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憑依

 

ここはどこだろうか。

俊は気づくと暗闇の中にいた。

何も見えない。何も聞こえない。何も匂わない。何も感じない。俊は違和感を感じ自分の身体を確かめた。

 

 

ない。

手を自分の身体に触れさせようとするが手がない。

自分の足場を感じようとするが足がない。

自分の身体を確かめようとするが身体がない。

 

 

俺は死んだのか。それは一つの仮定ではなくほとんど確信だった。それを感じたと同時に俊は絶望した。

 

 

俊はただ、意識だけがどこか暗闇の中を霊の如く漂っていた。

 

 

その時、俊は何かに引きつけられるのを感じた。

そして、まるで魂が膨張するような感覚を覚えた。

 

 

それはある程度大きくなったところで収まった。

 

 

ドックン

 

 

心臓の音だ。いつも感じているものよりも大きい鼓動だ。

 

 

"よかった。"俊は心の中で歓喜した。心臓の鼓動を感じる。それは身体があり、なおかつ生きているということだ。

 

 

土の匂いがする。それも強くだ。今までここまで強く土の匂いを感じたことがあっただろうか。

 

 

風の音がする。それは風が洞窟を反響している音だと分かった。

 

 

今度は身体を動かしてみる。いつもの力加減で手を動かしてみる。動かない。と言うより何故かいつもより重く感じる。もう少し力を入れてみる。やっと少し腕が持ち上がった。

 

 

何だろう。どうもおかしい。これはタイムスリップによる身体の影響だろうか。

 

 

俊はその時憤りを感じ、このような状態にした片桐を引き裂いて食ってしまいたく思った。

 

 

"引き裂いて…食う?"俊は自分の思考を疑った。

 

 

何故そんなことを思ったのだろう。身体だけでなく心まで狂ってしまったのだろうか。俊は突然そんな不安感に襲われた。

 

 

「いつまで寝ているんだ。

起きろゼルフォス。」

 

 

その時、声がした。誰かが誰かを呼んでいる。その声は人間の男性の声より三、四オクターブほど低く、吠えるような勢いのある声だ。

 

 

とにかく、俊はゆっくり目を開いた。やはり見える。俊は今洞窟の中にいることを確認した。その岩壁にはたいまつが灯されており、洞窟内は明るい。

 

 

だが、いつもより見え方が違う。

俊は元々目は悪くもないし、良くもない。つまり普通だ。それなのにひとつひとつがはっきりより細かに見える。

 

 

それよりも驚いた事は、今目の前に立ち塞がる巨大な怪物だ。俊はそれを見て肝を潰した。俊は悲鳴を上げそうになった。どうやらこの怪物が先の声の主のようだ。

 

 


その怪物は巨大な体躯を持ち、顔はワニのように鼻と口が前に伸びており、そこから見える牙はワニのものよりも大きい。

 

 

よく、ファンタジー映画や漫画などによく出てくる怪物だ。なんと言うものだったか…。

 

 

俊は記憶の中を手繰った。この時何故か冷静でいられた。目の前の怪物に食われるかもしれないというのに、何故か怪物に親しみさえ覚えていた。

 

 

「ドラゴン…」

 

 

俊は頭の中で出た答えを不意に口にしてしまった。

 

 

その時に気づいたのだが、俊の声もまたそのドラゴンという怪物に非常に似ていた。だが今はそんなこと気にしている暇はない。

 

 

「ゼルフォス。お前大丈夫か?俺がでっかいトカゲにでも見えたのか。俺はマルバスだ。寝ぼけてないで起きろ。ゼルフォス。」

 

 

ドラゴンがひどく不機嫌そうな顔をして言う。

だが、専ら俊を食おうとは思っていないようだ。

恐らく、俊をゼルフォスという人物と見間違えているのであろう。

 

 

俊はゆっくり重い身体を起こした。やはりおかしい。いつもと感覚が明らかに違う。俊はマルバスと名乗るドラゴンから視線を落として下を見た。

太い尻尾がある。鋭い骨質の棘が並んだ鱗状の尻尾だ。それは俊に近いところほど太くなっており、それは俊の尻から伸びていた。

 

 

それは俊の尻尾だった。

 

 

俊は慌てた。

今度は両腕を上げてみる。もの凄く大きい。それは尻尾よりも一、二回り小さいがやはり骨質の棘のある鱗に覆われている。腕の先には手があり、その指にあたるところには長くて鋭い何でも裂けるようなかぎ爪がついている。

 

 

