大陸最大都市バルメイロへ(中) 夢
ここはどこだろう。
気づけば俺は倒れていた。もちろん、姿はドラゴンのままのようだ。
とにかく、起き上がろうとするが身体が動かない。
なぜ…
なぜ身体が動かないのであろうか。別に何者かに抑えられている訳ではないし、縛られてもいない。
鱗を通して地面の冷たさや、湿り、凸凹も微々たるものながら感じられる。それに、空気の湿り気、水しぶきの音、水の匂いも感じ取れる。
だが、それらの感覚はあるのに指一本、ぴくりとも動かないのだ。
俊が途方に暮れていると、突然自分の体が不意に動き出した。それは俊の意識で動いた訳ではない。俊は何も力をかけていないにも関わらず体が勝手に動いているのだ。
その一頭のドラゴンが、湿った地面に立派な四肢でその巨体に見合う体重を預けると、前に歩き出した。
もちろん、勝手に体が動いているわけであるから、俊の意識はただ呆然と感覚器官からの電気信号を受け止めているだけだ。それはまるで俊自身が自分を自分の中から傍観しているようだった。
この時に気づいたのだが、自分の体が幾分小さくなっていることに気がついた。人間ほど小さくなっている、というわけでもないが、少なくとも元の大きさより半分くらいの大きさまで体が縮んでいる。まるでまだ子供のドラゴンのようだ。
しかし、俊はそんなことをあまり気にしなかった。むしろ何故俺がこんなところにいるのか、太一や真也、アンナそしてハクはどこなのか。そっちの方が遥かに気になっていた。
薄暗く湿った洞窟。断続的な水しぶきの音から微かな風の音が感じ取れる。
この身体は洞窟の出口に向かおうとしている。
俊はそう直感した。
しばらく歩くと目の前に水のカーテンが現れた。カーテンの奥から陽の光が射し、水のカーテンは煌めいていた。
どうやらここは滝の内側にできた洞窟のようだ。
それにしても大きな滝だ。ドラゴンの雄叫びをも凌ぐ滝の轟音が洞窟を揺らし、洞窟の入り口付近では豪雨の如く水が散っている。
あの滝の外。そこには外の世界が広がっている。俊にとっては外の世界は見慣れた光景だ。だが、今はそれがとても新鮮な気がする。
この体で目の前の滝に打たれ、外の世界に飛び出そうとするものなら、その時は滝の勢いに呑まれ、滝の落下点まで真っ逆様だろう。
そう考えるとぞっとする。
しばらく、この滝の前で立ち尽くしていると、水しぶきの轟音の中から重低音の足音が聞こえてきた。よく耳を澄ますとそれは滝の方とは逆、後ろから聞こえる。
「おっ、ゼルフォスじゃん。明日の儀式の下見かな。」
この身体が後ろを振り向こうとする前に背中の方から声が聞こえた。
振り返るとそこには赤い紅の鱗、大きさは目線の位置からして俊と同じくらいだろうか。少しドラゴンにしてはひょろりとした体型のドラゴンがいた。
「まあな。お前もそんなところだろ。セコ。」
体が俊の意に反して、対面するドラゴン、セコに話し出す。
「おう。この儀式が終わればオイラ達は立派な大人のドラゴンって認められるんだ。なんだか、どうしても気になっちゃってね。」
「俺もだ。
この百年間。俺たち、ガキはこの洞窟のことしか知らなかった。あの滝の向こうを一目すら見たことがない。
そして明日、試練の儀が終われば一人前のドラゴンとして認められると同時に俺たちはここの外。世界を見ることが出来るんだ。
これを落ち着いていられるわけないさ。」
俊は何故、"自分は見たこともないドラゴンとこうやって意味の分からない話をしているのだろう。"という疑念が頭の中でうずまく一方で、ひとつの仮説が浮かんだ。
今見ている光景は俺が憑依しているドラゴン、ゼルフォスの過去ではないだろうか。
そう考えればこの身体の大きさや今の状況を納得することができる。
今、見ている光景は身体の持ち主の過去。そう考えると、偶然掘り当てた油田の湧いてくる石油のように、興味が湧き純粋に"知りたい"と思った。
何故、自分がこうやってゼルフォスの過去を見ているのかなど、もうどうでもよく思えた。
「あっ、グレイだ。
グレイも明日の儀式でジッとしてられない感じ?」
セコがふと気づいたように後ろを振り向くと、洞窟の奥の方から俺らを通り越し上から下に流れ落ちる滝を眺めている灰色のドラゴンが立っていた。
どうやら、グレイという名らしい。
「ふん。そんなわけないだろ。俺はただここを通りかかっただけだ。
お前らと一緒にするな。」
グレイはぶっきらぼうに言うと目を細めた。
「そんなこと言うなよ~オイラ達四頭。今マルバスいないけど、70年前からの友達だろ~。
ったく。素直になれよ。頑固なところは昔から変わんないなぁ~。」
セコが言うとグレイは無言のまま、ぷいと後ろを向き、そのまま俺らに背を向けたまま洞窟の奥、暗い闇の中に溶けるように消えてしまった。
そういえば、今セコが言ったマルバスといえば、この世界に来て出会ったあのマルバスであろうか。ならば今はあの場所にセコやグレイもいたのだろうか。
俊は記憶を掘り出して、洞窟で出会ったドラゴンの面々を頭の中で思い浮かべて見るが、どうも該当するドラゴンは浮かんでこない。
俊が考える間にも会話は続く。
「ったく。あいつはほんと頑固だよな~。いい奴なんだけどさ。」
セコが呆れたようにため息をつきながら言う。
「仕方ないだろ。グレイは俺たちが初めてあった時からああゆうキャラなんだ。今更直しようがないさ。」
「まっ、そうだよな。
それより、グレイの苦手なものって知ってる?」
セコが急に何かを思い出したように、悪戯じみた笑顔でゼルフォスに聞く。
「何だよいきなり」
ゼルフォスは太くて長い尻尾を大きく横に振りながら答えた。
「あいつ、あんな頑固者だけど蜘蛛が大の苦手らしいよ。
この前、オイラがグレイと歩きながら話している時にさぁ、あいつ急に悲鳴を上げたんだ。
その次にじたばたし始めて、何事かとオイラはグレイに聞いたんだ。そしたらアイツ、
『蜘蛛の巣に引っかかった…蜘蛛…背中に…早く…取って…くれ…』
って震えながら叫んでたよ。もう気絶する一歩手前だったから取ってやったんだけどさ。」
セコの頭の中はその時の光景が浮かんでいるのかけらけらと笑いながら話す。
「その後、グレイ、顔真っ赤にしてどっか行っちゃった。」
「へぇ~。
そんなことがあったのか。まさかあの頑固なグレイが蜘蛛嫌いだったとはな。」
「だろ。だから、今度一緒に脅かしてやろうぜ。」
セコは口を弾ませながら楽しそうに話してくる。どうやらセコは陽気で悪戯好きのドラゴンのようだ。
まるで太一みたいな性格のようだ。
「止めとけ。あいつはひねくれ者だから余計ひねくれるぞ。」
そう言って控えめなゼルフォスはセコの悪戯を抑止しようとする。
ゼルフォスは俺に似ている。
これは俊がドラゴンに憑依した当初から感づいたことだが、今それを改めて実感した。
グレイはひねくれているところがアンナにそっくりだ。
そう考えると、しっかり者のマルバスは真也だな。
ハクはどのドラゴンに似てるだろう…
気づけば俊は、知り合ったドラゴン達を旅の仲間たちに例えていた。
「そうだな。明日は試練の儀式だし、あまり怒らせると不味いな。」
セコは苦笑いして言うと、体を後ろに向けた。それは洞窟の出口とは逆、洞窟の奥の方だ。
「オイラはちっと早いけど早めに寝かせてもらうよ。明日は朝早いしな。」
そう言うセコの足はもう前に進んで体が洞窟の闇に溶けかかっている。
「おう、明日から一緒に頑張ろうな。」
ゼルフォスがそう言った時には既にセコの姿は見えなくなっていたが、闇の奥から力強く、滝の轟に負けないようなセコの雄叫びが聞こえた。
一頭となったゼルフォスはしばらく内と外を隔てる滝を見つめると、ふと立ち上がり洞窟の奥へと進んでいった。
ここの洞窟はこの世界に飛ばされて来た洞窟よりも大して変わらないが、少し違うところと言えば高さより横幅の方が僅かに大きいことぐらいだ。
あの時の洞窟は高さはあったが横幅が小さいものだから、時々通りにくいところがあったのだ。だがここはかなりゆったりとした巨大な洞窟だ。
ただ不満を言えば水辺が近くにあるせいか少々岩場がヌメヌメしていて歩きづらいことぐらいだろうか。
ゼルフォスが洞窟を進んで行くとゼルフォスの寝床であろう小さな部屋についた。
ただ、ゼルフォスだけの個室ではないようだ。先客がいる。そのドラゴンはセコと同じ赤い鱗を纏っているのだがその鱗は所々剥げており、色に艶がない。ドラゴンでもある俊にはそのドラゴンはかなり老いていていることが容易に分かった。
「帰ってきたかゼルフォス。明日は試練の儀式だが大丈夫じゃろうな?
