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闇の従者

 

どうしたのだろうか。

 

 

背の後ろから声がない。

 

 

俊は二人が背中から落ちたのではないかという不安に駆られ始めた頃、それを一瞬で鎮める音が耳に入った。

 

 

それはガガガという独特な音の一拍の後、スーと空気を吐くような音が交互に周期的に聞こえる。

 

太一のいびきだ。

それが聞こえた時、俊が自分の背を見ると、太一だけでなく真也までもが俊に抱きついたまま眠っていた。

 

 

三日間の歩きによる疲れと、いつ殺されるか分からないという緊張感と恐怖心が疲れとなり今になってどっと出たのだろう。

 

 

俊はそんな二人の寝顔を見て、二人が自分以上に気の毒に思えた。

 

 

俊は二人が起きないよう翼の動きを極力減らし、上昇気流の力に任せることにした。

 

 

延々と聞こえる風を切る音。それは太一のいびきの音を麻痺させ、徐々に押しつぶしているようだ。そして思考を妨げ、孤独を強調する。

 

 

俊はこれまでの経験から孤独には慣れていたはずだった。

 

 

おかしい。

なんでこんなに苦しいのだろう。

なんだろうこのもどかしさは…

 

 

そのとき俊ははっと気づいた。

 


 

これは孤独というより独りだ。

 

 

太一たちに出会う前、出会ってからもしばしば俊は孤独の中にいた。でも、独りになることはさほどなかった。

 

 

クラスの中で俺はいつも一人だった。とはいえ、それでもクラスに俺一人がぽつんと座っている訳でもない。

 

 

友達同士の会話、黒板に落書きをする生徒。たいていは聴覚、視覚少なくともどちらか一方でその集団に加わっていなくとも人の存在は感知していた。

 

 

今は太一と真也がいるだが、二人は眠っている。

太一のいびきの音は風が邪魔している。二人を見ようと思えばいつでも見られるが、後ろを見ながら飛ぶなんていうお家芸は持っていない。

 

 

俊は今まさに"独り"であるようなものと同然であった。

 

 

俊は初めて"独り"の苦しみを知った。と同時に、"独り"を知った。

 

 

俊は誰かを求めた。出来れば太一と真也が起きてくれればいい、でもなんでもよかった。一緒に飛んでくれるドラゴンでも、ただの鳥でも…

 

 

無性に今、背中に乗っている太一と真也に話しかけたくなった。一緒にいてくれる何かが欲しくなった。

 

 

それでも俊はその感情を抑圧するだけだった。

なんせこんな気持ちになったのが初めてだったから、どうすればいいのか分からなかったから…

 


 

夕焼けが西の空にぼんやりと現れたその時、俊の鼻が匂いに刺激を受けた。

 

 

なんだこの匂い。

煙の匂い。無性に人臭い。それに血の匂い?

 

 

それらの匂いがした瞬間、臭いと感じた反面、本能的にか一気に体中の血液がドッと流れるのを感じ体が火照り始め、自然と呼吸が荒くなった。

 

 

どうやら、体が条件反射的に興奮しているようだ。

 

 

俊はこの感情を抑えるに抑えきれずに、ふと目的地である城下町を見た。

 

 

あと数キロ先かという所に城下町はある。

 

 

堅牢な城壁に守られ、大小のレンガ造りの建物が入り組み、大通りでは露天が出て賑わう城下町、そして見る者を圧巻させるような城下町のど真ん中にそびえ立つ石造りの巨城。

 

 

そんな光景が少し前まであったのだろうか。

 

 

今俊の目に映る光景は、そのあちこちから黒い煙が天に向かってなびいており、城門は無残に破壊され、建物の窓は割れ、ドアは蹴り破られている。

 

 

露天が並んでいたであろう大通りはテントが破られ、道が赤く染まっており、その周りには小さくてよく分からないが何かが折り重なるようにして倒れている。

 

 

中央にそびえる巨城は一部、一部気になる穴がいくつか開いているだけだが、城全体から異様なオーラを放っていた。

 


 

「おい、太一、真也。

起きろ」

 

 

俊はただ事ではないと思い後ろを向き小さな声で囁く。

すると、真也は声に反応していち早く起き、なかなか起きない太一を揺すったり、ひっぱたいたりして起こした。

 

 

「う~ん…

なんだぁ?あっ、俺寝てた。」

 

 

寝起きの太一が呂律が回らない声で目を半ば開けながら真也に訊くと、真也は短く「俊が呼んでる。」と答えた。そして二人は同時に俊の顔を見た。

 

 

俊が視線を廃墟になりかけた城下町に向け、太一達にそれを見るように促した。

 

 

「あれは…煙?」

 

 

二人の表情の変化は窺えなかったが、その真也の声からなんとなくその表情が窺い知れた。

 

 

「ああ、そのようだ。

しかも風の流れに乗って煙の匂い、人臭い匂い、それと血の匂いがする。」

 

 

「「血の匂い!?」」

 

 

俊は思わず"人臭い"と言ってしまったが、二人は幸い気に留めなかったようだ。それよりか二人は"血の匂い"という言葉に同時に反応した。

 

 

「それとまだ遠くて見えないだろうが、あの城下町結構ヤバそうだ。」

 

 

俊はそう言うと、その後に俊の目に映る光景を刻々と二人に告げた。

 


 

太一らがその惨状を知ると三人は話し合い、とにかく地上に降りて現状を確認することとなった。

 

 

俊らはその廃れた城下町の上空に達すると徐々に高度を下げ、スパイラル状に小さな弧を描きながら地面へ降りていった。

 

 

日は完全に没し、西の空は薄く黄金色に、東の空は闇に染まり、その間の南の空は二つの空が入り混じっている。

 

 

そんな絶妙な時間でも二人と一頭のドラゴンの眼にはその惨状は刻々と映っていた。

 

 

俊が城下町にゆっくり着地すると、いち早く人臭い匂いが俊の嗅覚を襲った。今になって気づいたのだが、その人臭いという匂いは実際は人の死体が焼け焦げた匂いだった。

 

 

俊の足元は血や人の死体に覆われており嫌悪感を感じる反面、内なる心から微かな興奮が沸き上がってくる。

 

 

その死体は、人だけでなく犬や猫の死体も混ざっており、ある者は皮膚をきれいに剥ぎ取られ、ある者は内臓が引きちぎられ、またある者は顔が識別出来ないほどに顔面が破壊されおり、猟奇的な殺され方をした死体が多かった。

 

 

後ろに乗っている二人は惨烈きわまった光景を見てか絶句している。

 



 

「なんなんだよこれ…何があったんだよ。

これってみんな死んでるのか?」

 

しばらくして太一が震える声で言う。

 

「見ての通り、これじゃあ生きている者なんかいないだろう。

それにしても何でこんなことに…」

 

太一の声に答える真也の声は生きてはいないような呆然としたものだった。

 

二人はこの惨烈とした光景で息苦しさと背筋が凍てつくような感覚を感じているのだろう。

 

 

俊もあまりの光景に声も出なかった。しかし身体はそれとは逆に興奮し、心臓は張り裂けるかのように騒ぎ、身体は火が出るんじゃないかと思うほど火照っている。

 

 

さらに、自分とは何の因縁があるわけでもないのにこんなことをした奴を引き裂き殺してやりたいとさえ思った。

 

 

そして、その訳も分からない憎悪と興奮が爆発するときがやって来た。

 

 

突然ある一軒の廃墟の一階から体長が二メートルくらいあり、身体が人面に覆われ、口から食べかけの血にまみれた人間の腕を出している八本足の蜘蛛が、

 

その二階からは毛が血や泥で汚れ、人間よりも大きな体と赤い目が横に四つ並ぶ涎を垂らした狼が飛び降りてきたのだ。

 


 

「なんだよあれ。

あんなやつ見たこともねぇ。」

 

 

「ああ、なんだか分からないが、どうやら穏便に済むような生物でもなさそうだな。」

 

 

真也が太一の言葉を冷静に返した時ちょうど奇形の大蜘蛛が口にしていた人間の腕を食いきった。

 

 

そして二匹の化け物は俊達に気づいたのか赤い目をこちらに向け低く唸り威嚇する。

 

 

太一は慌てて足元にあった心もとない細い木の棒を刀を握るように構えた。しかしそれは体裁だけで、それを握る手は大きく震えている。

 

 

「く、来るなぁぁっ!」

 

 

太一は恐怖に満ちた声で叫んだ。

 

 

「太一!」

 

 

真也がその呼び声とともに渡したのは落ちていたのであろう血で汚れた両刃の刀、剣だった。真也はそれを太一に押しつけるように渡す。

 

 

「おい、馬鹿。

こんなでっけぇ刃物を振り回したら銃刀法違反で務所行きだぜ。

これから大学受験なのに務所に行くのは…」

 

 

「馬鹿はお前だ。

こんな事態で何言ってんだ。そんなもん振り回しても意味ないだろっ!

