「君との婚約を解消したい」「待ってました!」〜修羅場好き令嬢、ついに当事者になる〜
「⋯⋯浮気?」
エステル・ローデリックは、思わず聞き返した。
「ええ。たぶん、間違いないと思うわ」
王立学院の中庭。
向かいに座る友人のマリアンヌは、ひどく言いづらそうな顔をしている。
「昨日、あなたの婚約者が女性と二人で街を歩いているところを見たの。相手はたぶん、一年生の男爵令嬢よ。しかも、その⋯⋯手を繋いでいたわ」
「手を?」
「⋯⋯ええ」
「繋いでいたのね?」
「⋯⋯エステル、大丈夫?」
心配そうに尋ねるマリアンヌに、エステルは答えられなかった。
心臓が大きく跳ねている。
五歳の頃から婚約している幼馴染、アーネスト・クライヴ。
伯爵令嬢であるエステルにとって、侯爵家の嫡男である彼はいずれ夫になる人だった。
もちろん、好きだった。
真面目で、穏やかで、少し融通が利かないところはあるけれど、それも彼の長所だと思っていた。
だから浮気していると聞けば、当然悲しい。
悲しいのだ。なのに————。
「⋯⋯⋯⋯私が?」
「え?」
「ついに私が⋯⋯当事者になったの?」
「エステル?」
エステルは両手で口元を覆った。
いけない。
笑ってはいけない。
絶対に笑ってはいけない場面だ。
しかし————。
「どこで!?」
「え?」
「昨日の何時頃!?どこの通り!?相手の名前は分かる!?手はどちらから繋いだの!?」
「ちょ、ちょっと待って————」
「二人は何を話していたの!?そのあとどこへ行ったの!?」
「エステル、落ち着いて!」
マリアンヌに両肩を掴まれて、エステルはようやく我に返った。
「⋯⋯ごめんなさい」
「あなた、なんでちょっと嬉しそうなのよ」
「——嬉しくなんてないわ」
「目が輝いているけど」
「気のせいよ」
エステルには、一つだけ人には言いづらい趣味があった。
実は⋯⋯とにかく修羅場が好きなのだ。
誰と誰が浮気した。
婚約者を奪われた。
実は二股をかけていた。
秘密の恋人が発覚した。
そういった話を聞くと、どうしても気になってしまう。
もちろん、人の不幸そのものを喜んでいるわけではない。
友人が泣いていれば慰めるし、困っていれば力にもなる。
ただ、その経緯を詳しく聞きたい。
ものすごく聞きたい。
『それで?』
『そのあとどうなったの?』
『相手はなんて言ったの?』
『嘘でしょう!?』
気付けばいつも身を乗り出している。
貴族社会で起きた恋愛沙汰についても、なぜかエステルだけ異様に詳しかった。
そんな彼女にも唯一残念なことがある。
自分には一生、修羅場など起きそうにないことだ。
婚約者のアーネストは真面目で、女性関係の噂など一度もない。
十年以上続く婚約も順調。
十八歳で学院を卒業すれば結婚する予定だった。
幸せだ。
とても幸せなのだけれど————。
『私の人生、修羅場とは無縁なのでしょうね』
ほんの少しだけ残念に思ったこともある。
ところが⋯⋯来た。
まさかの浮気。しかも自分の婚約者が。
「⋯⋯どうしよう」
エステルは呟いた。
「今日はもう帰る?」
「違うわ」
エステルは立ち上がった。
「証拠を集めないと」
「⋯⋯⋯⋯え?」
「まだ手を繋いでいただけでしょう?それだけで浮気と決めつけるのは早いわ。まずは事実確認。それから相手の身元を調べて、二人の関係がいつから始まったのか確認するの」
「エステル?」
「手紙があるかもしれない。贈り物の購入記録も確認したいわね。あとは目撃者。できれば二人以上欲しいわ」
「ちょ、ちょっと待って!!」
マリアンヌが額を押さえた。
「どうしてそんなに手慣れているの?」
「今まで何件の修羅場を見てきたと思っているの?」
「見る側の経験って役に立つのね⋯⋯」
こうしてエステルの調査が始まった。
結果から言えば、真っ黒だった。