お前は亡き竜王の直系の息子なんじゃ。
あくまでも、お前がこの試練に合格しなくてはわしが逝ったとき、ご先祖様に会わせる顔がないわい。」
こちらに気づいた老いたドラゴンは、頭を重そうに持ち上げながらゼルフォスに語りかけた。
「大叔父さん、そんな心配しなくても大丈夫だって。
俺たち、全員試練に合格してみせるさ。第一この試練に落ちる奴なんて10年に一頭くらいの割合なんだろ。そんな心配する必要はないさ。」
「試練の儀式…それは我らドラゴンが一人前と認められる為の儀式。この洞窟と外界を隔てる滝を突き破り、4から5頭のグループで一年間外界で過ごす。
確かに、それほど苦難な儀式ではない。じゃが、過去にこの試練に落ちたドラゴンもいるのじゃ。油断をしているとそのうちの一頭になりかねんぞ」
そういう、儀式だったのか。
俊は、心配無用だというゼルフォスに念を押すように話すゼルフォスの大叔父の言葉を聞いて、初めて明日から始まる儀式の内容について理解した。
確かに聞いた限りではそれほど危険な儀式でもない気がする。
この試練の中では先ほど見た滝を突き破ることが一番の難関であろうが、それ以降は大したことではない。
10日に一度の食事だから食い物に苦労することはないだろうし、天敵というものがないドラゴンであれば、一頭ならともかく4、5頭のドラゴンで外で暮らすことに難を感じることもないだろう。
「だから大丈夫だって。
こっちにはマルバスだっているんだしさ。
あいつ、俺よりしっかりしてるし。」
「マルバス?
ああ、あの竜王時代の側近の小僧か。
あの小僧、ただの側近のくせに最近調子にのってないか?
わしはあやつのことがどうも好きになれん。」
ゼルフォスの大叔父はマルバスのことが気に入らないようで、渋い顔をしながら話す。
「側近じゃないよ友達さ。
友達なんだから俺がそうするように頼んだんだよ。以前のように堅苦しい言葉で言われちゃ。友達って感じしないし。」
マルバスって昔のゼルフォスの側近だったのか。だから、俺が太一たちを捜すために洞窟を出る時あんなに心配を…
この時俊は初めてマルバスとゼルフォスのかつての関係を知った。
「ふん。まあ、よい。
早く寝るんじゃ。明日は朝早い。」
ゼルフォスの大叔父は大きく一息吐くと不機嫌そうにそれだけを言って、再び地面に伏せて眠ってしまった。
「ああ、分かってるよ。
今から寝る。」
ゼルフォスは部屋の空いたスペースに横になり顎を地面に置いて目を瞑った。
ゼルフォスが目を閉じてしまったのでゼルフォスの中にいる俊も共に眠りに就いた。
***
ん…
ここは…
俊は気づけば荒野のど真ん中にいた。お腹の辺りに微かな重みがあるので、ゆっくり覗いてみると真也が音もなくスヤスヤと眠っている。
やっぱりあれは夢だったか。
それにしてもかなりリアルな夢だった。やはりあれはゼルフォスの過去を見ていたのでだろうか。
あの続きを知りたい。
俊はそう思った。今、ゼルフォスの身体を借りている身として、この身体の持ち主のことについてもっと知りたいと感じたのだ。
だが奇妙なことにあの夢のことを思い出すと、何故か背筋が寒くなるような感じに襲われるのだ。
そして、訳もなく物凄く後悔の念がこみ上げてくる。
しかし、こんな変な感覚よりもまだゼルフォスの過去に対する好奇心の方が勝っていた。
俊は真也が目を覚まさないように、首を持ち上げ辺りを伺った。
日はまだ出ていないが、空は既に朝を告げている。月は夜の幕を引くように徐々にその空にとけ込むように消えてゆく。
この荒野で響く音は例によって、太一の馬鹿五月蝿いいびきだけだ。
その太一にがっちりと足首を掴まれているハクは耳を両手で塞ぎながら目を閉じているものの寝苦しそうに時折顔をしかめつつ、悪魔の手から足を抜こうとしている。
その姿は、罠に足をとられた小鹿が罠から抜け出そうと這いでいるようだ。
少し視線をずらしてみると、アンナが腐って倒れたのであろう倒木に寄りかかりながら眠っている。
少し起きるのが早すぎたか。
とは思ったものの眠気の覚めた今の状態では今から寝ようにも寝られない。
何かをしようにも真也が寄りかかって寝ているので動けない。
俊はぐっすりと眠る真也を眺めた。
よく、こんなところで寝られるな。
真也を見て直感的に思った。
前述したようにドラゴンは鋼のような硬い鱗で覆われており、かなりでこぼこしている。
更に一応生き物であるから呼吸もする。こんな大きな体躯を持っているのだから、それに比例して肺も大きく、呼吸量も多い。
よって、俊がじっとしている間も呼吸をするために少なからず胴体が上下するのだ。
これではまるで、荒れた海を航行する砂利を積んだ船の上で寝るようなものだ。
そんな状況下で寝られる真也に感心しつつ、暇な時間を何もせずに過ごしていると、やっとの思いで夜が明けた。
まず、一番はじめに真也が起きた。
「おはよう。俊」
「ああ、おはよう」
真也は目を擦りながら、俊に挨拶をするとおもむろに腰を伸ばし始めた。
「昨夜はよく寝られた?
俺の腹、寝心地悪いだろ。硬いし、凸凹してるし…」
「まあな。確かに寝心地は最悪かもな。おかげで腰が痛い」
真也が腰を捻りながら笑みを浮かべて答えると、少し間を置いて話を続ける。
「…でも、なんだか安心するな。」
「え…」少し照れくさそうに話す真也の話を聞いて俊は思わずぎょっとしてしまった。
「ドラゴンに守られているって感じがしてな。
お陰であんま緊張しないで寝れたよ。いつも気を張って寝てたからな。寝心地は悪かったけど寝やすかったよ。」
「そっか。」堅実な顔で話す真也の声に俊はこうやって返事をする事しかできなかった。
「ううん…ああ…
ああ、二人共起きてたんだ。」
けだるそうなうめき声を吐きながら起きたのはアンナだ。
見るからに顔色が悪い。大丈夫だろうか。
「大丈夫か?
見るからに顔色が悪いけど…」
俊はアンナの顔をのぞき込むようにしながら、尋ねた。
「…ええ、ちょっと二日酔い。昨日ちょっと飲み過ぎたかな~」
確かに酒臭い。
俊の嗅覚がアンナの吐く息を敏感に感じ取っている。
これでは匂いだけで酔ってしまいそうだ。
それに変に血が騒ぐ。
ドラゴンも酒が好きなのだろうか…
俊自身の年齢では酒は飲めないが、ドラゴンの体なら問題ないだろう。
第一、この世界に来た時点で日本の法律など適用されるはずがない。
そういえば、日本の伝記でヤマタノオロチが酒に酔ってスサノオノミコトに討ち取られたっていう話があったっけ?
俊は頭の片隅でそんなことを考えていた。
これ以上、酒の匂いを嗅ぐと本当におかしくなるような気がしたので、とりあえずアンナとは逆の方を向いて新鮮な空気で大きく深呼吸をした。
「ん…!?」
その時、俊は酒の匂いとはまた別の気になる匂いを感じ取った。
「どうした?」
俊の声に気づいた真也が様子を窺うように尋ねる。
この匂い、なんとなく嗅いだことがある…
段々、匂いが強くなって…
「来る」
俊は無意識に思ったことを話していた。
「何が?」
今度はアンナが少々強い口調で聞く。
この匂い、嗅いでいるだけで胸くそ悪い気分になるあの匂い。
そうだ…
「闇の従者…」
俊の口からぽろりと答えがこぼれた。その次の瞬間、はっとして叫んだ。
「闇の従者が一気に近づいて来る!!