務所に行く前にあの世行きだ。」

 

 

流石に太一の間抜けな言葉はいつも冷静を保っている真也も堪えきれずに今まで真也が見せたことほどの剣幕で苛立ちを表す。

 


 

太一は真也に圧されて剣を手に取った。

 

 

真也は太一に剣を押しつけていた左手の反対側。右手に持っていた一本の矢を今にも折れそうな弓につがえる。

 

 

「なあ…」二人のやりとりを見ながらその何かに堪えるような声を出したのは俊だった。

 

 

「ここは…俺に…任せて…くれないか?」

 

 

俊は疲れてもいないのに息を荒くし、寒いわけでもないのに身体は震えていた。

それは必死に何かを抑えているかのように…

 

 

「何言ってるんだよ!お前ひとりじゃ…」

 

 

太一は化け物への注意を逸らさずに俊に叫んだ。だが、その途中で太一の叫び声を遥かに上回る轟がその声を遮り、鼓膜を張り裂けんばかりの低い声が大地を震わせたのだ。

 

 

その次の瞬間だった。

 

 

太一と真也の間を風の如く何か大きなものが過ぎ去ったかと思うと、それが奇形の大蜘蛛にのしかかりノコギリのようなぎざぎざした歯でその胴に噛みついたのだ。

 

 

その蜘蛛にのしかかった巨体とは金色の目をぎらぎらさせるドラゴンと化した俊だった。

 


 

突然ドラゴンの強靭な顎に噛みつかれた大蜘蛛はたまらない。

 

 

大蜘蛛はギャーギャーと気味の悪い悲鳴を上げながら必死に前足を動かし、爪で俊を引き離そうとする。

しかし俊はしっかりと身体に牙を食い込ませており、なかなか離れない。

 

 

そんな最中、化け物のもう一頭。狼の姿を模した化け物は大蜘蛛に食らいつく俊の首筋を狙って飛びかかる。

 

 

それを察知した俊は狼を見向きもせず、大きな尻尾を鞭のようにしならせ、バットでボールを打つように狼を叩きつけた。

 

 

その尻尾の速さと重さの力積で狼は目にも留まらぬ速さで瓦礫に激突し、甲高い断末魔と同時に汚れた血を散らして動かなくなった。

 

 

一方大蜘蛛は、俊に体を真っ二つに引きちぎられ完全に息絶え、辺りを青黒い不気味な血に染め、俊がその残骸を無心に貪り喰っていた。

 

 

      ***

 

 

終わった、、、のか…

 

 

真也は体の力を抜いてつがえていた矢を外した。太一も手に込めていた力を抜いて剣を地面に落としている。

 

 

目の前にいた二匹の化け物は一瞬にして片付いてしまった。しかも親友、俊の手によって…

 

 

しかもその俊は今も尚その残骸を無心に食している。

 

 

まるでさっきの化け物と同じように…

 



 

「しゅ…しゅん…俊。

 

 

太一が大蜘蛛の残骸を貪り喰う俊を呼びかけた。

そしてその最後の呼びかけに俊は手を止め振り返った。

 

 

俊の巨体は夜闇でその影しか見えなかったのだが、振り返った瞬間、月の光が俊の目を反射させ、太一らは蛇にでも睨まれたような感覚を覚えた。

 

 

だがその直後、その目は柔らかくなり、太一たちが覚えた感覚は消え去った。

 

 

俊はすぐに太一らから視線を逸らし地面に目を伏せる。

 

 

さっきまで漂っていた緊迫した空気が一気に冷めた。今は重々しい空気が辺りを占めている。

 

 

あんなに大きく見えたドラゴンになった俊が急に小さくなったように思えた。

 

 

周囲は闇と沈黙が支配している。それに抵抗するのは少し欠けた満月の月光だけ。いつも加勢してくれる星達は厚い雲に覆われていた。

 



 

     ***

 

 

俺はなんてことをしてしまったんだろう

 

 

そう気づいた時、口の中に残る大蜘蛛の血肉の美味さを否定しようとしたが、ドラゴンの舌はその味を忠実に脳へ伝え、そのドラゴンの脳は確実に俊に美味いと伝えている。

 

 

「俊、お前…大丈夫か?」

 

 

太一が恐る恐る尋ねる。

 

 

「あ、ああ。でも、俺…」

 

 

俊は少しだけ顔を上げたが語尾を濁し、再び俯き、魂まで吐き出しそうなため息を吐いた。

 

 

俊はいっそここから飛び出したいと思った。そしてマルバスのいるあのドラゴンの洞窟に逃げ込みたいと思った。

 

 

しかしそれはできない。そんなことをすればもう一生太一や真也に会えなくなってしまうかもしれない。

 

 

心が曇ったまま、ただ一頭のドラゴンとして生きていかなくてはならないかもしれない。

 

 

そんなことは絶対に嫌だ。

 

 

ならば、結果がどうなろうといっそ本当のことを言った方がお互いすっきりする。

 

 

そして、俊は決めた。

本当のことを言って全てを受け入れようと…

 


 

「ごめん…」

 

 

廃墟が並ぶ沈黙した街。時々厚い雲が弱い月の光を遮り、その薄気味悪さを強弱させる。

 

 

そして、それが人間の耳でも聞こえるか聞こえないかぐらいの俊の小さな声を拡声させた。

 

 

俊の声を聴いた二人は俯いていた顔をゆっくり上げ、俊の目を見る。

 

 

「俺、お前たちを驚かせてしまったな。」

 

 

その時、太一の唇が僅かに動いた気がしたが俊は無視して話を続けた。

 

 

「さっきは中身は人間の有賀 俊のままだなんて言ったけど、嘘なんだ。

 

確かに俺は俺。有賀 俊だ。だけど今のではっきりした。

 

俺はもう外見も中身も人間の有賀 俊じゃない。"ドラゴン"の有賀 俊だ。俺の中の人間はもうほとんど死んでしまったんだ。仕草も思考も…

 

だからもう…お前たちと一緒には…」

 

 

俊は話し続ける毎に身体の芯から熱くなり、その熱で抱えていた重いものを燃焼させているような感覚を覚えた。

 

 

「お前がお前であればそれでいい。」

 

 

「へ…」

 

 

俊が真剣に熱く真実を告白していく中、不意に太一が笑みをこぼしながら意味ありげに言った。

 

 

俊は突然の話の割り込みで間の抜けた声を出す。

 


 

「はぁ、やっぱ忘れてたか。お前たまには俺の話をちゃんと聞けよ。さっきの俺の名言だぜ。」

 

 

太一は一息吐くとへらっと笑ってみせた。

 

 

太一の言葉の理解に苦しむ俊は困惑した表情を見せる。

 

 

「だから、中身が人間だかドラゴンだか知らねーけどおめえは俊なんだろ?有賀 俊なんだろ?だから俺には人間だろうとドラゴンだろうと俊であればかんけーねー。

そんなことで俺たちの仲は切れねーぜ。

そうだろ、真也。」

 

 

太一がぶっきらぼうに言うと、ふざけたように腕を真也の肩に絡め、寄りかかる。

 

 

「まあ、俺も太一と同じ考えだ。だから心配するな。」

 

 

真也は寄りかかる太一を振り払わずに口元を緩めて言った。

 

 

「…ありがとう」

 

 

俊は簡単な言葉で感謝の気持ちを表したが、言葉に余る気持ちで外も中もドラゴンに成り果てた自分を受け入れてくれたことに深く感謝した。

 

 

「感謝するこたぁねぇ。

当たり前のことだろ。

むしろ感謝すんのはこっちの方だ。お前がやってくんなきゃ俺ら今頃彼奴らの腹の中だしな。

俺たちは一生友達だ。」

 

 

俊は太一の言葉に答えるように「ああ。」と強く返事をし、真也は緩い笑顔で頷いた。

 


 

心のおもりであった虞[おそれ]を親友に告白した俊は一歩、太一と真也のもとへ足を踏み出した。

 

 

おもりという表現はまさにその通りで、俊が踏み出した一歩はさっきまでの一歩より軽くなっていた。それは脚だけでなく体も軽くなっているように錯覚した。

 

 

そしてもう一歩、

俊が反対側の脚を踏みだそうとした、その時

 

 

「うぅっ…」

 

 

弦を強く弾くような高い音が響き渡った直後、俊は右肩に衝撃を受けた。

 

 

衝撃というものの痛みは豆鉄砲を受けた程度のようなものでそれほど「痛い」とは感じない。

 

 

だが、衝撃を受けた右肩を見下ろすとドギモを抜かれるような物が刺さっていた。

 

 

「矢?」

 

 

一見したところ木の枝が刺さっているのかと思ったが、よく見るとその先には細い黒い線が入った白い羽が付いているのに気づくとそれが「矢」だと分かる。

 

 

俊は茫然とその刺さった矢を眺めていると再び弦を弾く音がした。

 

 

俊はその音に我に返るとその太い首についた頭を下に逸らす。

その直後に頭の上で風を斬る音が耳に入った。

 



 

「誰だ!?」

 

 

俊がギラっと目を光らせ、矢が飛んで来た方向を睨みつけ吼える。

 

 

「動くな!」

 

 

返事は早かった。

声量は俊に劣るもののうむを言わせないほどの威勢で相手を圧倒するかのような勇ましい女性の声だ。

 

 

俊はその声に従い動きを(瞬時的に呼吸までも)止めてしまった。

 

 

「少しでも動いてみろ。

そのときは、この矢が貴様の右目を潰すだろう。」

 

 

その声がしたとき、俊の目がその声の主の姿を捉えた。

 

 

その声の主はやはり女性で、老いたとは当然いえず、若いともぎりぎりいえないくらいの長い金髪の髪に、海の色の瞳で長身の引き締まった見事な体型を持ち、鉄の鎧を纏った白人系女性だ。

 

 

いや、実際は長身でも引き締まった見事な体型をもっている訳でもないかもしれない。

ただ、彼女には尋常ではないほどの威圧感と存在感が確かにあった。

 

 

実のところ、その彼女がつがえている矢で俊の動きが止まったというよりも、その二つの大きな力で「動けなくなった」と言った方が正しいかもしれない。

 



 

「そこの東洋人二人。

今のうちだ。早くこっちに来なさい。」

 

 

その鎧を纏った女性は、標的を捉えたまま静かに言った。

だが、当然二人は動こうとはせず、その場に踏みとどまり太一が口を開く。

 

 

「待ってくれ。こいつは俺たちと同じ人間なんだ!