その次に俊は長い鼻に気づいた。さっきまで見えなかったワニのような鼻がぐんと前に突き出して見える。俊が乾いた唇を舐めると赤く先が二つに分かれた舌がちろりと目に映った。

 

 

今度は長い首を使って背を見てみる。やはりそこにも骨質の棘のついた鱗があり、肩の下。両脇の右下辺りから左右に蝙蝠の翼の形に似た大きくなった俊のその身体を包み込めるほど大きな翼が左右に伸びている。

 

 

俊はこの時になってやっと理解した。自分はドラゴンになってしまった。と…いや、実際はそうでもないのかもしれない。

 

 

目の前にそびえ立つマルバスというドラゴンは、俊のことをゼルフォスと呼んだ。もしマルバスが勘違いをしていないとすると、この身体はゼルフォスだとゆうことになる。

 

 

俊は憑依という言葉を知っている。魂や霊が身体に乗り移ることだ。身体の感覚がなかったあの時、俊は自分が何かに引かれると同時に自分が膨張していくのを感じた。恐らくその時に憑依という現象が起こったのだろう。

 

 

ならば、俊の元の人間の肉体はどうなったのだろう。このドラゴンの肉体の持ち主であるゼルフォスの精神はどこへ行ってしまったのだろう。

 

 

そう考えていくと俊はまたもや不安感に襲われた。

 

 

「ゼルフォス。

お前変だぞ。何故さっきから自分の姿を見ては驚いている?」

 

 

マルバスの怪訝そうな声に俊ははっとし、視線をマルバスに戻す。

 

 

「い、いや。気にしないでくれ。」

 

 

俊はぎこちない言葉で答えると、マルバスは興味が失せたのか俊を見る目を変えた。

 

 

「そうか。

それより狩りに行かないか?腹が減って仕方がない。お前も10日くらい何も食ってなかったろ?

そろそろ腹が減る時分だと思ってな。」

 

 

マルバスは余談を捨てて本題に入った。マルバスは腹が減っているようだ。確かにさっきから何回かマルバスの腹が鳴っている。どうやら、腹が減ったら腹が鳴るというのはドラゴンでも言えるらしい。

 

 

「悪いな。実は3日ほど前に狩りに行ったばかりだ。まだ、腹もなっていない。」

 

 

俊は焦らず出来るだけ平静を保って冷静に嘘をついた。このゼルフォスの身体が前回いつ狩りに行ったかなんて俊には分かる筈がない。

 

 

とにかく、今は状況把握が大切だ。狩りというものがどんなものが分からずに行くのは事態をややこしくするだけだ。俊はそのことを踏まえて狩りの誘いを断った。

 

 

「そうか…それじゃあ仕方ないな。寝ているところを悪かった。」

 

 

マルバスは俊のことを疑いもせず、むしろ相手を起こしてしまったことに詫びを入れ、風が通り抜けて来る方へと小さな地響きをたてながら洞窟の闇に溶けていった。

 

 

その後ろ姿を見ていると俊は悪い気持ちになった。まだゼルフォスの意識が生きているのか、マルバスを欺いたことに凄く後悔の念がドラゴンになった俊の心を疼いている。

 

 

マルバスが行ってしまってから暫くの後、俊はまず今ここがどこなのか確かめようと思った。

 

 

どこかの洞窟というのは確かだが、どこの洞窟なのか、この洞窟はどのようになっているかは見当もつかない。

 

 

とにかく、俊は洞窟の中を前足と後ろ足の四肢を使って前進した。人間のように後ろ足二本で移動するのもありだが、洞窟内は狭いところもあり、どちらかと言うとドラゴンの本能的に四肢を使って歩く方が楽だ。

 

 

俊は洞窟の中を歩き回るうちに何頭かのドラゴンに出会った。どうやら、この洞窟には複数のドラゴンで組織されているらしい。

 

 

そのドラゴンたちも様々で、体長が十メートルを超える大型のドラゴンもいれば、体長が二、三メートルくらいしかない小柄のドラゴンもいる。

 

 

俊の身体は十メートルを超えるまでもないが、それ近くある。ゆうにそれは大型のドラゴンに入るらしい。そのことに気づくと俊は何故か優越感を感じた。これもドラゴンの本能が働いてるせいだろうか…

 

 

そんな異なる点を持つドラゴンでも共通点があった。

それは皆、純粋だということだ。

 

 

ここにいるドラゴンたちは俊の得意な心読術が効かない。というのは俊の能力が劣っているという訳でもなく、表面に出ている感情と心の奥底の感情が一致していると言うことだ。

 

 