しかも、かなりの数だ!」
俊が放った声は、ドラゴンにしては大きな声。だが、それは人間の基準だと馬鹿でかい声になる。
そんな声で、今まで眠っていたハクや太一までもがびっくりして飛び起きた。
「なっ、何事!?」
俊の大音響で、すっかり眠気まで飛んでしまった太一は目を白黒させながら尋ねる。
「闇の従者だ。ほら、ハクは荷車の中にでも隠れてろ。
アタシたちで奴らを片付ける。」
「でも、僕にも何かできることが…」
「あるのかい?」
ハクの戸惑う声にアンナは強い口調で聞いた。
「…ない。」
「なら、要らない。せいぜい奴らに見つからないように隠れてるんだな。」
アンナが無情にも荒々しく言い放つと、ハクは「はい」と悔しそうな顔をしながら言うと、荷車へと足を進めた。
「おい、お前はこっちだ。」
そう言ってアンナが掴んだのは、ハクと一緒に荷車に隠れようとする太一の首の後ろ襟だ。
「え…、あ…俺もハクと一緒で何も出来ないし…」
急にアンナにつかみかかれ、歯の根が合わない様子で震えた声で話す太一。
「あ゛あ゛?」
アンナが物凄い形相で太一を睨みながら、胸ぐらを持ち上げる。太一とアンナの身長差で太一の足はもう地面についていない。
「お前は戦うんだよ!!
ほら、剣を持て。」
そう言ってアンナは太一に半ば強引に剣を握らせる。
「あっ…いや、だって俺実戦経験ないし…」
「どんな奴だって実戦経験ゼロからじゃねぇ~か。アタシがあんたに剣術の稽古をしたんだ。
お前ならできる。」
アンナは太一を励ますように強く言い放つと、太一の胸ぐらを掴む手の力を緩めた。
「…師匠、今の言葉、俺の心に強く響きました…
素晴らしい言葉です。」
臆病風に吹かれていたようだった太一は態度を急変させ、真っ直ぐな視線でアンナを見た。
「おう、そうか。じゃあ…」
「今のお世辞に免じてどうかお見逃し下さい。」
太一…"お世辞"って言った時点でもう駄目だろ。
俊が哀れむ目を向けた先では一瞬の間だけ時間が止まっているようだった。アンナを中心に周りの空気が凍っているようだ。
「太一…アタシに殺されるのと、奴らに殺されるのではどっちがいい?」
無表情でイントネーションに波のない声で聞くアンナ。ついさっき緩んだばかりの太一の胸ぐらを掴む腕の筋肉は凛々しくも盛り上がっている。
アンナに戦闘モードを通り越して、例えようのない恐ろしい人格が降臨した。
「ええと…じゃあ第三の選択肢、殺されな…」
首を締め付けられ、苦しそうに答える太一。
「両方に殺られるな」
「ギャーァ」
太一の悲鳴が聞こえた直後、太一はアンナにタコ殴りにされ、最後は見るも無惨な姿で倒れ込んだ。
「お~い。太一~生きてるか~」
俊はドラゴンの鼻先で太一を揺するように突っつくと、太一は咳をしながら頭を持ち上げ呟いた。
「宮内 太一、師匠に撲殺される。享年18歳。」
そう言いきるとガクッと頭を下ろし、死んだふりをした。
「よし、今度は奴らに殺ってもらう番だ。」
「え…」
死んだように倒れている太一の胸ぐらを再び掴み上げ、強引にまた剣を太一の右手に握らせる。
「ほら、早く起きて戦う支度をしないと奴らに殺られるぞ。ちなみにアタシはアンタをフォローする気はないから。」
「い…いや、師匠ッ!
さすがにそれはまずい。
フォローないと俺…」
太一は焦って言葉を口にするが「いいな?」とアンナに鬼の形相で睨みつけられ、気迫のこもった声で言われた太一は、「は…はい」と怯えながら答えるしかなかった。
太一…頑張れ。
そのやりとりを傍観して気の毒そうに太一を見つめる俊であった。
日が登る逆の方向から土埃を舞い上げながら突進してくる。
いよいよ、闇の従者は人間の視力でも確認できるほどの距離まで近づいてきた。
土埃の間から見える影からして数は十くらいだ。
アンナと太一は手に剣を握って待ち構える。
「そういえば、なんで闇の従者は俺達に気付いたんだろうな。俊が気付いたときにはもう奴らに見つかってたってことだろ?」
太一はアンナに殴られた顔をさすりながら呟く。
「奴らは人外の生き物。だからいろんな奴がいる。戦闘に特化した者。素早い者。中には感覚が特化した奴だっている。だからその中にドラゴンより感覚が鋭い奴がいたんだろうね。おまけに奴ら、血と煙りの匂いには過敏に反応する。」
アンナは言うと、辺りの死体や昨夜焚いた焚火を見回す。
「ああ~、なるほどな」
太一は納得したように何度か頷きながら言った。
そういえば、真也は…
俊はふと、先程から真也の姿を見ていないことに気づき辺りを見渡した。
***
またあの2人馬鹿やってる。
まあ、太一も太一だな。
俊の闇の従者の接近の知らせを聞いてから、真也は荷台の周囲にしゃがみこんで武器を捜していた。
武器と言っても真也の武器は弓矢だ。前述の通り、真也の白鳥一家は弓矢の扱いに重んずる一家だ。そのため、真也自身も長男として4歳の頃から弓道を教わっている。
だから、現状況下の真也の武器は弓矢しかない。
ただ、弓矢を探すのもそうたやすいものでもない。
真也が主に扱う弓は和弓。真竹を原料とする長さが二メートル弱ある大弓だ。だが、ここに落ちているものはショートボウとも呼ばれる短い弓。しかも、作りはかなり煩雑で材質もかなり悪い。弦はかなり心もとないほどの細さで、少し引けば切れそうだ。
第一、ここに落ちている弓の大半が折れていたり、弦が切れていたりして使いものにならない。
また、矢も当然弓に適合した長さのものが使われるのでここに落ちているものは使えない。
荷車の周りに落ちているものでは駄目か…仕方ない…
真也は立ち上がると辺りを見渡す。俊たちがいる向きに目を向けると太一がアンナにタコ殴りにされている。これを無視して見渡していくと、人の死体と闇の従者の死体、それと荷車6台が目に入る。
この6台のうち1台はハクが囚われていた奴隷収容の荷車、残り5台には食料や武器、雑貨が積まれていたはずだ。
真也はこの5台のうちの1台の荷車に潜り込んだ。
確かこの荷車には武器が積まれていた筈だ。
真也は荷台の中を覗いた。
この荷車は、車の上に薄い板状の木材を半楕円状に何本か備え付け、その間を布で張り合わせている構造だ。
荷台の中は剣が多く目につくが少なからず弓矢はあった。しかしながらそのほとんどはショートボウであったり、一部はクロスボウであったりで真也が捜し求めている弓矢はなかなか見つからない。
汗を流しながら、荷台の積み荷をひっくり返しながら探す真也。
荷台の中は気温も高く、湿度も高い。これでは戦う前にバテてしまう。
「ん…?」
真也が諦めかけた時、荷台の一番奥の右端で桜の木で造られた細長い木箱を見つけた。
勢いでその箱もどこかに投げ出しそうになったが、思わず真也の手が止まった。
桜の木…この文字は…
その文字は木箱に彫られた小さな文字だった。漢字に似ているが少し違う、西洋で使われる文字よりも東洋の文字に近い感じがあった。
真也は期待と緊張を胸にゆっくりとその木箱を開ける。
木箱の中に外気が入り、木箱の中の臭いが外に漏れだす。
その臭いは、少し鼻をつく臭いであるが、ほんのり木の香りも混ざっている。
そして遂にその木箱の中身があらわになった。
何かを包んである色褪せた茶色い絹布。それを慎重に剥がしていくとそこには真也が捜し求めていた一張の大弓が横たわっていた。
しかもそれはただの大弓ではない。使われている弓材は稀少で弓材に優れたハゼノキ。しかも非常に質が良く、稀にしか表れないハゼノキの木理がまた自然の芸術を描いている。
接着剤には容易に手に入る物ではない、上級者にも珍重される鰾膠が使われている。また、弦は麻糸に漆を塗ったものだ。
これほど立派な弓は使ったことは疎か見たことさえない。
真也はこの素晴らしい弓を見て不覚にも一気に気が高揚した。その証拠に心臓の打つ鼓動がいつもより強く、そして早く感じる。
真也は小刻みに震えるその手で弓を取った。木肌のつるつるしているところと木理のざらざらしているところ。この手触りの違いがまた良い。
あ…今はこうしている場合じゃないな
弓を扱う心地良さにはっとした真也は手際よく木箱に弓と一緒に入っていたゆがけに右手を入れて、箱の中の備品を取り出して箱の蓋を閉じた。
この備品とは交換用の弓の弦や、接着剤の膠などだ。真也はこれらの小物を落ちていた適当な大きさの革袋の中に入れ腰に巻き付けた。
残るはこの大弓に合う矢だが、こちらはこの大弓が入っていた木箱のすぐ脇に矢筒ごとちょこんと置いてあった。