有賀 俊って名前の俺たちの仲間だ!」

 

 

「おいおい、気が狂っているのか?

あれをよく見ろ。どこが人間だ?どこが似ている?

あれは紛れもない血と肉と欲望にまみれたドラゴンだ。

ここら辺に散らかっているのと変わりない化け物だ。」

 

 

女性は冷酷な目で俊を罵倒すると、弓をキリキリといわせながら更に引いた。

 

俊は今の自分の力をもってすれば彼女が放つ矢などかわせると確信していた。

ひとたび彼女が矢を放てばたちまち俊の身体に刻まれているドラゴン固有のDNA…戦闘本能が覚醒し、己を縛り付ける二つの力を振り解き、彼女を血祭りにあげるだろう。

 

 

「なっ…ちょっと待て…」太一は慌てて矢を放とうとする女性を止めようとするが、そこに真也が「ここは俺が話す。」と口を挟み太一を制した。

 


 

「こいつの言う通り。ここにいるのは。俺たちと死ぬときは一緒だと誓いを交わした親友、有賀 俊だ。

 

俊は以前は人間だった。だが、ある日彼は呪いによってこのような姿になってしまった。

だから我ら三人は俊の呪いを解くべく母国を飛び出し、海を越え、山を越え、遥々この地までやって来た。

 

もし、あなたが彼を殺すと言うなら我々二人も死ぬ覚悟だ。」

 

 

胸を張り、堂々とした態度で、女性を睨み付ける訳でもない、真っ直ぐ彼女の目を見て真也は言った。

 

 

「俺ら、海も山も越えてないんじゃ…」

 

 

太一がまた余計な口を出そうとしたが、その瞬間、真也の鋭い視線が刺さり太一の軽い口を封じる。

 

 

そして、再び対峙する女性を直視した。また、彼女もこちらを直視する。

 

 

先ほどまでの緊張とはまた別の緊張した空気が辺りに流れ出す。

 

 

その空気が時間の早さを鈍らせた。

 

 

錯覚なのか現実なのか、普通前者だろうが、俊にはなんとなく、そうでないような気がした。

 

 

もしここに時計があったら秒針がいつもより進む早さが半分になっているかもしれない。

 

 

まあ、今はそんなこと関係ない。

 

 

そうして俊は意識を彼女に移した。

 


 

「ふっ」不意に女性が鼻で笑った。空気と時間の流れが元に戻った。

 

 

「おもしろい。

その話、詳しく聞かせてくれ。」

 

 

敵対心を消した彼女は構えていた弓を下ろした。 

 

 

 

 

その後、俊ら三人とそれに加わった謎の女騎士(?)は廃墟となった民家で一夜を過ごすこととなった。

 

 

「大丈夫か?その傷」

 

 

廃墟の中、真也が灰の溜まった暖炉に薪をくべるのをよそに太一はとぐろを巻いている俊の先ほど受けた矢傷を心配する。

 

 

そこには家財に寄りかかって座る女騎士の視線もあった。

 

 

「最初は蜂に刺されたような感じだったけど、今はなんともない。

一応、傷はほとんど完治しているみたいだしな。」

 

 

俊は平静を装って答えた。

 

 

矢傷が癒えたのは本当だ。

だが、痛むのは矢傷でなく背中。

 

 

あの蜘蛛のような化け物との戦いの中で背中を化け物に引っ掻き回された。その傷自体は鱗が少し剥げたくらいだが、ひりひりとした痺れに近い痛みが残っている。

 

 

あの蜘蛛の爪には毒でも仕込んでいたのであろうか。

 

 

「あんま無茶すんなよ。

俺だってやる時はやるんだぜ。」

 

 

「てっ、言ったってお前ガクガク震えてたろ?」

 

 

「あれは~そう、あれだ。

寒かったから…」

 

 

太一は騒がしいがらがら声で無邪気な笑顔で笑ってごまかす。そしていつもながらそれに笑みを漏らして答える俊であった。

 


 

「愉快なものだな。

 

ドラゴン。お前にとっては私が放った矢などどうってことないだろう。

むしろ痛むのは背中の方じゃないのか?

 

 

あの蜘蛛の脚には毒が塗られており、人間であれば掠っただけでも死に至ると聞いたことがある。」

 

 

「ま、まあ、

少し痺れる程度だけど」

 

 

俊は背中を気にして言う。

 

 

「見てたのか?最初から」

 

 

暖炉の火を自然に任せた真也は話の中に入ってきた。

 

 

「蜘蛛とお前達が睨み合っているところからな。」

 

 

「じゃあ、最初から俊は俺たちの仲間だと気づいていたんじゃないのか?

 

仮に俊が本当のドラゴンであったならば俊は俺たちを襲っていただろう。

 

だが実際、俊は俺らを助けてくれた。

 

そこまで見てあんたは俊が俺らの味方だと気がつかなかったのか?」

 

 

その時、女騎士の目が一瞬カッと見開き、目に角を立てる目つきで真也を睨みつけ、突然爆発したかのように言い放った。

 


 

「ドラゴンが人間の味方!?

笑わせるな!

そんなこと誰が考えられようか。

奴らが今まで何人…何万の人間を殺したと思っている?

奴らにとって我らは虫けらか餌。それ以下でしかない。

奴らは野蛮で心なしで汚い。この世に生きることも赦されない化け物だ!」

 

 

彼女は言える限り怒鳴り散らした後、息を整え俊を睨んだ。

 

 

その目はおぞましく、まるで恨みでもあるかのような目つきであった。俊はあまりの恐怖でそれから目をそらしてしまった。

 

 

「こやつとて今は人間を語っているが、そのうち力に溺れ、身を本能に任せ、地を這い、空を制すただの化け物と化すだろう。」

 

 

「貴様…」

 

 

いつもの堅い冷静さを失った真也が身を乗り出し女騎士に近づいた。

だがそれよりも早く小さな影が真也の進路を阻む。

そして…

 

 

「うりゃ」

 

 

ネズミのように素早く女騎士の懐に潜ったそれは、下から突き出すように彼女の腕の甲の縁を持ってそのまま声を上げながら一本背負いをした。

 

 

彼女は不意を衝かれ呆気なく前方に小さく一回転すると勢いよく金属を叩く音を立てながら地面に叩きつけられた。

 


 

これは一秒か、一秒ないくらいかの出来事。

 

 

このとき彼女は何が起きたのかも分からず、視点の定まらない目で伸びていたということは言うまでもない。

 

 

そして、それをしでかした…太一は今まで俊たちにも見せたことがなかった表情で彼女を上から睨みつけ、先の彼女の声にも劣らない声で怒鳴った。

 

 

「俊を化け物呼ばわりするんじゃねぇっ!」そう一喝すると一息吐いて声を抑えて言う。伸びていた女騎士はそのまま微動だにせず、じっと太一を見ている。

 

 

「こいつは言った。

たとえ身体がドラゴンでも中身は俊だって…

いくらこいつがドラゴンに成り果てたって俊は俊なんだ。それを化け物呼ばわりする奴は俺がこの宮内 太一と白鳥 真也が許さねぇ。

だからっ…」

 

 

太一が続けて話そうとした時その言葉が詰まった。

それは唾が詰まったからではない。何かが太一のボロボロの服の襟を後ろから引っ張ったからだ。

 

 

太一が驚いて後ろを向くと目の前には俊の大きな顔があった。

 


 

「もういいよ、太一。」喉を鳴らすような小さな声であった。表情の分かりにくいその獣の顔からは確かに悲しみが感じ取れた。

 

 

その後太一は燃え盛る炎が一気に消えたようにしゅんとなり、ドンと音を立てて長椅子に腰を下ろすと終始なにも言わずに横になって、そのまま寝息だけを立てるようになった。

 

 

残る三人もそれに続くようにしてそれぞれ無言のまま眠りに就いた。

 

 

 

 

