一章 造神⑰
「なんでもありません。気にしないで下さい」
ツズファはそう言うと、にいっと不気味な笑みを作った。その反応に、イザーナは目を細め、鼻を鳴らした。
「だったらさっさと導け。時間が無いんだろうが」
「言われなくても」
ツズファは笑みを貼り付けたまま、廊下に出る。イザーナもそのうしろを歩く。
――逃げるな……か……。
ふと、友人の姿が目に浮かんだ。
――いいか、逃れることを真に理解している奴はいない。世界に存在する限り、生きていようと死んでいようと逃げるということは、そちら側に進むことなんだ。だから逃れるという言葉は、その言葉自身で進む、という言葉を否定していると言っていい言葉なんだ。
いろいろと訳の分からない論議を並べるのが、あいつの癖だった。
――言い方を変えれば全ての言葉は素晴らしく聞こえるだろう。だが裏を返せば全てが上っ面だけの詭弁と化す。君はそれでも、なんでもいい。何かを信じることは出来るか?
――うるせぇ、アホ。その意見で言うなら、手前の言葉も上っ面だけの詭弁じゃねえか。アホらしい。
ふ、とイザーナは自嘲気味に笑みを作った。友人の言葉が懐かしく耳に響く。
「どうしました?」
笑みを浮かべているのを不審に思ったのか、ツズファが尋ねてくる。
「いや――」
何でもない、と言おうとしたが、やめた。
「ちょっと友人のことを思い出していただけだ」
「そうですか」
ツズファは、どうでもいい、と言わんばかりに背中を向ける。ふん、とその背中に向け、鼻を鳴らす。
「過去に浸るのもいいですが、今も見てくださいね。しっかりと」
「分かってるよ」
「これからどんどん忙しくなりますからね」
イザーナたちが階段を下りている途中、別の部屋の住人とすれ違った。だが、住人はこちらを一瞥しただけで何も言わず、通り過ぎていった。
「無愛想な住人ですね」
ツズファは住人に対して、率直な感想を述べた。
「皆こんなもんだ。下手に他人とは関わらない」
その言葉に、ツズファは何も返事を返さずにアパートの玄関に手を掛ける。
古臭いその扉を開くと、ひんやりとした空気が体中に纏わりついた。
「急ぎましょうか。雨が降りそうです」
ツズファにそう言われ、なんとなく空を仰いだ。
空は灰色だった。
「……そうだな」
嫌な感じがした。