真也はその矢筒を背中に掛け、弓を片手に荷台を飛び出した。
***
真也…いないな…
一度見渡しても真也の姿が見えないので俊は、真也を匂いで探そうと嗅覚に神経を尖らせようとした。が、その前にその必要がなくなった。
布を擦る音と共に荷車から真也が飛び出してきたのだ。その背にはかなりの本数の矢が入った矢筒と腰には革袋、左手には立派な大きな弓そして右手には茶色いグローブのような物をつけている。
「アンナと太一のいざこざは終わったようだな。」
荷車から降りた真也は俊のもとへ近づくと話し掛けた。普段顔に出さない真也が、いつもより張り切って見えるのは気のせいだろうか。
「まあな。あの通りだ。」
真也の問いに俊は口元を緩めて話すと、マイナスオーラを放つ太一の方へ顎をしゃくった。
「なるほどな」
そのように話すいつも堅い表情の真也が、俊の目には少し微笑んでいるように見えた。
やはり何か嬉しいことでもあったのだろうか。
「近いな」
真也はすぐに表情を崩しまたいつもの堅い顔に戻すと、闇の従者が向かって来る砂煙りが上がる方に顔を向けた。
ここは全くと言っていいほど辺りは一面何もなく。また乾燥しているのでゆっくりと歩くだけでも砂埃が立つ。
なので人間でも荒野に舞い上がる砂埃に気づけば、幾分離れたところから接近する敵にも気づくことができるのだ。
まあ、この距離では砂埃がなくとも闇の従者の影が人間でも見える。
「俺はこの通り弓矢で戦う。リーチはあるが接近戦は苦手だ。だから俺は後ろに下がるぞ。」
真也の言葉に俊たちが了承すると、真也は後ろに下がった。
これで陣形が整った。
一番先頭が攻撃力が高く、打たれ強いドラゴンである俊が務め、少し下がってその左右にいるのが剣を構えるアンナと太一だ。そして更に後ろで真也が枯木の上に登って弓を構えている形だ。
この形で俊たちは闇の従者との開戦を待っていた。
俊は闇の従者が近づくにつれ息が荒くなっていた。
血が熱い…落ち着け俺…落ち着け…
抑制なしにドラゴンの血を覚醒させてしまうと、この前のタムスでの戦闘のようにまた敵の群れの中に突っ込んでしまう。ドラゴンの本来の戦闘力も気になるが今回は数が多いし些かそれはまずい。だからこうやって自分に落ち着くように心中で言い聞かせていた。
そんな最中、後方で弦を弾くような音が聞こえたと思うと棒のような物が目にも止まらぬ速さで闇の従者の集団に向かって飛び出した。
そして次の瞬間、闇の従者の群れの中から一際大きな悲鳴が聞こえた。
一本の矢がその悲鳴を上げた闇の従者の片目を潰したのだ。
俊は思わず後ろを振り向いた。そこには枯木の上に登り、早くも既に矢をつがえ弓を引いてまさに今、第二射を放とうとする真也の姿があった。その直後、真也は再び矢を放った。その矢の軌道を目を凝らしながら追ってゆくとまたその矢は先とは別の闇の従者の目に命中。また悲鳴が上がった。
「真也、アンタ何者!?
まだ距離は百メートル以上あるのよ!それを正確に敵を…敵の目を射抜くなんて…」
戦闘前でただでさえ気が高ぶっているアンナが興奮した声で叫ぶ。
「五月蝿い。話し掛けるな!」
第三射目の矢をつがえながら真也は怒鳴った。弓矢を扱う真也の顔は真剣そのもの。あまりの真剣さに首筋の血管が浮き出ている。
真也の弓術のレベルの高さはハンパない。高校の部活には入っていなかったものの流鏑馬を含む弓術のプロが集ういくつもの大会、遠近両方の競技で何度も優勝しているほどの実力者だ。
余談だが、以前太一がそんな真也に、
「真也、そんなにスゲーならオリンピックのアーチェリーに出て金メダル取って来いよ」
と、冗談交じりでほのめかしたところ「あれは弓道じゃない!」などと大声で怒鳴られ、その後暫く弓道の心得やら武士道精神やらを散々聞かされ、それ以降真也に弓術関係の話は禁句となったエピソードがある。
“筋金入りの弓道オタク”という称号を持つ真也の技術がこの世界で大いに役立っているのだった。
真也は次々と弓から矢を打ち出してゆく。そのほとんどの矢が闇の従者の目のを射抜き、目に当たらなくとも体のどこかしらに命中していた。
だが闇の従者もしぶとく、目をやられると一時は群れから脱落するが、またすぐに起き上がってそのまま突っ込んで来る。
遂に闇の従者との距離が二十メートルを切った。
「いくぞッ!」
グォォォォォゥ
アンナの号令の直後、俊は大きな雄叫びを上げた。
別に完全にドラゴンに覚醒した訳ではない。平静を保っているとも言い難いが、こうやって咆哮するのは自分に戦う気をいきり立たせるためだ。ある意味敵を威嚇するためでもある。
まあドラゴンの咆哮といえど敵が目前にある餌を見て逃げ出すことはないだろうが…
真也を追って、俊、太一、アンナが闇の従者を迎え撃つ態勢を取り戦いに加わった。
敵の過半数は負傷しているが、その敵は人間ではない。闇の従者は人間以上のしぶとさを持っていた。
俊はいきなり五体の敵に囲まれた。
その闇の従者の姿も憎いもので、うち二体はタムスで戦った人面蜘蛛のような化け物と目の数がやたら多い狼のような化け物。残りは馬くらいの大きさのカマキリに似た化け物などだ。このうち何頭かは真也の矢傷を負っていた。
五体の闇の従者は同時に俊に襲い掛かった。
ここでタムスでの戦いのような自制心を失った俊なら真っ向から肉弾戦に持ち込もうとするだろう。
確かにそれでも圧倒的な攻撃力と防御力を持った俊なら倒せるだろうが今回はそんな強引な戦い方にするつもりはない。
敵の攻撃を見計らった俊は周囲に仲間がいないことを確認すると大きく翼を上下させた。すると乾燥した細かい砂が一気に舞い上がり、辺りは砂埃が立ち込めた。
砂埃は俊を中心に一気に広がるわけだが俊自身はその影響を受けることはない。
そこで俊は視界を奪われた闇の従者に一頭ずつ襲い掛かった。
闇の従者に飛び掛かるとまず前足のかぎ爪を相手の肉に深く食い込ませ、首筋に勢いよくかぶりつく。そして顎に力を込め、のこぎりのような牙を首筋に食い込ませると、そのまま思いっきり手前に引く。
すると、のこぎりで木材を切断するときと同様に闇の従者の首が鮮血と共に飛ぶのだ。
そうなると断末魔を上げることも出来ない。
比較的小型な敵には爪で首筋を引っ掻くだけで十分。
俊は敵を殺す方法を心得ていた。
もう殺すことに何の躊躇いも、抵抗もない。それどころかこうやって暴れ殺すことで心が充たされる感覚さえ覚えた。
だが、闇の従者も易々とは殺されない。彼らも必死に抵抗する。
俊は例の大きなカマキリの様な闇の従者を殺る際、カマキリのそのぎざぎざとした鎌で思いっきり引っ掻かれた。その刃はあの強靭な俊の鱗を突き破り、俊の肩の肉を少し裂いた。
肩からは血がどくどくと流れ出したが痛みも恐怖も感じなかった。むしろその血を見ると余計に興奮し、俊は巨大カマキリの頭からかぶりつき、爪で上半身から引きちぎった。そしてそのまま、その上半身を丸呑みにしてしまう始末だった。
血が熱い。
俊の中のドラゴンは血肉を求めている。
ドラゴンの戦闘本能は本当に凄まじい。
俊は改めて実感した。今腹の中に納まったカマキリで俊を取り囲んだ五体の敵全てが片付いた。もう周りには闇の従者はいない。
気づけば、俊は闇の従者の返り血を浴びていつも黒く鈍い光沢を見せる鱗は真っ赤に染まっていた。
俊は太一たちの方を向いた。
いつの間にこんなに離れていたのだろう。
戦闘の前まで太一やアンナはすぐ後ろにいたのだが、いつの間にか三十メートルほど離れていた。
ちょっと暴れすぎたかな…
とりあえず、俊は三人のもとに向かった。
三人はまだ戦っている。とはいっても残りは二体。
あの二人…なんだかんだで仲良くやってるじゃん
戦闘前、太一の言動でアンナは太一のフォローをしないなどと言っていたが、今は二人で協力しながら闇の従者を一体ずつ倒している。そしてその背後からは真也が闇の従者に矢を打ち付けサポートする。
俊が太一たちの下へたどり着いた頃には、残りの二体も三人の手で片付いていた。
ここで、この闇の従者による襲撃は終わりを告げた。
「ふう、今ので全部かぁ~マジで死ぬかと思った~」
太一は周りをキョロキョロと見回し、もう闇の従者がいないことを確認すると、大きく息を吐きながら剣を地面に刺し付け、どしんと地面に尻餅をついた。
「ひぇ…」
その直後、また太一が声にならない悲鳴を上げたと思ったら、その首元にアンナの握る剣があった。
「あれほど刃こぼれするから剣を地面に刺すなと言うのに、まだ学習しないのか?