ビクッ

 

 

風の流れが変わった。

 

 

誰か起きたのであろうか。

 

 

この鋭い感覚器官は微弱な風の流れまで細かに感じ取ることが出来る。

 

 

風の流れが変わったということは、風向きが変わったか、風の強さが変わったか、もしくは誰かが動いて風の流れを乱したか、それしかない。

 

 

今回は風の変化の大きさからして第三択目だろう。

 

 

そこまで至って俊は目を覚ました。

 

 

前脚、後脚に力を入れ頭を低く、天井にぶつからない様に身体を起こす。

 

 

もうこの身体には随分慣れてしまった。初めのうちは体の大きさに慣れなくて洞窟に何度か体をぶつけていたが、今ではこんな狭い民家の廃墟の中でも一応動けるようになった。

 

 

「なんだ。起きてたんだ。」

 

 

聞き覚えのある声を聞いて俊はゆっくりと後ろを向いた。

 


 

俊の視線の先には昨日の女騎士がいた。

 

 

起きる前に感じた気配も彼女のものだろう。

 

 

でも何か違う。

確かに彼女は彼女だが、昨日の彼女と何かが違って見える。

 

 

長い金髪、海の色の瞳、長身で引き締まった体型…あっ。

 

 

俊は気づいた。今の彼女にはあの威圧感がない。それにあの体に突き刺さるような視線も感じられないことにも気付いた。

 

 

「アタシが昨日と違って見える?」

 

 

女騎士はそう言って微笑んだ。

 

 

「な、なんだか女性らしく…優しく見える。」

 

 

「なんだか、"昨日は女には見えなかった。"

みたいな言いぐさね。

まあ、いいわ。

昨日は相当きてたから仕方ない。」

 

 

「きてた?」

 

 

俊は意味が分からずオウムのように彼女の声を反復した。

 

 

「ちょっと、外に出よっか。ここじゃ、話すにも話しづらいしね。この子達も起きちゃう。」

 

 

彼女は熟睡している太一や真也をいちべつして言うと、俊の返答を待たぬうちに、立て掛けていた剣を腰に挿してさっさと外に出て行ってしまった。

 

 

俊は女騎士の跡を追って外に出た。

 


 

外はまだ暗く、東の空がほんの少しだけ白けてきたくらいだ。真上の空は真っ暗で、星は砕け散った硝子のように輝いている。ちょうど鳥たちが目覚める時間らしく、小鳥たちが忙しく鳴いている。

 

 

だが、今この場所では美しい声の小鳥より、しきりに煩く鳴くカラスの声の方が圧倒的だ。

 

 

昨夜は暗くてほとんど見えなかったが、今は全て見える。

人間の死骸、動物の死骸、そして得体の知れない化け物の死骸。

 

 

それに加え、死体の腐敗が進んだせいか悪臭が酷い。

 

 

その中を彼女は、女騎士は何食わぬ顔ですたすたと長い金色の髪を左右に揺らしながら歩いて行った。俊もその跡に続く。その途中、彼女は前に歩く姿勢を変えずに俊に話しかけてきた。

 

 

「そういえば、こうして昨日から一緒にいたのにお互いの名前まだ言ってなかったわね。」

 

 

そういえばそうだ。

昨夜はあんなに言い争っていたのに、お互いの名前を明かしていなかった。少なくとも彼女は俊の名前を知っているかもしれないが、俊は彼女の名前を知らない。

 

 

「アタシはイリアル帝国所属、アンナ・サー・テレムス。見ての通り騎士。帝国唯一の女騎士だけどね。みんなにはアンナって呼ばれてる。」

 


 

相手が名乗ったのだから、こちらも名乗らなければならない。それが人間社会での礼儀だ。

 

 

「俺は有賀 俊。」

 

 

「アリガ シュン。

なんだか変わった名前ね。東洋の国だからかな。国は?」

 

 

「日本。ここが西洋なら、ここからずっと東の島国だよ。」

 

 

「ずっと東か…東洋じゃクフ国やユン国までなら聞いたことはあるけど、ニホンなんて国聞いたことないね。」

 

 

クフ国…、ユン国…

どちらも聞いたことがない国だ。やはり、ここは異世界だからだろうか。元の世界との接点は一つもないのだろうか。

 

 

俊がひとり思考を巡らしていると会話が途切れてしまった。

次に声が聞こえたのは暫く歩いた後だ。

 

 

「ここら辺なら死体も少ない。」

 

 

俊は彼女の声を聞くと、自分が中央に噴水を構えた広場に辿り着いていたことに初めて気づいた。

 

 

やっぱ、この身体で考え事は向かないな。考え事をすれば全ての集中力がそちら側に行ってしまう。

 

 

俊は前に気づいた事を改めて自覚しながら辺りを見渡した。

 

 

女騎士が噴水の段差に腰を据えた。俊もその横でとぐろを巻くようにして横になる。

 

 

「昨日は悪かったね。矢の事も謝るよ。」

 

 

彼女は真っ直ぐ向いたまま何気なく謝った。

 

 

一見、心から詫びているようには見えなかったが、俊にはそうではない、ということがすぐに分かった。

 

 

彼女がわざわざ本心を隠すのは、騎士としてのプライドからだろう。

 


 

「ああ、でも昨日の事は仕方がなかった。俺達のことは知らなかったんだし、あの状況で俺を撃ったのは真也や太一たちを守る為だったんでしょ。そう考えれば、俺も嬉しい。それに傷ももう消えた。」

 

 

俊も体勢を変えることはなかった。そして、彼女のように何気なしに言葉を返した。

 

 

「いや、それは違う。

分かってたんだ。最初から…」

 

 

「えっ…。」

 

 

俊が驚いて彼女を見たときには彼女は視線を落とし、地面に死んだような目を見せていた。

 

 

「あの妙に勘のいい…

真也…だっけ?

あの子の言う通りさ。

アタシ、分かってた。最初見た時からアンタと彼らが仲間だってね。」

 

 

「じゃあ、なんで…」

 

 

「なんであの時俺を撃ったのか。

 

それは認めたくなかったから、それにあの時相当きてたから。」

 

 

認めたくなかった?

きてた?

何のことだろう。

何を認めたくなかったのだろう。

何がきていたのだろう。

 

 

このことについて聞こうかと迷っているうちに答えは相手から出てきた。

 

 

「話長くなるけど、最初から話した方が良さそうね。」

 

 

彼女はそう言うと、淡々と話し出した。

 


 

      ***

 

 

ー15年前ー

 

~ヴィナス~

 

 

「は~い、いらっしゃい、いらっしゃーい。

ヴィナス限定、モラワウオの干物だよ~。今なら、四割引き160ルピスでどうだい?」

 

 

魚屋のカルさんの声だ。

ヴィナスの市場はこの人の声で始まる。いつも何割引きかで売って、客に値切られ、最終的には半額かそれ以下にする。

 

 

そして、みんなには「商売上がったりだ~」と馬鹿笑いしながら言う。

 

 

アタシはそんなカルさんが好きだ。町のみんなもそう言っている。

 

 

「アンナ~。

行くよ~」

 

 

母さんの声だ。

母さんがいつもの優しい顔でアタシを呼んでいる。

 

 

「は~い」

 

 

今日は母さんと市場でお買い物。父さんのバースデーパーティーの食材を買うんだ。

 

 

父さんにはもちろん秘密。父さんは今頃、自警団で訓練してる。アタシの父さんは強いんだ。なんたって自警団の団長だからね。いつもアタシの自慢話の一つにしてる。

 

 

「ねぇ、母さん。

父さん、クムの唐揚げ好きだからそれにしようよ。」

 

 

「クムの唐揚げ~?

それはアンナが好きなんでしょ?」

 

 

「ねぇ~。いいでしょ?お願いっ!」

 

 

アタシは頭をペコリと下げて頭の上で神様にお願いする時のように手を合わせた。

これが、アタシが母さんや父さんにお願いする時のいつものポーズ。これをするとたいてい叶えてくれる。

 

 

今だって、

 

 

「じゃあ、クムの唐揚げね。」

 

 

「やったー」

 

 

ほらね。叶えてくれた。

そしたら、アタシはいつも笑いかけるんだ。だって嬉しいんだもん。

 

 

「それと何にしよっかぁ~」

 

 

母さんはそれからぶつぶつ、料理を言ってたけど、アタシは好きな食べ物を上から順番に言っていった。

 

 

母さんは「うん」とは言ってくれなかったけど、アタシが好きな食べ物の材料をたくさん買ってくれてた。

 

 

アタシは、母さんひとりじゃ重そうだったから少し手伝ってあげたんだ。

偉いでしょ。アタシ。

今日の夜が楽しみだなぁ。

 



 

アタシは母さんとカルさんの話をしながら帰った。

 

 

やっぱり、母さんもカルさんのこと好きなんだって。

でも父さんとアタシの方が大好きだって言ってくれた。アタシと父さんじゃ、どっちが好きなのかなぁ。

 

 

家に帰った後、母さんは食材をキッチンに置いてエプロンを着ていた。

 

 

「さあ、作るわよ。

アンナ、お水、お願いね。」

 