ドラゴンの知能は人間より劣っているらしく、どうやら人間のような"偽りの感情"を演出するのが苦手らしい。

 

 

相手と素の感情で付き合いができる。偽り、裏切りのないドラゴンの世界。それは俊がこの世界に好感を得るのに十分な条件だった。

 

 

事実、俊はこの世界に来てから元の世界で感じていた息苦しさは全く感じなかった。

人間との付き合いに慣れない俊であったが、ドラゴンとの付き合いにはなんとなく自信が持てた俊であった。

 

 

俊が他のドラゴンと顔を合わせながら洞窟内を右往左往しているとオレンジ色の光が洞窟内に差し込んでいるのを見た。それは明らかにたいまつの灯りではない。

 

 

そしてその方向からは新鮮な空気の匂いが流れ込んで来ているのを俊はドラゴンの敏感な鼻で感じ取った。

 

 

俊はまさかと思い歩調を早め、ずしんずしんと地響きをたてて早足で歩いていく。

 

 

俊は光の外へ飛び出した。途端、俊の顔面に突風が襲う。俊は思わず目を瞑り首を後ろに傾け風を避けようとする。

 

 

それでも風に慣れた俊はゆっくりと首を戻し、目を細く開ける。

現在の場所を確かめるのにその細く開いた瞼に入る光だけで十分だった。

 

 

外だ。俊は洞窟の外に出たのだ。日は既に西の空に沈みかけており、空はきれいにオレンジ色に焼けていた。

 

 

前方には森林が広がっており、左から右に大河が流れている。森林の奥には荒野が広がっており、それよりずっと奥、太陽が沈みゆく地平線の奥には西洋造りの城下町が浮かんで見える。

 

 

何故ここから地平線が見えるのかと言うと、一つはここが高い位置にあるからだ。

ここは高い岩山の絶壁にできた天然の洞窟らしく、高さは地上から800メートルかそこらはありそうだ。

 

 

もう一つは、俊がドラゴンの目を持っているということだ。ドラゴンの視力は初めに感じたものよりも凄かった。

 

 

ここからあの地平線上に浮かぶ城下町まで数十キロはありそうだが、俊の目にはその城壁と城の輪郭線がはっきりと映っていたのだ。

 

 

俊は今になってここは本当に江戸時代(1716年)の日本なのかと疑問を持ち始めた。

 

 

第一、ドラゴンの存在がおかしすぎる。ドラゴンは幻想上の生物のはずだ。俊の知る限りドラゴンは実際には存在しない。だが、事実今は俊自身がドラゴンになっている。

 

 

俊はドラゴンの脳を必死に回転させた。

 

 

駄目だ。考えれば考えるほど頭の中が滅茶苦茶になる。

 

 

俊はため息の代わりに大きく息を鼻から吐き出した。人間より知能の低いドラゴンの頭で考えるには問題が難しすぎたようだ。

 

 

別の点から考えてみよう。

 

 

江戸時代の日本にあんな西洋造りの城はあったのだろうか。

 

 

残念ながら俊は歴史はそれほど得意分野ではない。でも、少なくとも江戸時代は鎖国をしていた時代だとは分かる。

 

 

鎖国をする日本に西洋造りの建物を…ましてや、西洋の城下町なんてものを築くだろうか。答えはノーだ(出島なら話は別だが明らかにここは違う)。

 

 

つまり、ここは日本ではない。恐らく、俊の暮らしていた次元と違う世界だろう。

 

 

俊はそこまで答えを導けた喜びと同時に失望した。

 

 

もう元の世界には戻れないのではないか…と言う不安が俊の心の中を行ったり来たりしていた。

 

 

出来るならいっそここから飛び出したい。しかし、ここから地面まで超高層ビル…それ以上ある。

 

 

俊はドラゴンであり、その巨大な身体を宙に浮かせる立派な翼があるが、飛び方が分からない。

 

 

もし飛べなかったら、ここから地面まで真っ逆さまに落ちることになる。

 

 

それはぞっとすることだ。俊のドラゴンの立派な翼も今となっては宝の持ち腐れとなっていた。

 

 

その時、俊の目前に黒い大きな影が降ってきた。それは俊の目の前で大きな地響きをたてて怒鳴った。

 

 

「ゼルフォス!

お前は死にたいのか!?