相手は一年生の男爵令嬢、リネット・アーヴィン。
アーネストとは二か月ほど前から親しくしている。
最初は学院で相談に乗っただけだったらしい。
それが二人で昼食を取るようになり、休日には街へ出かけるようになった。
アーネストから贈られたと思われる髪飾り。
二人で観劇した記録。
そして決定的だったのは、人気のない校舎裏で抱き合っているところを目撃した生徒が三人もいたことだ。
「⋯⋯⋯⋯完璧ね」
エステルは自室の机に並べた証拠を見つめた。
「完璧ね、じゃないのよ」
隣でマリアンヌが呆れている。
「あなた、本当に大丈夫?」
「大丈夫ではないわ」
エステルは正直に答えた。
調べれば調べるほど、胸は痛んだ。
アーネストが自分には見せたことのない笑顔でリネットと歩いていたと聞いた夜は、眠れなかった。
自分への贈り物を選ぶときより楽しそうに髪飾りを選んでいたと知ったときは、泣いた。
十年以上、一緒にいた。
来年には夫婦になると思っていた。
「⋯⋯好きだったもの」
ぽつりと呟く。
マリアンヌが何も言わず、エステルの手を握った。
「だから、ちゃんと悲しいわ」
「うん」
「ものすごく腹も立っている」
「うん」
「でも————」
「うん?」
エステルは机の上の証拠を見た。
「ここまで綺麗に証拠が揃うと、ちょっと気持ちいいわね」
「⋯⋯やっぱりあなた、変よ」
それから数日。
エステルは何も知らないふりをして過ごした。
アーネストとも普通に話した。
「最近忙しいの?」
「ああ。卒業前だからな」
「そうなのね」
「悪いな。あまり一緒にいられなくて」
「気にしないで」
嘘つき。
そう思いながら微笑んだ。
そして、その日は突然やってきた。
昼休み。
学院の食堂で友人たちと食事をしていたエステルの前に、アーネストが現れた。
隣にはリネットがいる。
周囲の視線が集まる。
エステルは二人を見て、思った。
これは——もしかして——!
「エステル」
アーネストが真剣な顔をしている。
「話がある」
「ええ」
「俺は⋯⋯君との婚約を解消したい」
来た。
「待ってました!」
食堂が静まり返った。
アーネストが固まった。
リネットも固まった。
マリアンヌは頭を抱えた。
「⋯⋯⋯⋯は?」
「あ」
エステルは口元を押さえた。
「ごめんなさい。つい」
「つい?」
「こちらの話よ。続けて?」
「いや⋯⋯」
アーネストは明らかに調子を狂わされていた。
「君との婚約を解消したいんだ」
「聞いたわ」
「俺はリネットを愛している」
「それも知ってる」
「⋯⋯ん?知ってる?」
「二か月前からでしょう?」
アーネストの顔から血の気が引いた。
エステルは鞄を開いた。
「最初に二人で食事をしたのが七月十二日。その四日後に街へ出かけているわね。それから二十三日に観劇。八月二日にあなたがリネット様へ髪飾りを贈っている」
「な、なんで⋯⋯」
「八月十一日には西校舎の裏で抱き合っていた。目撃者は三人。必要なら名前も出せるわ」
「待て」
「あと、これ」
机の上に紙を置いた。
「あなたがリネット様へ送った手紙の写し」
「どうしてそれを!」
「リネット様がご友人に見せたそうよ」
エステルはリネットを見る。
「恋人から情熱的な手紙をもらったら、誰かに見せたくなる気持ちは分かるわ」
リネットの顔が真っ赤になった。
「それから――」
「もういい!」
アーネストが叫んだ。
「どうしてそんなに用意してるんだ!」
「浮気されたら証拠を集めるのは当然でしょう?」
「普通もっと取り乱すだろ!」
「取り乱したわよ。一人のときに」
「だったら今も少しくらい⋯⋯!」
エステルは首を傾げた。
「あなた、私に泣いてほしかったの?」
「そういう意味じゃない!」
「それなら問題ないでしょう」
エステルは証拠をまとめ直した。