 

「は~い」

 

 

これは、アタシの仕事。毎日、町の井戸まで行ってお水を汲みに行くんだ。

 

 

女の子なんだから少しは家事が出来ないとね。

 

 

アタシがお水を汲みに行くといつもカルさんの奥さんに会うんだ。凄いよね。毎日だよ。これって友達が言ってた運命って言うやつかなぁ。

 

 

カルさんの奥さんはいつもお水を汲むアタシを褒めて、砂糖飴をくれるんだ。アタシはいつもそれを舐めながら帰るの。もちろん、お礼は忘れないよ。

 

 

家の前に着くと、いい匂いがしてきた。

 

 

この匂いは…唐揚げだ!クムの唐揚げだ。その他にもアタシの好きな匂いがいっぱいする。

 

 

「ただいま~」

 

 

アタシはお水を水桶に入れて家の扉を開けた。

 

 

「おかえりー。

アンナ、ありがとうね。」

 

 

キッチンの方からお魚が焼ける音と一緒に母さんの忙しさと優しさの混じった声が返ってきた。

 

 

キッチンに入ると、料理がいっぱい並べてあった。それもアタシが好きな料理がいっぱい。

 

 

「あと、一時間くらいで出来るかな。

そろそろ時間じゃない?アンナ。」

 

 

「あっ、そうだ。」

 

 

アタシはそう思い出したように言うと、キッチンを飛び出し、家を出た。

 

 

父さんのお仕事が終わる時間だ。

 

 

アタシはいつも父さんが帰るとき迎えに行くんだ。でもこれは、お手伝いじゃないよ。アタシが行きたいから行くんだ。それに行ったら父さんが肩車してくれる。

 

 

「行ってきまーす。」って言うと私は家を飛び出し、お母さんの「行ってらっしゃーい」って言う声を耳の後ろで聞きながら駆け足でお父さんが勤める自警団の本部を目指した。

 

 

街の坂を下ってゆく。昼間の市場はそろそろ閉店となり、店じまいを始めている。これから夜にかけて夜の露店がこの通りに並ぶんだ。

 


 

走ってゆくとあっという間に自警団の本部の前までたどり着いた。あっという間だったけど、この頃には日が西の空に夕焼けを作っていた。

 

 

「あっ、これはこれは団長のお嬢様。」

 

 

自警団の人だ。お父さんの迎えに行くといつも敬礼…だっけ?それをしてお父さんの仕事が終わるまでお話してくれたり、チャンバラごっこしてくれるんだ。

 

 

アタシ強いんだよ。

いつも自警団の人に勝つんだ。アタシに勝てた人なんてひとりもいない。

みんないつも「参った。参った。」って言って笑いながら降参しちゃうんだ。

 

 

今日だってそうだよ。現に今アタシの目の前にいる自警団の人も腰を地面に着いて笑いながら「降参。降参。」って言ってる。

 

 

「アンナちゃんは強いね。

将来は我々自警団のエースだね。」

 

 

そう自警団の人に言われてアタシは嬉しくなった。いつか父さんと一緒に仕事ができる。そう思うとわくわくした。

 

 

「こらこら、私の娘をそんなにからかわないでくれよ。

 

本気になったら困る。

この子には血を見せたくないしな。」

 

 

野太くて、優しい声。アタシの大好きな声。父さんの声だ!

 

 

「父さん!」

 

 

アタシは気づいたら叫びながら父さんに飛び込んでいた。

 

 

「これはこれは団長。

書類は拝見して頂けたでしょうか?」

 

 

「ああ、見たよ。隣村のことだね。気の毒なことだ。まさかドラゴンに襲われるとは…

支援のために救護班と四番、五番隊を送ったよ。」

 

 

お父さんはアタシを肩車しながら仕事の話をしていた。でも何のことだか分かんないし、アタシには関係ない。

 

 

「それではこの町の防備が薄くなってしまうのでは?」

 

 

「ドラゴンが村や町を襲うなんて天文学的な確率だし、闇の従者が現れても一個隊で十分だ。この町の治安もいいし、大丈夫だろう。

 

さて、私は仕事も終わったし、帰らせて貰うよ。娘がこうして待っているしね。」

 

 

「はっ、お疲れ様でした。」

 

 

自警団の人達は父さんにキチッと敬礼すると自警団の本部の建物の中へ入って行った。

 



 

家までの帰り道。夕焼けも見えなくなってきて、家々は明かりをつけ始め、バーからは大人達の笑い声が洩れる。

ヴィナスは夜の町を演出し始めた。

 

 

「ねぇ、父さん。今日、何の日か知ってる?」

 

 

アタシは父さんの肩の上から声を掛けた。

 

 

「知ってるさ。知ってるとも。今日は父さんの誕生日だろ?」

 

 

父さんの優しい声が聞こえた。上からじゃ父さんの顔は見えづらいけど、父さんがニコニコしている顔がアタシの頭の中に映ってる。

 

 

「うん。

じゃあ、今日の晩ご飯何か知ってる?」

 

 

「それは分からないなぁ。なんだい?」

 

 

その時、今日の晩ご飯のご馳走の品々が頭に浮かんだ。

 

 

答えを言ってあげたいけど我慢しなきゃ。今日は、アタシと母さんが考えた父さんのビックリ誕生パーティーなんだから。 

 

「それは、家に帰るまでのヒーミーツ。」

 

 

「なんだ。教えてくれよ。じゃあ、早く家に帰らないとな。」

 

 

そう言って父さんが歩調を上げようとしたその時、今まで訓練の時にしか使われなかった町の警報鐘がけたたましく鳴り響いた。

 


 

ヴィナスの警報鐘は非常事態の時に使用される。

闇の従者やそこらの朗党の小さな襲撃程度じゃ鳴ることはない。もっと危険で町の存亡に関わる事態の時に鳴る。

例えば、軍の侵略とか、ドラゴンの強襲…とか。

 

 

この鐘の音が聞こえた時、一歩踏み出した父さんの足はピタリと石のように固まった。

 

 

お陰で父さんの肩から前に落ちそうになっちゃった。父さんは何も言わずにアタシを肩から下ろした。

 

 

「今鳴っている鐘が何だか分かるだろう。アンナ。

 

父さん、今から急いで自警団の所に行かなくちゃいけないから、急いで帰って家でじっとしているんだよ。訓練の時みたいにね。後で自警団の人達が来てくれるから。」

 

 

父さんの顔は真剣だった。こんな堅い顔をした父さん見たことがない。

 

 

「でも、父さんご馳走…」

 

 

その時、アタシはしまったと思った。これは母さんとの秘密。父さんのビックリ誕生パーティーのことをつい口走ってしまった。

 

 

「そうか…今日はご馳走なのかー、じゃあ絶対に帰らないとね。大丈夫。父さんの事は心配しないでいいから、急いで帰って母さんの所にいてあげなさい。」

 

 

「…うん。」

 

 

アタシはそうとしか言えなかった。アタシだって自警団の人達と戦いたい。相手が何か分からないけど、アタシは自警団の人達よりも強いんだ。絶対に勝てる。

 

 

でも、母さんを守ってあげないといけない。町は父さん達が守ってくれるって言うから、アタシは母さんを守りたい。アタシはそう思ったんだ。

 

 

アタシは父さんに返事をすると家まで走った。気づくと外に出ている町の人達もいそいそと帰宅の途に向かっている。

 

 

アタシはふと後ろを振り向いてみた、さっきまで父さんがいた場所にはもう父さんはいなかった。

 


 

家まで走って帰る間に後ろで爆音が何回も聴こえた。でもアタシは後ろを振り返りたくなかった。

もし、振り返ったらそれに潰される気がしたから…腰が抜けるんじゃないかと思ったから…

 

 

怖かった。夢中で走った。夢中で走ってるのに何故か来た時よりも時間が掛かっている気がする。

 

 

そう思った時、アタシの上を何かが通り過ぎたような気がした。

そして上を向いたその時、アタシの心も身体も…キレタ。

 

 

アタシは腰が抜け、心は潰された。そして目からは涙が止まらなくなった。アタシの恐怖は絶頂に達した。

 

 

アタシが見たもの…それは…紅の鱗、鋭いかぎ爪、大きな翼、長い尻尾、ノコギリのような牙、そして鋭い目。ドラゴンだ。それに凄く大きい。

 

 

そのドラゴンには多くの所に古傷があった。特に頭部の傷は酷い。左目が潰れてて、頭に角でも剣でもない何かが刺さっている。どれも痛々しい傷跡だった。

 

 

そのドラゴンは高度を下げて…「アーッ!」

 

 

アタシは思わず叫び声を上げた。赤いドラゴンが真っ赤な炎を吹いたのだ。しかもそこはアタシの家辺り…

 

 

家には…

 

 

「母さん!」

 

 

アタシは立ち上がり、その燃え盛る炎に向かって全力で走り出した。

 


 

周りの家々が火の粉を散らして燃えている。

もう夜なのに、辺りは昼間のように明るい。

 

 

家からは火だるまになった町の人達が慌てて外に飛び出す。

アタシは残酷なことにそんな人達を無視して走り続けた。

 

 

ただ心の中で「母さん」と叫び続けた。

 

 

アタシの家が見えてきた。でも、他の家と一緒に業火に呑まれようとしている。

 

 

「母さん!」気づいたら心の叫びが口に出てた。

アタシは躊躇いもせず、家に飛び込んだ。

 

 

家の中は地震でもあったかのように家財が薙ぎ倒され、ガラスがあちこちに飛び散っている。

 

 

「母さん。」

 

 

アタシは叫びながらキッチンへ急いだ。

 

 

「母さん!」

 

 

キッチンに着いたアタシはまず驚いた。母さんが食器棚の下敷きになっているのだ。アタシが「母さん」と呼んでも返事がない。

 

 

アタシは母さんを揺すりながら叫び続けた。何度も、何度も。

 

 

そんなことしている間にも火はこの家に迫ってくる。家の中にも煙が充満してきた。

 

 

「アン…ナ」

 

 

かすかに聞こえたアタシを呼ぶ母さんの声。

 

 

「母さん!」

 

 

今度はアタシが念を込めて強く叫ぶと母さんはゆっくり目を開いた。

 


 

「母さん。大丈夫?