洞窟の出入り口で突っ立てたら危ないだろ。

あと少しでお前は俺の下敷きになっていたぞ!!」

 

 

俊の目の前に現れたのはマルバスであった。マルバスは物凄い形相で遠慮なしに俊に怒鳴りつける。

 

 

どうやらマルバスは狩りの帰りらしい。その証拠に両方のかぎ爪に首が折れた牛の死骸をまるまる一頭を鷲掴みにしている。

 

 

その牛から流れている赤い血が、異常なほどに俊の食欲を突然湧き出す湧き水の如くかきたてる。お陰でさっきまでの考え事が一気に飛んだ。

 

 

「おいこら、聞いているのか?

ゼルフォス。」

 

 

マルバスが少し勢いか衰えた声で注意を促す。

 

 

「あ、ああ。」

 

 

俊は慌てて牛の死骸に釘付けにされていた視線を解き、マルバスの顔を見た。

 

 

「お前、これが欲しいのか?」

 

 

マルバスは急に怒りの熱が冷めたのか、表情は普通に戻り、爆音に近かった声も穏やかになっていた。

 

 

マルバスは俊に牛の死骸を見せつけるようにする。

 

 

この時、俊は自分が腹ぺこであることに気づかされた。俊がゼルフォスになってから今に至るまで、空腹感を感じている余裕がなかった。

 

 

ところが、牛の死骸を見た瞬間、空腹感という感覚が優先順位を一気に首位に登りつめたのだ。

 

 

やはり、このゼルフォスの肉体はマルバスの言った通り10日間かそこら物を口にしていなかったらしい。

 

 

今まで何も言わなかった腹が急にものを言いだした。

 

 

まだ、俊の中の人間は牛の死骸の生肉を食すことをまだ快しとはしていない。

だが、俊の中のドラゴンはもうそれを口にしたくて叫び声を上げている。

 

 

結果的に俊の中のドラゴンが勝った。

 

 

俊はマルバスの問いに無言で首を縦に振った。

 

 

「お前、三日前に狩りをしたって言ってたじゃないか。

 

 

でもまあ、俺とお前の仲だ。それにこの前、助けて貰った借りもある。」

 

 

マルバスは仕方なく大きく鼻から息を吐いて言い、かぎ爪に食い込ませていた牛の死骸を手から離した。

 

 

そして、力強い顎で牛の後ろ足を二本切り離すと、その二本の足を俊に差し出した。

 

 

「ほら、少しだが持っていけ。これで少しは腹の足しにはなるだろう。」

 

 

マルバスは素っ気なく言うと、獲物の首もとを口にくわえて洞窟の奥に消えてしまった。

 

 

俊はマルバスを見届けると残された牛の足をじっと見つめた。その残されたものを人間の目で見れば気持ち悪くて吐き気を誘うだろう。

だが、ドラゴンの目で見ればそれは美味そうな肉だ。

 

 

俊はその感覚のおかしさに浸っていた。

 

 

俊の口から涎が垂れてきた。それはドラゴンのもので人間のものよりも粘質がある。

 

 

俊はおそるおそる牛の足をひと舐めしてみた。

血の味だ。鉄っぽい。ところが、人間のような嫌悪感は感じられない。それよりか心が満たされる感じがした。

 

 

次の瞬間、俊の食欲が爆発した。俊の人間の心はたちまち消え去り、ドラゴンの心が俊の体を動かした。

 

 

鋭いかぎ爪と牙で肉を裂き、強靭な顎で噛み砕く。

 

 

その肉の味ときたら生肉そのものだ。だが、確かにこのドラゴンの味覚は"美味い"とドラゴンの脳に告げている。

 

 

あっという間に何キロという肉の塊はほとんど消えてしまった。残ったのは骨に頑固にへばりつく肉片だけだ。

 

 

俊はその骨をしゃぶる。

ドラゴンの舌は非常にきめの粗いサンドペーパーのようになっており、骨の肉をこそげ落とせるのだ。

 

 

10分もしないうちに牛の足は完全に骨だけになり、肉は無駄なく全てたいらげてしまった。

 

 

俊が人間としての心を取り戻したのはその後のことだ。生の牛の肉を食う…それが俊にとってドラゴンとしての初めての経験であった。

 

 

俊はマルバスを助けたゼルフォスに(よく分からないが)、そしてゼルフォスは親友だと言ってくれたマルバスに深く感謝した。

 

 

その反面、俊は自分が恐ろしくなった。

 

 

いつか、自分が人間であったことも忘れ、ひたすらドラゴンとして振る舞う日が来るのではないかと…

 

 

俊はふと洞窟の外を見る。

 

 

いつの間に時間が経ってしまったのであろうか。外はもう夜だ。光あるものは満天の夜空に広がる星と、満月に足りない月の光。そして、それとは比べものにならないような小さな火だけだろう。

 

 

俊は遠くを見るような目で空を見た。

 