「婚約解消については承知しました。ただし、あなたの有責であることはこちらの資料とともに両家へ報告します。慰謝については父を通して侯爵家と話し合いますので」
「そんな⋯⋯」
「何か?」
「もっと⋯⋯話し合うとか」
「二か月も浮気しておいて?」
アーネストが黙った。
「それに」
エステルはリネットを見た。
「愛する方と一緒になりたいのでしょう? 私は喜んで身を引くわ」
「エステル⋯⋯」
「お幸せに」
そう言って、エステルは席を立った。
その日の夜、自室へ戻ったエステルは一人で泣いた。
これで本当に終わった。
十年以上一緒にいた人は、もう自分の婚約者ではない。
楽しかった思い出まで嘘になるわけではない。
だからこそ悲しかった。けれど翌朝——。
「昨日の食堂、すごかったらしいわね」
マリアンヌが言った。
「もう噂になってる?」
「学院中でね」
「どの辺りが一番話題になってる!?」
「食いつかないで」
婚約解消は正式に成立した。
アーネストとリネットは、その後も交際を続けたらしい。
エステルは特に邪魔をしなかった。
浮気をされたことについては腹が立つ。
けれど、もう自分とは関係のない二人だ。
ところが三か月ほど経ったある日。
「エステル」
廊下でアーネストに呼び止められた。
ずいぶん疲れた顔をしている。
「久しぶりね」
「⋯⋯リネットと別れた」
「えっ」
エステルの目が輝いた。
「どうして!?」
「お前、本当に変わらないな⋯⋯」
「ご、ごめんなさい。それで?」
「⋯⋯聞くのかよ」
「嫌なら聞かないわ」
「いや⋯⋯もういい」
アーネストは深いため息をついた。
「喧嘩が増えたんだ。付き合ってみたら、お互い思っていたのと違って⋯⋯最後は向こうから別れたいと言われた」
「そう⋯⋯」
「笑わないのか?」
「笑わないわよ」
エステルは少し考えてから言った。
「浮気されたことは許していないけれど、あなたが不幸になることを願っているわけではないもの」
アーネストは驚いたようにエステルを見た。
「⋯⋯エステル」
「何?」
「俺は馬鹿だった」
「そうね」
「即答するなよ」
「浮気したのは事実でしょう?」
「⋯⋯そうだな」
しばらく沈黙が流れた。
「もう一度、やり直すことはできないか?」
「無理ね」
今度も即答だった。
「⋯⋯そうか」
「ええ」
「俺のこと、そんなに嫌いになった?」
エステルは少しだけ考えた。
「嫌いというより、もう信用できないの」
「⋯⋯そうか」
「でも、幸せにはなってほしいと思っているわ」
「ありがとう」
「だから次に恋人ができたら浮気しちゃ駄目よ」
「分かってる」
「もし浮気するなら――」
「しないからな?」
「最後まで聞いて」
「聞きたくない」
アーネストは苦笑して去っていった。
その背中を見送りながら、エステルは少しだけ寂しくなった。
けれど。
「エステル!」
廊下の向こうからマリアンヌが走ってきた。
「聞いた!?」
「何を?」
「三年生のローザ様!婚約者がいるのに、別の男性と——」
「詳しく!!」
「だから顔が近いのよ!」
エステルは身を乗り出した。
「いつ!?誰と!?婚約者は知ってるの!?」
「順番に話すから!」
胸が痛む恋もあった。
泣いた夜もあった。
それでも人生は続いていく。
そして世の中から修羅場がなくなることも、おそらくない。
「それで!?その男性はなんて言ったの!?」
「楽しそうね、あなた⋯⋯」
「人聞きの悪いことを言わないで。心配しているのよ」
「目が輝いてるけど?」
「気のせいよ」
エステル・ローデリック。十八歳。
婚約者に浮気され、婚約解消を経験したばかり。
本人曰く、人生で一番悲しい修羅場だったという。
そして同時に——人生で一番興味深い修羅場でもあったらしい。
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