今助けるからね。」

 

 

アタシは母さんを食器棚から引っ張り出そうと、母さんの腕を握ろとした。

 

 

でも、握ろうとしても母さんの腕がアタシの手から逃げていく。

 

 

「母さん?」

 

 

「アンナ…逃げなさい。」

 

 

「うん。だから母さんも一緒に…」

 

 

「ううん。違うの。アンナ。

アンナひとりで逃げるのよ。町の外へ…」

 

 

「やだよ。アタシひとりなんてやだよ。母さんと一緒がいい。」

 

 

ひとりなんて嫌だ。母さんをここに置いてきぼりにすると、母さんは死んじゃう。

アタシはなんとしても母さんを守るんだ。父さんもそう言ってた。

 

 

アタシは母さんの腕を強引に掴んで力一杯引っ張った。

 

 

この時、遂に家の中に火がまわってきた。火は家具から家具へ次々と引火してゆき、あっという間に火は燃え広がった。

 

 

「アンナッ!

母さんの言うことが聞けないの?

母さんの言うことを聞かないなら、クムの唐揚げはなしだからね!」

 

 

びくっ

 

 

母さんはいつも優しいけど怒るときは怖い。

 

 

母さんの怒った声を聞くと、体が勝手にちっちゃくなっちゃう。

 

 

なんとしても母さんを助けたいと思っていても、アタシはその声に反応して母さんの腕を放してしまった。

 


 

「アンナ。

お願いよ。アンナひとりで逃げて。そして生きて。どんなことがあっても絶対に死んではだめ。

どんなに、苦しくても、恥を晒しても生きるのよ。」

 

 

母さんがいつもの優しい母さんになった。そして、アタシに語り掛けるように話した。

 

 

「アンナが産まれてきた理由分かる?もちろん、それは母さんや父さんがアンナを求めたから。

でもね。アンナを求めたのは母さんや父さんだけじゃないの。神様もアンナを求めているのよ。

 

 

人は誰でも何かを成すために産まれてきた。神様は、父さんと母さんがアンナを産むために私たちを遣わしたのよ。

 

 

神様はアンナが何かを成すことを求めてる。

でも、アンナはまだ何も成していない。

 

 

だから、アンナは死んではだめ。

 

 

母さんも、父さんも、神様も、アンナが死ぬことは絶対に許さない。

 

 

だから…だから早くここから逃げなさい。」

 

 

アタシは母さんの声をそのまま心に書き留めるように涙を流しながら聞いていた。

 

 

気付くとアタシの周りは炎に包まれていた。でも不思議なことに出口までの道だけはまだ閉ざされていない。

 

 

アタシが死ぬことは許されない。アタシは必要な人間…

 

 

「母さん…ゴメンね…

アタシ、生きるよ。神様と、母さんと父さんのために!」

 

 

アタシが言うと母さんは何も言わずにただ微笑んでくれた。

 

 

母さんを見たのはこれが最後だ。

 

 

アタシはこの後、出口まで振り返らず走り抜けた。アタシが家を脱した直後にアタシが産まれ育ったその家は、アタシだけを残して倒壊した。

 

 

「母さん…」

 

 

呼び掛けたアタシの声は口から出た瞬間に涙と一緒に地面に滴り落ちた。

 


 

アタシは暫くそのまま地面に崩れ落ちていた。

周りは火の海。その熱風がアタシの自慢の白い肌を焼かんとばかりに押し寄せて来る。

 

 

辺りは見渡す限り誰もいない。周りにあるのは家の残骸か、黒焦げた異臭を発する"なにか"。

 

 

耳に入るのは業火の音と遠くで叫ぶ人の声。

 

 

母さんは死んだ…父さんは無事かなあ。他のみんなはどこに行っちゃったんだろ。どこに消えちゃったんだろ。アタシはひとり…

 

 

「アンナちゃん?

アンナちゃんじゃないかい?」

 

 

その聞き覚えのある声を聞きアタシは振り返った。

 

 

あっ…いた。

アタシはひとりじゃなかった。アタシにはここにいるカルさんがいたんだ。

 

 

アタシは自然と嬉しくなった。

 

 

「カルさん…」

 

 

「やっぱりアンナちゃんか、ここは危ない。急いで町を出よう。早くしないとまたあのドラゴンに殺られちゃう。」

 

 

カルさんはそう言ってアタシの腕を引っ張って立たせた。

 

 

「さあ、行こう。」

 

 

カルさんはアタシの腕を引っ張って走り出す。

 

 

「ねぇ、町のみんなは?自警団の人たちは?父さんは?」

 

 

アタシは走るのをカルさんの腕の力に任せて、辺りを見渡していた。誰もいない。さっきまで聞こえていた叫び声も今はぷつりと途絶えている。

 

 

「分からない。

みんな焼かれちまったか、喰われちまったか…

俺も誰か他に生きてる奴がいねぇか走り回ったけど、生きてる奴はアンナちゃん。あんたしかいなかったよ。」

 

 

カルさんはぜえぜえ言いながらも答えてくれた。

 


 

「アタシとカルさんだけ…」

 

 

アタシはあの元気で、陽気な、面白いカルさんが一緒だというのになんだか寂しくなった。

 

 

「まだ分からないぜ。アンナちゃん。もしかしたら、もうみんな町の外に避難しているかもしれねぇ。

 

 

どっちにしろ俺たちゃ生きてる。俺たちの義務を果たすにゃあ十分だ。」

 

 

「義務?」

 

 

ふと耳に掛かった言葉だったからアタシは聞いてみた。

 

「なんだ。父ちゃんから聞いてなかったんかい。

俺たち、民の義務…そりゃあ、最後のひとりまで生きるこったぁ。」

 

 

「生きること?」

 

 

そう、アタシは母さんが言ったように何かを成すために生きないといけない。でも、生きることが町の民としての義務?アタシは分からなかった。

 

 

「そう、生きること。

自警団の奴らの義務は俺たちを守ること。そして、俺たち民の義務は生きること。そりゃあ、ヴィナスの町を存続させるためよ。」

 

 

「でももうヴィナスはおしまいじゃない。

家も店も、町の人もみんな焼かれちゃったのに、どうやってアタシたちだけで町を元通りにするの?」

 

 

アタシは初めて現実味を帯びたようなことを言った気がする。少し前までは夢みたいなことばかり考えてたのに…

 

 

「バッカヤロー。

アンナちゃんみないな、子どもがそんなこと言っててどうする。

たとえ、町が復活しなくとも、地図から消されたとしても、誰かが生きてりゃ、そいつの中でヴィナスは生きてるんだ。

だから俺たちゃあ、死んじゃあいけねぇ。」

 

 

カルさんがそう言ったところでやっと町の門が見えてきた。

 

 

ヴィナスの門は大木の丸太を組んで作った木製だ。いつもは歯車を回して開け閉めをしている。

 

 

町と荒れ地の境の門。外からの敵を防ぐ門。そして、中の者を守る門。

 

 

今その門はただの燃えカスと化していた。そのおかげと言ってもいいものか、門の一部が崩れ落ち、町の出入りが自由になっていた。

 

 

ここら辺は真っ暗だ。周りは鎮火した建物の跡が広がっている。

 

 

助かった。アタシ達、生き残ったんだ。あの惨劇から生き残ったんだ。

 

 

アタシは、生き残ったことへの達成感、充足感、そして、変わり果てたヴィナスの町の虚無感、加えて、母さん、町のみんなの死への悲嘆。それらが混じり合って変な感覚に陥った。

 


 

その時だった。

突然背中がゾクゾクし始め、無意識にアタシの肌の鳥肌が逆立った。

 

 

後ろから何か来る。しかも大きいのが…

 

 

「アンナちゃん、伏せてっ!!」

 

 

カルさんがそう叫びながらアタシを押し倒した。不意に襲いかかって来たカルさんの体重にアタシはもちろん耐えられず。呆気なくそのまま地面に体を打ちつける羽目になった。

 

 

次の瞬間…

 

 

「ぐああぁぁっ」

 

 

カルさんの悲鳴が聞こえたかと思うと、のしかかっていた背中の重みが突然消えた。振り返るとカルさんが空に舞い上がってたんだ。

 

 

カルさんの後ろに何かいる。アタシは夜空に目を凝らすと大きな黒い影が目に映った。そのシルエットは忘れもしない。

 

 

ドラゴンだ。この町を襲ったドラゴンがカルさんをくわえて空を飛翔しているのだ。

 

 

アタシが目を凝らしている内に、カルさんとそのドラゴンは見えなくなった。

 

 

「ん…」カルさんが消えてしまった夜空を呆然と眺めていると、アタシの頬に何粒かの冷たいものが滴り落ちた。

 

 

雨?