 

そういえば、太一と真也は無事だろうか…。

 

 

俊は今更ながら心配になった。恐らくあの二人もこの世界に来ているだろう。三人一緒に投射したはずだからそう離れてはいないはずだ。

 

 

明日、捜しに行こう。

そして頭がおかしくなる前に元の世界へ戻ろう。

俊はそう心に決めた。

 

 

三人が手を繋ぎ、元の世界へ戻ると念じる。

それが元の世界へ帰る方法だ。だが、本当に戻れるだろうか…

 

 

俊の頭の中を再び不安がよぎったが、悲観的になってはいけないとそれ以上のことを考えるのは止めた。

 

 

戻れなければ、その時に三人で考えればいい。

俊はそう頭に残し、洞窟の中へと戻って行った。

 

 

洞窟に戻ると俊は薄い記憶を頼りに、再び洞窟の中を右往左往してなんとか俊が最初に目覚めた場所、ゼルフォスのねぐらの穴に戻れた。

 

 

その穴に入った後、俊は何故か何にもないはずの天井を見る。

一見したところ何もない。硬い岩石が天井を覆っている。

 

 

いつもの俊ならばここで目を前に向けるだろう。だが、俊が…このゼルフォスの身体がそのようにすることはなかった。

 

 

俊は天井を意味もなく凝視する。

 

 

すると、俊はふと天井と壁の境目に小さな窪みがあることに気づく。

俊は無性に気になり後ろ足で立ってその窪みを覗いてみると…あった。

 

 

それは、大きなルビーやサファイア、金貨など…いわゆる財宝と言う物だ。それは一個や二個というものではない。大量にだ。特に気になったのは不思議な刻印が施された金の杯だ。

 

 

俊がそれを見た瞬間、俊の中を流れるドラゴンの血がいきなり騒ぎ出した。

 

 

それは俊に有り得ないほどの快楽を与え、と同時に安心感を与えた。

 

 

どうやら、ドラゴンという種族は財宝に対する欲求は特別なようだ。

 

 

その証拠に、このゼルフォスの身体は今もしきりに宝に自分以外の匂いがついていないか鋭い嗅覚で確かめている。

 

 

俊が穴に入った直後に天井を見たのも、ゼルフォスの習慣的行為のせいらしい。

 

 

俊は満足するまでその宝の山をうっとりとした目で見つめる。宝を見ていると肉で腹が膨れるように身体が満たされるのを感じる。

 

 

俊はその快楽に浸っていると、今度は眠気が襲い俊はそれに刃向かおうとはぜず、冷たい土に四肢を着き、そのまま猫のように丸くなり意識を手放した。

 


 

俊は目を覚ました。

俊は重たい身体を持ち上げ、自分の身体を見回す。

 

 

「やっぱり、このままか」

 

 

俊は落胆の声で吐息を吐くように呟く。

 

 

今何時だろう。

 

 

俊がふと疑問に思うと、それと同時にドラゴンの体内時計がその問いに答えた。"昼前だ"と。

 

 

流石に正確な時間は分からない。だが、俊はその答えを疑うつもりはなかった。

 

 

普段身近にある物理的な時計に慣れて鈍った人間の勘よりも、自然の中で過ごす鋭いドラゴンの勘の方がよっぽど頼りになると思ったからだ。

 

 

俊は重い身体を引きずるように歩くと洞窟を出た。

 

 

今日の天気はあまり気持ちの良いものではない。

というのは、薄暗く重い雲が低空を占めており、今にも雨が降りそうな天候だからだ。しかも、地面から吹いてくる風が強く、今にも俊を墜落させようとしている。

 

 

"明日、太一と真也を捜しに行こう"

 

 

これは昨夜、俊が心に決めたことだ。俊はそれを思い起こすと自分を嘲笑った。

 

 

今自分が立っているのは、地面より天の方が近い場所に位置する崖だ。

この身体は空を自由に飛び回れるような体の作りになっているだろうが、飛び方を知らない。

 

 

つまり、ここから出ることも出来ない。

なのに、俺は太一と真也を捜そうと決心したのだ。今思えば、馬鹿な決心だ。

 

 

本当にそうだろうか。あの時、あの決心をしたとき、実は自分は飛べると確信していたのではないだろうか。

 

 

身体は飛び方を知っているのに、頭で飛び方を考えるとそれを否定している。

 

 

自転車に例えると、身体は乗り方を知っている。

だが、その方法…重心移動、ハンドルの細かな操作など…を考えると分からなくなってしまう。

 

 

俊はそう考えると自分は飛べるのではないかとおもむろに思えてきた。

 