いっぺん死んでみるか?一回は死んでみるのも良い経験になると思うが…」
「いやいやいやいやいや、そうゆう経験は人生の最後に経験するものだよ。普通。俺まだ他にいろんなこと経験したいからご遠慮します。」
太一は、慌て剣を地面から引っこ抜くと丁寧に鞘に収めた。
「おっ!俊…って、お前、血だらけじゃねーか!」
」
今更気づいたか
それまで返り血を心の中で太一につっこむ俊。長くてトカゲのような舌を使って体中の返り血を綺麗に舐めていた俊は、作業を止め太一の方に向き直った。
「ああ、でもこれは返り血だ。」
俊が落ち着いた声で言葉を返す。
「その左肩の傷は本物のようだがな。」
真也は枯木から降り、外したゆがけと弓を片手に、本数の少なくなった矢筒を背に担ぎながら近づいて来る。
流石は真也だ。よく見ている。
戦闘の最中に闇の従者から負った肩の裂き傷…戦闘中は何も感じなかったが、さっきからずきずきと痛む。
だが返り血と重なって判りづらいが、もう血は止まっている。傷痕も三日とかからない内に消えるだろう。
そのことを伝えると真也も太一も何も言わなくなった。
「もう終わった…よね?」
そこに現れたのがハクだ。
あの奴隷収容の荷車に隠れていたらしい。荷車の出入口のところでひょっこりと外の様子を伺うように顔を出すと、聞いてきた。
俊が「ああ」と頷きながら答えると、ハクは荷車から飛び降りて四人に加わるように俊の隣にちょこんと腰を降ろした。
「それにしても真也も太一も俊もなかなかやるもんだね。」
アンナが話を切り出す。
「闇の従者の群れ九体。これを打ち破るには最低でも帝国の兵士を二十人は近く必要だっていうのにアタシら三人とドラゴン一頭で片付いちゃったんだからね。」
「俺らそんな敵を相手してたのか?」
太一がアンナの話題に身を乗り出して食いついた。
「まあね。
やっぱり、俊がいてくれたことが大きかったかな。真也も弓の腕もベテラン以上だし、太一も初心者にしてはよく戦えていた。」
アンナも剣を鞘にゆっくりと収めながら、太一の言葉に肯定的に話す。
「やっぱ、俺って柔道だけじゃなくて剣道の才能もあったんだよな~。俺って天才」
「意気がるな。戦いの最中、後ろをとられてやられそうになってただろ。あそこでアタシが助けなかったらお前は死んでいたぞ。」
にやけながら話す太一にアンナは一喝した。真面目に話すアンナに太一は急にはやる気が失せたらしく、口元を引きずりながら「はい…」と答えた。
「あの~。アンナ…さん」
控えめな感じでアンナに話し掛けるのはハクだ。ハクはアンナ以外の俊や太一、真也には普通に話すが、どうやらハクはアンナが苦手らしくいつもアンナには控えめな話し方をしている。
「アンナでいいって。」
この台詞は毎度同じだ。ハクがアンナと話す度に聞く会話。
「ア…アンナ、僕にも太一みたいに剣術を教えてくれないかな。
僕も強くなりたいし、僕もみんなと一緒に戦いたい。一人だけ隠れるのは嫌なんだ!」
まだ小さい体なのに気迫があって、訴える力のこもったはっきりとした声。こうやって切り出そうとするハクはなぜかいつも凛々しく、勇ましく見える。
「強くなりたい。か…
面白い。」
アンナは何かを思い出したかのように笑みを見せると、すぐに威勢のある表情に戻しハクを睨むようにしながら聞いた。
「どんなに苦しくてもアタシの稽古について来るかい?」
「はい」
ハクは迷いもなく、大きな声ではっきりと返事をした。
ハクはまだ中学生くらいの子供だが、彼の持つ迷いのない決断力は大人でもそういないくらいに強い。それにまだ小さな体の割には存在が大きい。
俊はそれがハクの素質なのだと直感した。
「分かった。
ハク、アンタは今日からアタシの一番弟子だ。」
アンナはハクに右手を差し延べて高らかに言い放つと、ハクは「はい」と強く返事をし、右手でアンナを手を取り堅く握手を交わす。
なかなかいい光景だ。ただ、何かを忘れている気がする。
「あの~師匠、俺は~」
あっ、太一だ。
太一が横から小声で割って入ろうとする。だが…
「ああ、お前?…知らね。
ハクの方がよっぽど言うこと聞きそうだし。使える。」
太一、轟沈。
最近、太一が惨めに見えるのは気のせいだろうか。
まあ、少なくとも太一のキャラが悪い方へ進んでいっていることは確かだろうが…
この後、食料などの荷物を一つの荷車にまとめ、その荷車を俊が引き、一行は再び帝国都市バルメイロ目指して前進を始めた。
タムスを発って一週間が経った。
現在、バルメイロを目指す一行は何もない不毛の荒野から、緑生い茂る山々のふもとの森林の中で野宿をしている。
空は真っ暗で雲っているのか星も月も姿を現さない。
辺りは絶えず虫がしきりに鳴き散らしている。それに混じって近くを流れる川のせせらぎが聴こえる。
こうゆう夜の森の中は本当に真っ暗になる。たき火の明かりがなければ一寸先は闇の世界だ。
アンナによると、この山はタムスとバルメイロのちょうど真ん中に位置するらしい。つまり半分の距離を進むのに一週間費やした訳だ。だから単純計算ではあと一週間でバルメイロに辿り着くことになるだろう
しかしこの山、斜面は緩やかなのだが足場が悪い。なのでこの山では斜面が緩やかでも馬に乗って登山することができないらしい。
更にこの山には古くから魔法使いが住んでおり、登山する者を呪い祟るという言い伝えがあるとアンナから聞かされた。
それを予兆するかのようにこの森に入った途端、急に木のきしめきが聴こえたと思うと後ろの車輪が二つとも脱輪してしまった。
おかげで荷車を引いていた俊はバランスを崩し後ろにひっくり返るところだった。
これではもう荷車は使い物にならない。
仕方がないので持てる限りの食料をもってここまで来たという訳だ。しかし今日の食事で手持ちの食糧はもう僅かとなってしまった。
「これじゃあ、また明日から狩りだな」
食事が終わり、太一がアンナとハクに柔道を教えている脇で、俊は二本の豆の缶詰とカビが生えかかった二斤のパンを見つめて小さく呟く。
「それなら俺も手伝う。」
たき火の火をときどき突っつき、1メートルほどの枝を小刀で削りながら真也は話す。
真也は今矢を造っている。弓矢を使う限り矢の消費は避けられない。矢の補給もできないので、真也はこうやってちょうどいい小枝を見つけては拾っては、小刀で削り、やじりを付けて矢をこしらえるのだ。
「一人より二人だろ?その方が収穫も増えるし」
確かにそうだ。
真也の扱う武器は弓矢、狩猟に向いている。それに真也ほどの腕ならば足手まとい、いや…俺よりもうまく狩るかもしれない。
「まあ…そうだな。一緒に行くか」
「それとも今から行くか?