 

 

そう思って、特に気にしなかったけど、それがアタシの手の甲についた時気づいちゃった。

 

 

それは雨粒みたいに透明じゃない。暗くて何色かは分からないけど、間違いなく色がある液体。

気になって手についたそれを舐めてみる。鉄みたいな味、鼻血の味でもある。

 

 

血?

 

 

アタシは急に怖くなり、悲鳴を上げようとした。そう、女の子らしい高い声の悲鳴を…

 

 

でも現実はそれさえも許さなかった。

 

 

空から血が落ちてきたと同時に、他に血ではない、少し丸みを帯びた何か…それは地面に落ちると同時に、トマトを壁に投げつけたような気持ちの悪い音をたてた。

 

 

不運なことに、その時月光がそれを照らしたのだ。

 

 

アタシはそれを見てしまった。

 

 

その直後、急に胸が苦しくなり、喉まで出かけた悲鳴を押し殺したまま倒れ込み、意識を手放した。

 


 

「ううん…」

 

 

ここは?ああ…、そっか。

 

 

アタシ、気を失ってたんだ。

 

 

手足が動くことを確認すると立ち上がった。立ち上がると、ボロボロの服についたすすや土を手で払いのける。

 

 

空は青く、雲一つなくて清々しい。風も穏やかで気持ちいい。

 

 

でも、地上は違った。いつもならここら辺は外部との連絡口。露店が多く出ていて、人々が行き交う場所。

今は、何もない。黒焦げになった建物の柱と小さな女の子が一人。

 

 

アタシは足下を見た。

 

 

これだ。

これを見てアタシは気絶したんだ。

 

 

足下にはカルさんの首が転がっていた。顔面の右の頬から右目のところまで皮膚が引き剥がされて眼球がない。左半分は無傷だが目は白目を向いている。

 

 

あの時は、これを見て気を失ったというのに今は何とも思えない。

 

 

ただ、カルさんの血のついた手の甲や頬が疼くだけ…

 

 

悲しい、悔しい。

そう思っているのに涙が出ない。アタシは表情すら変えることもできなかった。

 

 

アタシは焼け野原となった町をさまよった。

 

 

父さんはどこにいるか、どこかに生きている人はいないか、何でもいいから生きているものはないか…

  

いない。

父さんもいない。生きている人もいない。猫一匹、生えている草一本、それさえもない。

 

 

しばらく歩くと倒れている人の服装が変わっていることに気付いた。

 

 

ここら辺の人は鎧を着ている。自警団の人たちはここで戦ってたんだ…

 

 

「あっ…」

 

 

一際目立つ地面に刺さっている剣が目についた。

 

 

それは他のものよりも長く、柄の部分には虎の紋章が刻まれている。

 

 

それはこの町の自警団の団長だけが持つことを許された剣。

 

 

父さんだ。

 

 

アタシはそこまで駆け寄った。

 

 

剣のすぐ横には変わり果てた父さんの姿があった。

 

 

左肩から右腿まで鎧ごと引き裂かれている。そして、右肩から下がない。

 

 

無論もう息をしていなかった。

 

 

「なんで…」

 

 

そう呟くと同時にアタシは地面に力なく崩れ落ち、涙が頬を伝って滴り落ちた。

 

 

涙だ。カルさんの首を見ても出なかった涙だ。

 

 

そう思った瞬間、涙が湧いてくる水ように目から溢れ出した。

 


 

「なんでアタシだけ生きてるのよ!」

 

 

アタシは空を仰ぎ、涙声で今までの一番の声で叫んだ。

 

 

神様は意地悪だ。

他のみんなにも成すことがいっぱいあった筈なのに…、アタシより生きるべき人だっていっぱいいたの筈なのに…

 

 

なんでアタシだけが生きてるの?

 

 

なんでアタシだけが…

 

 

アタシはずっと泣き叫んでいた。今まで、そしてこれからの分も全部、泣けるだけ泣いた。

 

 

涙が枯れようが、声が枯れようが構わない。とにかく、気が済むまで泣き続けた。

 

 

太陽が西に傾き始めた。

それでもアタシは泣いた。

 

 

泣き叫んでいる間にアタシは一つ、大きなことに気付いた。

 

 

父さん、母さん、カルさん…町のみんなは、アタシの成すべき事のために死んだんじゃないか?

 

 

もし、そうだとしたら、アタシの成すべき事は一つだ。

 

 

アタシの成すべき事…それは、あのドラゴンに殺されたみんなの仇討ち。

あの、赤いドラゴンを討つこと。

 

 

それしかない。

それ以外にアタシに出来ることなんかない。

 

 

そうだ。

そのためには強くならなくちゃ。そう、あのドラゴンを倒すためにはアタシが強くなること、父さんよりも、他の誰よりも強くなる。

 

 

そう思っている内にアタシの心の中は晴れて、泣くことを止めた。

 

 

そして、決めた。

もう、泣かない。

と…。

 


 

     ***

 

 

「それからさ、ドラゴンを憎み始めたのは…

 

 

そうでもしないと奴には勝てないだろうからね。

 

 

その後アタシは隣村に派遣していたヴィナスの自警団の人に助けられた。

 

 

それから、大陸上で最大最強の軍隊を持つと言われるイリアル帝国に志願したわ。

 

 

その方が仇討ちのドラゴンの情報も入りやすいし、身も鍛えられるからね。

 

 

そうして、今アタシはイリアル帝国の騎士として、アンタの隣に座っているのさ。」

 

 

アンナの長い昔話が終わった。

 

 

俊はアンナの横でじっと話を聞いていた。

 

 

気づけば、日は昇りきって辺りはすっかり明るくなっている。

 

 

「だから、アンナは俺を撃ったのか。ドラゴンが憎いから…」

 

 

「そう、それがアンタを撃ったひとつ目の理由。

 

アタシは認めたくなかった。

ドラゴンと人間が仲間なんてね。

 

 

そんなことを認めたらアタシの存在価値がなくなってしまう。あの日、ヴィナスの町で死んでいった人の意味がなくなってしまう。それが怖かったんだ。

 

 

今だって、中身が人間と分かったアンタでも、こうやって一緒にいていいのか。って心のどこかで自問してるよ。」

 

 

アンナは自分を嘲笑うかのように苦笑した。

 


 

アンナの自分は仇討ちのために生まれた。

という考え。

 

 

これに真偽があるのか分からないけど、それは間違っている気がする。

 

 

復讐が生まれてきた理由では意味がない。

 

 

なんでそうと言えるか、今のドラゴンの頭じゃ理論的には考えられないけど、獣の勘って言うのか、そんな気がする。

 

 

俊はこの事をアンナに話す気はなかった。論拠がないし、これはアンナ自身が見つけることだと思ったからだ。

 

 

「そういえば、話に出てきた"闇の従者"って言うのは?」

 

 

話の流れを回想していた俊はその気になるワードについて尋ねた。

 

 

「アンタ、今時"闇の従者"を知らないのかい?