 

俊は崖っぷちに立ってみる。

生死を賭けた試み。

そんな凄いことを俊がいた世界の日本ではそうそう経験しえないことだ。だが、今現在俊のいる場所はそんな呑気なところではない。

 

 

俊は長い首で崖の下を覗く。地面までの距離が物凄く遠い。それなのに特に恐怖心は起こらない。

 

 

ゆっくり目を瞑り、深く深呼吸をする。

 

 

そして、俊は立ち幅跳びをするように両脚で地面を思いっきり蹴り上げた。

 

 

空気に翼を思いっきり叩きつける。

 

 

飛んでいるのだろうか、それとも重力の力で墜ちているのか。今分かることは空気が身体との摩擦でぴゅうぴゅう鳴っているだけだ。

 

 

それだけでは、墜ちているのか、上昇しているのか分からない。

 

 

俊は自分は石のように硬い地面に一直線に墜ちていると思った。

 

 

その時、俊の頭の奥で何かが音もなく炸裂した。

 

 

翼がまっすぐ伸び、速度が遅くなり、翼の裏側から水をかくのと同じような抵抗感を感じる。

 

 

俊はかすかに希望が湧いてきた。

 

 

俊は思い切って目を開ける。

 

 

墜ちているなんてとんでもなかった。それどころか、みるみるうちに上昇している。翼はしっかり上下に動いており、空気を下に押し出し、その垂直抗力で身を上へ押し上げている。

 

 

俊はその高さに驚いて翼を硬直させるが高度が下がることはなかった。

 

 

これはグライダーと同じ原理だ。左右に伸びる一対の巨大な翼が巨体を持ち上げる分だけの上昇気流を捕らえているのだ。

 

 

俊は飛翔することの楽しさを覚えた。今まで分からなかった危険を冒してまでパラグライダーやパラシュートを楽しむ人たちの気持ちが分かった瞬間でもあった。

 


 

俊は籠から放たれた鳥のように空を飛び回った。急降下から急上昇をやってみたり、空中で宙返りもやってのけた。

 

 

そうして飛んでいくうちに好奇心からか、むすっとした上空を占めている雲の上を見てみたくなった。

 

 

俊は雲を狙いをつけるように睨む。

そして強い上昇気流を掴み、そこで翼を力強くそして素早く動かす。

 

 

すると目が回るような物凄い速さで巨大なドラゴンの体が上昇した。雲は思ったよりも厚くしばらく上昇していくと雲の上に到達した。

 

 

「おぉぉぉ」

 

 

俊は今まで、目から入る情景に声を出すほどその堅い心が動いたことはない。今、俊の視界は美しいものでも神秘的という訳でもない。ただ、さっぱりしていた。

 

 

四方八方真っ平らで永遠に続く雲のフローリング、青い空、そこに輝く一点の太陽。それだけだった。辺りは粛々としていて、純粋な画だった。

俊は俊自身が不純物と感じるくらいだ。

 

 

ここは高さで言えば高度一万メートルあるかないかくらいだろう。

 

 

高度一万メートルと言えば旅客機が飛ぶ高度より少し高いところだ。そんなところを俊は今飛んでいる。

 

 

勿論、空気は薄く、気温は地球上のどこよりも低いだろう。

 

 

生身の人間がこんなところにいたらたまらない。だが、俊は今はドラゴンだ。

 

 

なんのためか、ドラゴンの身体はこんな高高度でも飛べるようにできているらしく、息苦しさも感じることなく、空気が冷たいのは感じるが、凍えるほどのものではない。

 

 

ここで雲の上の飛行を楽しんだところで雲の下まで高度を落とし、真面目に太一と真也を捜そうと思った。

 

 

俊は目を凝らして下を見る。

 

 

辺り一帯は針葉樹が森を占めており、つまらないことにどこを飛んでも同じ景色だ。

 

 

俊がふと前を見ると森が開け、大きな大河を境に草原が広がっている。

 

 

そこで俊の目についたのた草原側から川の水を飲む八頭からなる野牛の群れだ。

 

 

昨夜はマルバスから貰った牛の足を食べた。人間ならば食べきれないほどの肉の量となるが、大きな体を持つドラゴンとしてはやはり腹の足しにしかならなかった。

 

 

俊の目の色が変わった。

 

 

それは俊にも感じ取れたことだが、俊はその豹変を抑えようとは思わなかった。

 

 

それどころか、自然に湧いてくるドラゴンの強欲さに身を任せていた。

 

 

それはドラゴンに俊の人間の心が侵されていたせいかもしれない。

 