この時間ならたいがいの動物は眠っているからやりやすい。」
真也はやる気満々のようだ。その証拠にこしらえた矢を矢筒に入れ、弓に左手を添えている。
「いや、今は無理だな。
確かに、ドラゴンは基本洞窟暮らしだから人より夜目が利くけど、夜に空を飛ぶほどよくはないらしい。特に今日は空一面雲に覆われてるから尚更…」
この身体に乗り移ったときはただ夜に空を飛ぶことを訳も解らずに恐れていたが、もうこの身体に乗り移ってから一週間以上経っている。
それまで感覚的に過ごしてきたが、今ではもうドラゴンの仕草の意味が何となく分かってきた。
元の世界でも科学は発達していたが、動物のひとつひとつの仕草の意味はまだよく分かっていない。
やはり、そのようなことを知るためには実際の当事者になってみないとわからないものである。
「そうか、じゃあまた明日早朝だな。」
「ああ」と俊が答えたちょうどその時、柔道の稽古をしていた三人が戻ってきた。
アンナから剣術を教わっているハクは、太一から柔道も教わっている。
おかげで初め、骨と皮しかないのではないかと思うほどの痩せこけたハクは、少しずつだが着実に身体に筋力がついていることが見てとれるようになった。
荒野でハクがアンナに剣術の教えを乞うてからここまで数体の闇の従者に出くわしたが、その時ハクは物影に隠れることなく俺達五人で一緒に戦った。
そういえばその時からだっただろうか…ハクがよく笑うようになったのは…
「あ~あ、今日も疲れた~。明日から山登りかぁ~。かったりぃなぁ~。」
太一がふらふらして言いながら近づいて来ると俊の背中に抱き着くようにしながらもたれ掛かった。
太一の全体重が背中で感じる。
俊が背中に首を回そうとするついでに、こちらに向かって来るアンナとハクの姿がついでに映った。
「真也~腹減った~飯~」
太一のだらけた声が背中から聞こえる。
「我慢しろ。
もう食糧もそんなにないんだ。節約しないと飢え死にだぞ。」
「あれ?
あとどんだけ食糧残ってんだっけ?」
気づけば太一が背中から右隣りに移っている。アンナとハクは焚火を中心に円を描くようにして座り、剣術について話し合っている。
ハクはもうアンナに馴れたようだな。
その姿を見た俊は、内心少し安心した。
話を太一と真也のやり取りに戻そう。
太一に食糧のことについて尋ねられた真也は、そばにある缶詰2缶とパン2斤の方に顎をしゃくった。
「…マジで?」
さすがの太一も食糧の危機を察知したようで真面目な顔になっている。
「俺が冗談嫌いだって知ってるだろ?」
そう、真也は冗談が嫌いだ。太一が冗談を言うとすぐに機嫌が悪くなる。まあ、俊にとっても冗談は好きではない。そんな真也が冗談を言うはずがなかった。
「これからどうすんだよ。飯食って行かないと俺達、飢え死にだぜ?」
「だからそう言っているだろう。
明朝、俺と俊で狩りに行く。まあ当分はそれで餓えも凌げるだろう。」
「そっかぁ、じゃあ大丈夫かぁ。」
真也の落ち着いた口調のお陰か、太一も納得したように落ち着いた声で吐息と一緒に吐き出した。
その後、五人で軽く言葉を交わし焚火の火が燃え尽きた頃、眠りに就いた。
***
「ぼ~としてないで早く行くぞ。
早くしないと日が暮れる。」
またこの夢か、最近よく観るなこんな夢。
目の前にいるのは、まだ子竜の頃のマルバスの姿。
そう、俊はまたもやゼルフォスの過去を観ているのだ。勿論、第三者として。
実を言うと、初めてゼルフォスの過去の夢を観て以来毎晩のようにゼルフォスの過去を第三者として観ている。
その流れは、一人前のドラゴンになるための試練の儀の前夜から始まり、第一の難関、滝の壁をゼルフォス、マルバス、セコ、グレイ、四頭とも打ち破り、一年間住まう拠点を探し、それからは十日おきに餌を求め二頭一組でペアを組み、交代で食事にありついた。
ゼルフォスはマルバスとペアを組んで狩りをしている。
そして今からその狩りに行くわけだ。
ゼルフォスの中にいる俊の視界には、気持ち良さそうに眠るセコとグレイがいる。
これまでこのような夢を観ている間にも、自然とグレイとセコに親しみを覚えた。
今度またあのゼルフォスに憑依したときのドラゴンの洞窟に戻ったときに逢えるだろうか、と心のどこかで楽しみにしている自分がいることを否定できなかった。
ゼルフォスの体が俊の意識と関係なく動く。それは当たり前のことだが、ゼルフォスの中にいる俊にとってはおかしな感覚だ。
ゼルフォスがマルバスの後ろに並んで洞窟の中の狭い通りを歩く。
試練の儀で一年間過ごすこととなるこの洞窟はかなり狭い。ここはもともと熊のねぐらであり、それをセコが見つけゼルフォス達の拠点としたのである。
もともとこの洞窟に住んでいた熊は、もうとっくにゼルフォスたちの腹の中に収まっている。
だが熊から住み処と命を奪っておいて思うのも悪いが、この洞窟はドラゴン四頭が生活するには少し狭すぎる。
他を当たってみたが、なかなかちょうどいいところが見つからず結局この洞窟に住まうこととなったのだ。
この洞窟は山脈の中腹あたりの緑生い茂る森の中に位置しており、標高も高い。洞窟のすぐ横には、地面に巨大な一本の亀裂が走っており、崖となっている。
対岸まで五十メートル以上あり、その下には大きな水の音から大きな川が流れていることが判るが、崖が深過ぎるのか、常にモヤがかかっており、気流も乱れているので川が流れていること以外は分からない。
ゼルフォスとマルバスは洞窟の外に出て、翼を開いてまさに今大空に向かって飛び立とうとしているところだ。
西に傾き始めた太陽が、二頭のドラゴンの鱗を輝かせる。ここ最近、鱗の手入れをしていないのか二頭とも古汚い。
ゼルフォスとマルバスが地面を蹴り出して空に舞った。ある程度高度を上げていくと、ゼルフォスがマルバスに話し掛けた。
「今日はどっち行く?草原?湖?」
ここでゼルフォスはどこで狩りをするか聞いているのだ。
草原はここからずっと東、大きな丘がある草原だ。湖はここから少し山を下りたところにある。どちらとも鹿や野牛などの獲物がいる狩場だ。
「今日は湖の方がいいかもな、日が沈むと困るしな。」
「おう、了解。
任せるよ。」
ゼルフォスが答えると東を向いていたマルバスは、翼を右に傾けると一気に南に転進、緩やかに降下した。
それに続いてゼルフォスもマルバスに倣って横に並ぶ。
「ビンゴだな」
マルバスが何気ない言葉で言う先には、大きな三日月状の湖があり、鹿やバッファローの群れが水を飲んでいる姿が見える。
これを確認した二頭のドラゴンは狩りの体勢に入った。
ドラゴンは空と陸の王者であり、狩りのプロフェッショナルである。
俊がゼルフォスの過去の夢の中でのマルバスとの狩りで知り得たことだが、二頭で狩りをする場合、陸で自由に移動可能でかつ、空も飛べるという二つの特性を活かして巧みな連携を用いた狩りをする。
始めに7、8頭ほどのまとまった獲物を見定めて目標を決めると、一頭のドラゴンがその獲物の上空5メートルくらいを覆い囲むように旋回する。
獲物はドラゴンに気づき、旋回するドラゴンとは反対側に逃げようとするので、その獲物の分布する円の面積は徐々に小さくなる。
それに倣って旋回するドラゴンの円の半径も小さくしていく。
そして、上空でそれを見定めたもう一頭のドラゴンはタイミングを見計らい旋回するドラゴンが描く円の中心点に向かって急降下するのだ。
地面に降り立ったドラゴンは、そこで縦横無尽に暴れ回り獲物の息の根を止める。それから逃れようとする獲物を旋回するドラゴンが仕留めるのだ。
このような流れで狩りをするわけであるが、実際は簡単には狩りが成功しない。
獲物の包囲が不十分であれば、獲物はタイミングを見計らってすぐに包囲を突破してしまうし、上空からの急降下が甘ければ獲物に感ずかれ逃げられてしまう。
最悪、急降下中に揚力を掴むタイミングを失えばそのまま地面に激突の危険もある狩りだ。
そんな狩りにマルバスは前者の獲物の追い込み役に、ゼルフォスは急降下役を務めている。
今まで、俊はゼルフォスの過去を見る度にこの狩りの一部始終をゼルフォスの体で体感しているわけだが、はっきり言って怖い。
