三章 導神⑤
気付いたとき、イザーナは走り出していた。階段を駆け抜け、マンションの外に飛び出す。雨は強くなっていた。
大粒の雨が体を包み込み、厚いジャケットが重みを帯びる。それでも休むことなく息を切らし、走り続ける。道路を横断し、近道の路地に逃げ込む。ゴミの臭いが漂う道を走りぬけ、右手に見えてきたドアに入り込む。飲食店の裏口だった。驚いた顔をしている店員が何か言ってきたが、無視して入り口から外へ出る。するとヨヅモとオウングロウを結ぶ、鉄橋の入り口が見えた。
そこで彼は振り返り、店内を見渡す。そして追跡者の影を探す。
「……まいたか?」
激しく脈打つ心臓の音を抑えようと、左胸に手をやる。視線はいまだ店内を見ている。店内には、こちらを不思議そうに見ている店員や客の姿しかなかった。
「……大丈夫みたいだな」
大きく息を吐き、安堵の表情を浮かべる。
その時――突然誰かに肩を叩かれた。
ビクッと体を震わせる。
「……あなた大丈夫?」
振り返ると、そこにはビニール傘を差した中年の女性がいた。買い物帰りなのか、フルーツなどが入った袋を抱えている。
「……え、何が……?」
突然のことで気が動転してしまい、思うように返事が出来なかった。
「何が、じゃありませんよ。こんな強い雨の中、傘も差さずに立ち往生なんてして。風邪引きますよ」
その言葉を聞いて、彼は息を吐き、心を落ち着かせた。どうやら、ただのおせっかいなおばさんのようだ。
「最近、この辺り冷え込んでいるんだから。若いからって無理しちゃだめよ」
彼は口元に微笑を浮かべ、そうですね、と相槌を打ち、顔を上げ――
目が合った。
中年の女性とではない。そのうしろ、女性の肩にしがみついている物。
イザーナは顔を引きつらせ、あとずさりする。その行動を女性は不思議そうに見ていた。自分の肩にしがみついている物は見えていないらしい。
「どうしたんですか? 顔色が悪いですよ」
イザーナはもう女性のほうは見ていなかった。その肩にしがみつく黒い影から目をそらすことが出来なかった。心臓が再び高鳴り始める。額に脂汗が浮かび、それが風を受け、体がブルッと震える。彼はゆっくりと、視線をそらさず、路地のほうまで足を運んでいく。そして踵を返し――一目散に駆け出した。
「ギャァァァァァァァァァァァァァァァガァァァァァァァァァッ!!」
背後から人の声とは思えない叫びが発せられた。