 

俊は故意にドラゴンの狩りの本能を呼び覚ませてしまったのだ。

 

 

俊は獲物との距離を取ろうと牛の上を弧を描くようにして旋回する。それに気づいた牛たちは、一斉に群れを成して逃げ惑う。

 

 

だが、必ずしも全ての牛がその群れにいる訳ではない。たいてい一頭や二頭は群れに加わりそびれる牛もいるものだ。

 

 

このときもその例外ではなかった。逃げ惑う牛の群れから五十メールほど後ろから一頭の逃げ遅れた牛が群れを追いかけている。

 

 

他の牛と較べるとその牛は二回りほど小さい。恐らく子牛なのだろう。

少々小さいが残酷にも俊はそれを獲物と見た。

 

 

俊は敵艦に突っ込む爆撃機のように一直線にその哀れな子牛に向かって急降下する。

 

 

俊の目には目標の子牛しか映っていない。

 

 

俊が獲物の子牛の真上に来ると、地面に直撃しないように降下速度を下げ、身体を持ち上げて地面に対し水平になるように飛び、そのまま子牛にのしかかるようにして地面に滑り込んだ。

 

 

直後、俊の滑り込みで土は掘り返され、辺りは砂埃が立ちこめる。

 

 

子牛は十トンをゆうに超えるドラゴンの身体に下敷きになり、俊が体を起こす頃には子牛の息の音は絶えていた。

 

 

俊はだらりと垂れた子牛の首筋を口にくわえ、再び大空に舞い上がろうとしたその時、

 

 

ドン

 

 

俊は尻尾の付け根あたりに鈍い痛みを感じた。何かがぶつかったようだ。

 

 

俊が獲物をくわえたまま首を伸ばし振り向くと、少し大きいくらいの牛が鼻息を荒くさせ、ぐいぐいと頭を俊の尻尾の付け根あたりを押しつけている。

 

 

俊の目がぎらっと光った。

 

 

俊は何も考えず、その牛を第二の獲物と見なした。

 

 

俊は後ろ足でその牛を蹴り上げ、更に自分の硬いが尻尾を鞭のようにしならせその牛に上から叩きつけた。

 

 

第二の獲物となったその牛は頭蓋骨が砕けたのか断末魔を上げ、そのまま動かなくなった。

 

 

辺りの空気が急に冷めた。

 

 

野牛の群れはもう見えはしないが、匂いだけが微かに残っている。追いかけるつもりなどない。

 

 

辺りは川のせせらぎの音と秋を告げるコオロギらしい声が虚しく響いている。

 

 

俊の副腎から分泌されるアドレナリンが切れ、興奮状態から解放されて心拍数が徐々に穏やかになり、体温を下がる。

 

 

頭がクールダウンしたところでようやく、俊の人間らしい思考が戻ってきた。

 

 

今くわえている子牛に側で横たわって動かない大きな牛…角がないことからすると恐らく雌だろう…

 

 

今思えばこの二頭の牛は親子なのだろう。この雌牛は子を守ろうと必死だったのだろうな…

 

 

今思えば?

…いや違う。初めから分かっていた。最初から分かっておきながら自分の欲を満たすために何のためらいもなく殺ったのだ。

 

 

これはとても野蛮で卑劣で薄情なことだ。だが、俊は後悔の念も罪悪感も感じることはできなかった。

 

 

それは自分の心の中の人間が消えつつある証拠だ。つい昨日まではそれを思う度に俊は悲観的な気持ちになっていたが、今ではそれも薄れてきてしまった。

 

 

俊は辺りを一見すると、倒れている雌牛を鷲掴みにし、翼を広げて空に舞い上がった。

 

 

空は相変わらず低い雲が占めている。そのせいか今日は日没が早いようだ。

 

 

俊は切り目をつけると進路をぐんと変え、洞窟に向かった。

 

 

湿っぽくて、普通の水よりちょっと生臭い匂い…

 

 

雨の匂いだ。もうすぐ雨が降る。

 

 

俊は不意に鼻についた匂いを心の内で呟いた。

 

 

実際は俊は雨の匂いなど知らない。だが、この身体…ゼルフォスは知っているのだろう。だから俊はとっさに答えを導き出せた。

 

 

しばらくすると俊の思った通り、雨が降ってきた。始めはぽつぽつと、それからザーザーと滝のような雨が俊の体を打ちつけた。

 

 

俊はとっさに雨宿り出来るところを探したがその必要はないことに気づいた。

それよりか、どうして雨宿りをする必要があろうか。

 

 