高高度からほぼ垂直で一気に地面に急降下するのだ。推進力を上げるために急降下時に翼をきれいに折りたたみ、首を真っ直ぐ、脚は後ろに、ドラゴンのごつごつな身体を一直線にして降下する。
その速度は重力加速度的に下向きのベクトルが増大し、その状態から地表ぎりぎりで翼を広げ揚力で落下速度を落しながら地面に着地する。
それを体感した初めの内の俊は、恐怖でそのまま夢から醒めてしまった程だ。
最近はなんとか馴れてきたがやはり怖い。こんなことをやってのけるゼルフォスをついつい感心してしまう。
「それじゃあ、追い込みよろしくな。」
「ああ、そっちも気をつけてやれよ。」
二頭のドラゴンが言葉を交わすとゼルフォスは上昇し、マルバスは降下して別れた。
遂に恐怖の狩りの始まりだ。
緩やかに上昇していくゼルフォス。その間にちらちらとマルバスの動きを見張る。
マルバスの獲物の追い込みが始まったようだ。マルバスは四頭のバッファローに目をつけたのかその周りを囲い込むように旋回していく。
この時にはすでにゼルフォスも準備は出来ていた。上昇を止め、小さな円を描き旋回しながら地表の様子を伺っている。
そんな中、俊は緊張していた。
いつ降下するのだろうか…
降下のタイミングはこの狩りを何度か経験した俊でも分からない。
それを知るのは、ここでは狩りのプロフェッショナルであるゼルフォスとマルバスしか分からない。
マルバスの追い込みはうまくいっているようだ。どんどんマルバスが描く弧の半径は小さくなってゆく。
そろそろか…
俊は降下の兆しがあると察し、気を引き締めた。だがそれでもゼルフォスはなかなか降下を始めない。
まだか…
俊が気を緩めたその直後のことだった。
急に身体が右に大きく傾いたかと思うと、そのまま右翼を軸に身体が一回転し、頭部を地表と垂直にした状態で急降下を始めたのだ。
翼をたたみ、前後の脚を引っ込め、長い尻尾、身体、首を一本の直線が走っているかのようにぴんと真っすぐにして目は地面を睨みつけるようにしながら、一本の矢が地面に突き進むようにゼルフォスの身体は、一気に降下を始めた。
ううぅ…
気を緩めたところに不意を突かれる形となった俊は、なんとか気を保ちながら意識を手放さずにいた。恐怖で目を閉じていたいが、今はゼルフォスの意思で身体が動いているのでそんなことは叶わない。
みるみる、遠くに感じていた地面がすぐそこまで来ている。
ぶつかる…
俊が絶望した直後、翼に物凄い圧力と筋肉痛の痛みに似たものを感じたかと思うと、体が地面と垂直から平行に近づくように斜め前方下45゜くらいの角度で降下するようになり、その状態でマルバスの描く円をくぐり抜けると獲物の二頭のバッファローの上に滑り落ちた。
下敷きとなった二頭のバッファローはドラゴンの重量にかなう訳もなく。呆気なく圧死してしまった。それに乗じて逃げ出した残りの二頭の内の一頭は、すぐさま立ち上がったゼルフォスに引き裂かれ、残りの一頭はマルバスが片付けた。
「よし、帰るか。
マルバスどれがいい?
先に選んでいいよ。」
体についた血を舐めながらゼルフォスが話すのは獲物の取り分についてだ。
ゼルフォス、マルバスが狩った四頭のバッファローはどれも申し分ないちょうど食べ頃のものばかり。
俊も無意識にどれも美味そうだと心の内に呟いてしまった。
「じゃあ、俺はこいつを貰う。」
マルバスは微々たる大きさの違いも気にせずに適当に二頭のバッファローを前足でわしづかみにして足元に置いた。
「おう、じゃあ帰ろっか。
どっかの誰かさんが寝坊して狩りに遅れたせいで、もう日が沈みかけてるし…」
「それはお前だろ。あまりにゼルフォスが起きないもんだから思いっきり尻尾に噛み付いてやろうかと思ったぞ。」
「おいおい、そんなことしていいのかよ。仮にも俺の側近だろ。
」
「正確には"元"側近だな。
それにゼルフォスが"いつまでもかしこまってるんじゃ、めんどくさいから普通に友達として接しろ"って言っただろ。俺はそれに従ってるだけだ。」
「…まっ、早く帰らないと夜が来るし帰ろうぜ。」
ゼルフォスはその場を逃げるように、残りの二頭のバッファローの死体をわしづかみにしてその場を飛び立った。
「お前の場合、"帰る"じゃなくて"逃げる"だな」
空に飛び立った直後、マルバスの鼻で笑う声が聴こえたが、ゼルフォスはそれに構わず高い空へ上昇していった。
沈みゆく夕日を背にして空の上を飛ぶゼルフォス。
下の方に転々と見える雲は大小様々な形を作り出している。
ゼルフォスが風に乗っていると、遅れて空に飛び立ったマルバスが下からエスカレーターで上って来るように上昇して、ゼルフォスの横に並んだ。
「そういえば、あと一週間もないんだよな。」
ちょうど、マルバスとゼルフォスが並んだ時ゼルフォスがぽつりと言葉を口にした。
「なにが?」マルバスが首を傾けながらゼルフォスに尋ねる。
「この試練が終るまで。
俺達が大人になるまでって言ってもいいかな。」
「ああ、そういえばそうか。
もうこの試練が始まって一年か…早いものだな。」
ゼルフォスが答えてもマルバスは大袈裟に驚くことはなく、おぼろげに思い出したように、特にその表情を変えることはなかった。
「ほんと。あの滝の壁をぶち破ったのが、ついこのあいだの出来事のように感じる。」
「そうだな。確かにこの一年あっという間過ぎていったな。
500年は生きる俺達にとって、一人前のドラゴンになる重い儀式が寿命のたった五百分の一で終了してしまうと考えると少し呆気ない気もするな。」
マルバスは言葉を口にすると、大きく鼻息を吐いた。
ドラゴンにとって一年は五百分の一、か…
俊はマルバスの言葉を聞いて、人間の小ささを感じた。
人間の寿命を70年と考えても、ドラゴンはその7倍以上長生きするのだ。一年があっという間だと感じられるのも当然だろう。
「でもさ。この一年、俺達四頭で一緒に過ごした日々を思い返してみると、なんだか、何て言うか…詰まってる感じがしねえか?」
ゼルフォスがそういった直後、俊の意識の中に多くの光景がフラッシュバックして写し出された。そのすべての光景にゼルフォス、マルバス、セコ、グレイが写し出されていることに気がついた。
時にはじゃれ合い、ケンカをし、共に狩りをしたり、喜怒哀楽の詰まった光景であった。
それらは、おそらくゼルフォスがこの試練で見てきたこと、感じてきたことであろう。ゼルフォスがそれらの記憶を思い返したことで俊の意識にも流れ込んできたのではないかと俊は推測した。
「ああ、確かに…そう思い返してみるとそうだな。」
その時、俊には少しマルバスが微笑んだ様に見えた。
そう二頭で話しているうちにねぐらとする洞窟が見えてきた。
気づけば辺りは完全に夜になっていたが、雲一つない空が満月の月光と、光輝き夜空を覆い尽くす星粒をあらわにしている。
そのお陰で、闇が覆い尽くす地表に光が降り注ぎ、それが地上の生ける者に物体の形を知覚する程度の視覚を与えている。
「遅くなっちまったな。」
「ああ、セコもマルバスも腹を空かせてご立腹かもな。」
ゼルフォスとマルバスは苦笑いしながら降下していく。
「ん、あれは…セコか。
あいつ待ち兼ねて俺らの向かいに来たかな。」
二頭のドラゴンがゆっくりと洞窟に近づきながら降下をしている中。洞窟からセコとおぼしき影が体を洞窟のほうへ向け、後ずさるように出てきた。
「いや、そうでもなさそうだな。何か様子がおかしい。
もう一頭…あれはグレイだな
何をしているんだ?」
その時、セコに続いて灰色の鱗を纏ったグレイらしきドラゴンの影が洞窟から出てくる。
暗くてよく見えないが、セコとグレイはお互い向き合っているようだ。セコは後ずさるように、グレイは間を詰めるようにセコに迫っている。
そして、ゼルフォス、マルバスが地面に着地しようとした次の瞬間…
「なっ…グレイっ!!」
ゼルフォスが叫んだ時には、既にグレイはセコに飛び掛かっており、そのグレイの強靭な牙と大きな顎がセコの頭蓋骨を噛み砕かんとばかりに噛み付いていた。
「何をしているんだ、グレイ!