まあ、アタシも詳しく知ってるって訳じゃないんだけど、闇の従者…それはアンタが昨夜喰ったあの化け物のことだよ。

 

 

一般的にああいう異形な化け物のことさ。」

 

 

昨夜、俺が喰ったもの…

それを今思い出すと、俊の中の人間の心が吐き気を催すのだが、なんとかこらえた。

 


 

「奴らは全て破壊衝動で動いている。目に見えるもの全てを破壊し、殺す。

 

以前、奴らは単独で行動していた。だから、ちっぽけな村の自警団でも対処できた。でも最近は違う。

 

奴らは群れで行動し始めたんだ。

 

奴らにまとまって攻撃されちゃあ、ひとたまりもない。

 

現に、大陸指折りの交易都市。ここタムスも奴らに襲われこの様だ。

 

アタシはここに書簡を届に来たんだけど、城は血の海、城主は自害。おまけに、帰ろうと思ったら、乗ってきた馬が奴らに喰われてお陀仏さ。

 

頭にきたアタシは奴らを千切りにして、偶然見つけたアンタを撃っちまったってわけ。

これがアンタを撃ったふたつ目の理由だね。」

 

 

きてた。って、頭にきてたってことか…

アンナが俊に矢を放った理由。それがここまできてようやく全て理解した。

 

 

「ごめん。

アンタには悪いことをした。改まって謝るよ。

 

 

アタシさ、戦闘とか、興奮したりすると、人が変わっちゃうんだよね。

 

 

あの太一…だっけ。あの子に投げられてやっと目が覚めたんだ。

 

 

彼、凄いよ。

あんな小柄なのに体術で負けなしアタシを投げるなんて…

後で、あの子に教えて貰わないとね。

まあ、アタシのこと許してくれたらだけど。」

 

 

そう言うと、アンナは伏し目になった。

 

 

「大丈夫。

あいつらはこんな変わり果てた俺を認めてくれたんだ。

話せばきっと分かってくれると思う。」

 

 

そうだ。あいつらは俺を受け入れてくれた。

太一は勿論、真也も意外と柔軟だ。きっと、アンナを受け入れてくれるだろう。

 

 

「そう…」アンナはそう言って立ち上がった。

 

 

「じゃあ、そろそろ行かなきゃ。あの子たちもそろそろ起きる頃だろうしね。」

 

 

「ああ、でも俺はちょっと空を飛びたいから、先に行ってて。」

 

 

俊も重い身体をお越して空を見ながら言う。

 

 

「空か…案外ドラゴンの体も便利なんだね。」

 

 

アンナは軽い言葉で言うとさっさと歩いて行ってしまった。

 

 

俊はなんだか物扱いされた気がして些か腹が立ったが、ここはぐっと抑え、アンナの後ろ姿を見送った。

 


 

アンナが見えなくなった後、俊は一人広場に後脚二本で立ち上がり、辺りを見渡して翼を上下し始めた。

 

 

翼の運動を徐々に早め、後脚で地面を斜め後ろに軽く蹴る。

 

 

すると、俊の巨大は宙に舞う。翼を巧みに動かし、段々と高度を上げると上昇気流を掴んだ。その瞬間、上向きへの加速度は一気に増えドラゴンは大空に舞い上がる。

 

 

今、こうやって空を飛ぶのはちょっとした気分転換だ。だが、本来の目的は違う。

 

 

俊は、上空から地上を見渡した。例によって野牛の群れを見つけたが、腹が減っている訳でもないし、 目的が違う。

 

 

俊が向かったのは川だ。

 

 

ここで見る川は水が非常に澄んでいて綺麗だ。

朝日が川に差し込みそれが反射して、ダイヤのように輝いている。

 

 

空から見て、泳いでいる魚だって見ることができる。元の世界ならば、このドラゴンの目を使ったとしてもそれは無理だろう。

 

 

目的はこれだ。

 

 

俊は川の水面ぎりぎりまで降り、水面に目を見張った。

 


 

今だっ!

 

 

俊は空から川に飛び込んだ。

川の水がなくなるんじゃないかと思うほどの水しぶきが飛び、川岸には大きな波が乾いた小石を洗い流した。

 

 

飛び込む。と言っても川底まで腹がちょうど浸かるまでしかない。

 

 

次に翼を一段と大きく振り、物凄い水しぶきを飛ばしながら、再び空に舞う。

 

 

この間、ほんの1、2秒。

 

 

俊が水面から出た時は、前足にあるものを鷲掴みにしていた。

 

 

それは魚だ。

右前足に四匹、左前足に二匹いる。爪に食い込んでいるものを数えればもう少しいそうだ。

 

 

俊はそれらを川岸に置くと、再び川に入った。

 

 

今度は空からではない。陸からだ。

 

 

川の深いところまで入ると、体全体を捻って勢い良く川底に体を擦りつける。

 

 

こうすると体についた血生臭い匂いが多少は取れる。

 

 

狩りをする度に体に飛び散る獣の血。

 

 

ドラゴンとして、血の味は嫌いじゃない。だが、その匂いが体に染み付くのは嫌いだ。人の心を持つ俊としてはなおさらだ。

 

 

だから、こうやって体を川底に擦り一生懸命に血の匂いを落とすのだ。

 


 

俊が水を滴らせながら川から上がってきた。

 

 

ある程度血の匂いは落ちたが、完全に取れた訳ではない。

 

 

俊が自分の身体を見回すと、鱗に艶が出ていることに気づいた。

 

 

これは、川底に鱗を擦り続けることによって、古い鱗が沈み、その下の新しい鱗が露わになったからだ。

 

 

これを逆に返せば、こうしてまでしても血の匂いは落ちない。ということだ。

 

 

この匂いは一生取れない。

たとえ元の人の姿に戻ったとしても、心にまで染み付いたこの匂いは落ちることはない。

俊はそう思った。

 

 

そろそろ行くか…

 

 

俊は川岸に置いた魚を両前足で掴んだ。

 

 

ここに置いた時はまだ何匹かは川に戻ろうとばかり威勢良く、地面を跳ねていた。だが、もうそんな元気のある魚はいない。

 

 

前足で魚を掴み、後脚で立ち上がる。

 

 

翼をひとふり、ふたふりし、翼についた水を飛ばすと、いつもの要領で空高く飛び上がった。

 

 

太一たちは起きただろうか。

アンナと打ち解けただろうか。

 

 

そんな心配を胸に押し留めながら太一たちの元へと向かった。

 


 

      ***

 

 

俺が暖炉の火を焚いているよそで、アンナが太一に笑みを浮かべながら剣術を教えている。昨日まで対立していたあの二人が…

 

 

こんな光景は昨夜まで考えられただろうか。

 

 

正直、昨夜の女騎士…アンナがあそこまで笑える人間だとは思わなかった。

 

 

今朝、彼女が昨日のことについて謝り、話を聞いた後、アンナと太一は急に仲が良くなった。

 

 

今ではこうやって、太一がアンナに柔道を教える代わりに、アンナから剣術を教えて貰っている。

 

 

だが、俺はアンナを表面上は許したが、まだ心のどこかでは許せない。

 

 

特に、自分は復讐のために生まれてきたなどとぬかすとは、分かっているようで、何にも分かっていない。

 

 

同じくこの話を聞いた俊はどう思っているだろうか、恐らくあいつも俺と似たような考えだろう。

 

 

「あ~、もう無理。

疲れた~。腹減った~。」

 

 

太一のだらしない、馬鹿でかい声が聞こえてきた。太一は大の字になって地面に倒れている。

 

 

「なんだ、なんだぁ!

もう、駄目なのかい?そんなんでどうする?我々、イリアル帝国軍の騎士は時には一週間、水しか飲まずに訓練するときもあるんだ。そんぐらいでへこたれてんじゃないよまったく。

 

それにアンタがアタシに剣の教えを乞うたんだ。

アンタにはアタシが納得するまでやってもらう。」

 

 

アンナは使わなくなった乗馬用の鞭で地面をひっぱたいて、声を張り上げている。

鬼教官そのものだ。

 

 

それに太一は悲鳴を上げながら、特訓を受ける。

 

 

太一が悲鳴を上げるのも当然だ。この数日、この世界に来てから、水以外なにも口にしていない。

 

 

この町の食料を頂こうかと思ったが、喰い荒らされていた。

 

 

それよりあの女、少しやり過ぎじゃないだろうか…

 

 

真也がアンナに口を出そうとした時、後ろで地響きが聞こえた。

 

 

振り返ると、俊が両前足で何匹かの魚を掴んで立っていた。

 


 

「やあ。」

 

 

「おう。」

 

 

俊が掛けてきた声に俺は何気ない返事をした。

 

 

「おお!食いもん発見!俊、それどうした?

てか、早く食わせろ。」

 

 

大の字で伸びていた太一は、俊が掴む魚を見ると、子供のように目を光らせ、さっと飛び起き、俊の元へ走り寄る。

 

 

「さっき、川で捕ってきたんだ。ほら、」

 

 

俊は言うと、魚を太一の手の上に落とした。

 

 

「うお~!こんなに!?

え~と、ひー、ふー、みー…やー、九つ。九匹!」

 

 

太一は興奮した声を張り上げる。

 

 

「俺は腹減ってないから、一人三匹ずつな。」

 

 

俊はそう言うと建物の屋根の上に登り、翼を休めた。

 

 

「しゃーっ!

よし、真也。焼こうぜ。」

 

 

そうゆうことで俺たちは四日ぶりに物を口にした。

 

 

魚を調味料も何もつけずに食う。川魚だから尚更味が薄い。それでも久しぶりに口にした魚はとても美味かった。

 

 

魚を食った後、俺たち新たに加わったアンナを入れて4人はこれからのことについて話し合った。

 

 

どうするにしても、どうしたらいいのか分からないからどうしようもない。

 

 

希望を言えば、俊を元の姿に戻し、元の世界へ帰りたい。だが、どうすればいいのだろうか…

 

 

今のところその手がかりはゼロだ。

 

 

ここでアンナがバルメイロに行かないかと提案した。話によるとバルメイロはイリアル帝国の首都、大陸最大の都市らしい。そこに行けば、何らかの手がかりが掴めるかもしれないとのことだ。

 

 

俺たちには何の案もない。

北に行くか、南に行くか、西に行くか、東に行くか、そこに何があるのかも分からない。

 

 

よって、ここはアンナの提案を受け入れることになった。

 

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