ドラゴンはごつごつとした分厚くて硬い鱗を身に纏っている。それは衝撃に対するダメージを軽減することの他に、外気温の遮断の役割を担っている。

 

 

服を着ている訳でもないドラゴンに雨宿りなど無意味なのだ。

 

 

俊はその事実に気づくとそのまま洞窟に直進した。

 

 

雨のカーテンの中。俊は住処であるドラゴンの洞窟に辿り着いた。

 

 

洞窟の中に入ると本能的にか、翼を空振りさせ翼に付いた水滴を落とす。そこからまた少し歩くと、口にくわえていた子牛と手に掴んでいた牛を地面に置き、身体のくぼみに溜まった水を長い首と舌を使って舐め上げる。

 

 

それが終わって何故か満足した俊は、再び二頭の牛を顎とかぎ爪で持ち、洞窟の奥へ二本足で立って進んだ。

 

 

今向かっているのは自分のねぐらではない。マルバスのねぐらだ。

 

 

俊は鋭い嗅覚を使ってマルバスの匂いを嗅ぎつけようとする。

 

 

俊の足が止まった。

俊は辺りを見回す。

左右には二つの洞窟。

右を見ると七頭ほどのドラゴンがやたらでかい声で、なにやらつまらないことを話し合っている。

左を見ると…いた。

 

 

マルバスは丸くなって目を閉じていた。だが、俊がマルバスの方を向くと匂いに気づいたのかゆっくり目をあけ、首を伸ばし俊を見る。

 

 

「やあ、マルバス。」

 

 

俊はくわえていた子牛を自分の足元に置くと、軽い言葉で挨拶をした。

 

 

「ゼルフォスか。どうかしたのか?」

 

 

マルバスは目を半開きにさせると俊に尋ねた。

 

 

「昨日のお返しをしようと思ってな。」

 

 

俊がそう微笑して言うと、牛の死骸を手に持ちマルバスのねぐらに入っていく。

 

 

俊はマルバスの前に牛の死骸を置いた。

 

 

「ふっ、昨日のお前は少しおかしかったが、やっぱりゼルフォスはゼルフォスだな。」

 

 

マルバスは俊の行動を見ると口元を緩め小さく笑い言う。

 

 

「えっ…」

 

 

「いつも何か恩を売ると、その次の日にその恩を割り増しで返す。

 

それに昨日のはこの前お前に助けて貰った時の恩を返しただけだぞ。」

 

 

「……」

 

 

俊は絶句した。久し振りにドラゴンらしからぬ人間らしいことをしたと思ったのに、それはゼルフォスの性格からきていたことを思い知らされたからだ。

 

 

「まあ、ありがとう。

だが昨夜、牛を食ったばかりだ。くれるんなら向こうに置いてある子牛のでいいぞ。」

 

 

「あ、ああ。」

 

 

呆然としていた俊は我に返ると、地面に置いた牛の死骸をくわえ、てくてくと子牛の死骸のところまで歩いていくと、くわえている牛の死骸と子牛の死骸を取り替え、また同じ調子でマルバスの前まで持っていき、それを地面に置いた。

 

 

「よし、じゃあな。マルバス。」

 

 

俊は気持ちを悟られないように微笑しながら言う。

 

 

「おう、またな。

肉、ありがとな。美味いぞ、これ。」

 

 

そう言うマルバスは既に肉を口にしている。人間界であれば礼儀の悪いことだが、遠慮を知らないドラゴン界では当たり前のことだ。

 

 

それは俊にはもう慣れた光景だった。遠慮というものを使う人間に疑問さえよぎるほどだ。

 

 

俊はマルバスのねぐらを後にすると牛の死骸をくわえて自分のねぐらに戻り、その牛を躊躇いもなく貪り食った。

 

 

もうこの時俊は、この牛を"牛の死骸"としてではなく、"獲物"としか見えていなかったのかもしれない。

 

 

俊は骨の髄までしゃぶり尽くすと、大きなあくびをし、満足した体を地面に横たわらせると、昨夜と同様に丸くなって目を閉じた。

 

 

俊は薄れゆく意識の中で一つ気づいたことがある。

 

 

ドラゴンは腹が減った時に狩りをし、それを食って寝る。暇な時は昼寝か、仲間と飽きるまで語り合うまたは、財宝を眺めうっとりするか。毎日がそれの繰り返しなのだ。

 

 

そう考えると、ドラゴンは意外と保守的だということだ。

 

 

俊はそのことに気づくと

まっ、どうでもいいか。

と自分を嘲笑い、深い眠りに落ちた。

 


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