やめろ!セコから離れろ!」
マルバスも大地をも揺るがすような大声で怒鳴ったが、グレイにはそれが何も聞こえなかったかのようにセコの頭からグレイの大顎が離れることはなかった。
セコの頭は鱗の赤よりずっと赤い血に塗られ、身体もその血に洗われていた。意識はかろうじてたもっているようだがぐったりしている。
いったい、何故こんなことになっているのであろうか…それを考える前にまずこの状況をどうにかしなくてはならない。
第三者の傍観者である俊も、これが過去に起こったどうすることもできない出来事だということを忘れ、必死にゼルフォスの体を動かそうとしていた。
すると俊の意思通りゼルフォスの体がセコの元へ駆け出した。が、これは俊の意思で体が動いたわけではなく、ゼルフォスと俊の意思が重なっただけのことだ。
同時にマルバスもセコの元へ駆け出した。
「「あっ…」」
ゼルフォスとマルバスが駆け出してからちょうど三歩目のところだった。二頭は同時に悲鳴に近い声を上げた。
セコが落ちた。
マルバスに身体を突き上げられた瞬間、何トンもの重量があるセコの身体が僅かに宙に浮き、そのまま洞窟の脇にある山を二つに引き裂くような例の深い谷の底へ落ちていったのだ。
「セコぉぉぉっ!!」
ゼルフォスは谷の底まで響くような大声で吠えた。マルバスもワニのような大顎を大きく開いて吠えている。だが、ゼルフォスが吠えるその声量で掻き消されて何と言ったかは解らなかった。
セコが谷底へ落ちていくのを確認したグレイは、鋭い目つきでこちらを睨み、威嚇するように咆哮すると、無謀にも真っ暗闇の夜空に向かって飛び出した。
「待て!グレイ!どこへ行くっ!?」
グレイが飛び出すとすかさずゼルフォスは怒鳴り付けるが、グレイは何も聞こえなかったかのように見向きもせずに暗闇の中へ消えて行く。ゼルフォスはグレイの跡を追うように、翼を羽ばたかせるがそこに後ろからマルバスの声がかかった。
「よせ!ゼルフォス!落ち着くんだ。
今のグレイは危険だ。少なくとも今のあいつは俺らが知っているグレイじゃない。しかもこの暗闇の中飛ぶのは危険過ぎる。」
「今のグレイが正気じゃないことは分かってる。でも、今あいつを止めないでいつ止めるんだ。
マルバスはセコを頼む」
ゼルフォスはマルバスを振り切り、グレイを追うように、真っ暗闇の夜空へと羽ばたいた。
一寸先は闇の世界。
ドラゴンは人間よりは夜目が利くが、フクロウのように夜空を飛ぶに足るほどではない。
何とか山影など大きな障害物なら見える。しかし、夜空を舞うドラゴンを見つけるのは難しい。
俊はゼルフォスと感覚器官を共有しながら、グレイを探すがやはり見つからない。
グレイを探しながら俊は考えた。
"なぜ、グレイはセコを襲ったのか。"
グレイとセコは仲が良かった。
セコはいつも明るく元気で悪戯好きで軽い感じがある。一方グレイは、愛想がなく、頑固でいつもムスッとしている。
セコとグレイ。二頭は相反する性格の持ち主であるが、だからこそ仲は良かった。
互いに足りないものを補っていて、何となくセコとグレイのペアは合っていた。
セコがいたからこそ頑固なグレイも笑っていたし、グレイがいたからこそセコは楽しそうにはしゃいでいた。
それなのに、なぜグレイはセコを襲ったのか。
考えが滞ったところで俊は、思考を切り替えた。
そもそも、なんで俺は異世界のドラゴンのことでここまで思考を巡らせているのだろう。
今回の事件について、俊自身は第三者であり、ゼルフォスの記憶の中で起きた過去の出来事だ。
俺は関係ない。
それなのに、どうしても憤りを感じ、あたかも当事者のように感じてしまう。
自分のことも上手くいってないくせに、なんで俺は他人の事情に首を突っ込んでいるのだろう。
俊は自嘲した。
それでも、セコの安否や、なぜグレイがセコを襲ったのかなどついつい考え込み、ゼルフォスの立場に感情移入してしまう。
その時、突然ゼルフォスが針路を変えた。
グレイを見つけたのだろうか。
俊は慌ててグレイの姿を追おうとゼルフォスの視線の先を見るが、そこは山影が映るだけだ。だが、その直後、風の匂いに混じって生臭く、心が掻き乱されるような匂いが嗅覚を刺激していることに気づいた。
血の匂いだ。
恐らく、セコの返り血がグレイに付着したものであろう。
その匂いはゼルフォスが翼を空に叩きつけていくごとにどんどん強くなっていく。だが、その姿を見ることはできなかった。
「グガッ…」
ゼルフォスはセコを探すのに気を取られて上方を見ることを忘れていた。
まさか、相手から来るとは思わなかったのだろう。
突然風を切る大人が大きくなったと思うと、背後から大きな衝撃と同時に背中を引き裂かれたような激痛を感じた。
大きな錘を背負っているかのように、上昇しようとする揚力は圧倒的な重力に押され、ゼルフォスの身体は失速し、みるみるうちに真っ暗闇の地へと吸い込まれてゆく。
ゼルフォスは、何事かと半ばパニック状態になりながら身体を捻らせると、そこにはゼルフォスに襲い掛かろうとする巨大な陰があった。
「グレイ…」
背中に走る痛みに堪えながらゼルフォスは声を絞り出すように言う。
だが、グレイは全くその声が聞こえなかったように落下してゆくゼルフォスに飛び掛かる。
「どうしたんだよ。グレイ!
どうして、セコを襲ったんだ!
目を覚ませよ。グレイ!」
ゼルフォスはグレイが振り上げた左前脚の鋭い爪を片前足で押さえ、噛み付こうとするグレイの顎をもう片方の前脚で押さえ付け、グレイの攻撃を抑えながら精一杯の声量で怒鳴る。
だが、グレイは言葉で返事をすることはなく、大気を揺るがす雄叫びを上げながらもう片方の右前脚でゼルフォスの首元を押さえ付け、爪を深く食い込ませた。
「ぐあ゛っ」
二頭のドラゴンは絡み合いながら真っ逆さまに落下しつづける。
まずい。このままじゃ地面にたたきつけられる…
ゼルフォスも俊と同じことを察したように、渾身の力でグレイを後ろ足で蹴り上げ、無理矢理グレイを引き離した。
その直後、ゼルフォスは翼に力を込め上昇に転じたが、不意打ちを食らったグレイは、間に合わなかったようだ。
グレイが翼を広げたときにはすでに地面の直上であり、ある程度の揚力を得たようだが、重力には勝てなかったのだ。
グレイは甲高い悲鳴を上げながら腹から地面に激突した。
「グレイ!」
グレイが墜落したのを見て、ゼルフォスは慌てて地表に着陸した。
どうやら、かなり遠くまで来てしまったようだ。血の匂いに混ざるここの土の匂いには覚えがない。
グレイの方へ目を向けると、グレイはゆっくりとその巨体を動かし、後ろの二本脚でたった。地面にたたき付けられたその身体は傷だらけで赤い血が滲んでいる。
「グレイ、もうやめよう…」
ゆっくりと諭すように話すゼルフォスにグレイが目をつけると、グレイはまた狂ったように咆哮しぼろぼろになった身体を精一杯に動かし、地面を蹴り上げ、ゼルフォスに飛び掛かった。
グレイ…
その直後、目の前の光景が真っ白になった。何が起こったか分からない。キーンという高い音の耳鳴りが聴こえる。
俊は、口の中に広がる血の味で気がついた。視線の先には、真っ黒な空。虫の鳴く声。体にのしかかる重み。口の中に広がる血の味。
ゼルフォスは、なにかに噛み付いていた。
身体の中で何かが失われたような感じがする。大切な何かが…
しばらくして、ゼルフォスが噛み付いているものを解放すると、何か大きなものが地面に落ちた。
見るとグレイが地面に俯せになって倒れていた。まるで眠っているように見えるがもう、息はしていない。
首元から大量の血が流れ出し、血だまりを作っている。
俊はその場でめまいに襲われそのまま意識を手放した。