーみたいに小さく見えた。
「ママ、風花のこと好き?」
ママは何も答えてくれなかった。
「風花はママのことが大好きだよ。」
晴れた日に降る雪は、積もることなく消えてしまうの?
夏なのに、雪が降っているように見えた。
きらきら光る、きれいな雪。
「ママのことが、一番好き。」
でも喜ぶことが上手にできなくてごめんね。
ママがくれた、風花のいのち。
ママが大好きだから、返してあげる。
ママは喜んでくれるだろうか?
わたしはゆっくりと、自分から前に乗り出した。
空を飛んで、空に還る。
ママ、大好きだよ。