名を問うな
風が先に来た。
草が伏せ、砂が舞い、
次の瞬間には矢が飛んでいた。
「伏せろ!」
叫ぶ間もなかった。
矢は地面に突き刺さり、もう一本が肩口をかすめる。
遅れて悲鳴。後衛が倒れた。
撤退だ。
誰もがそう思ったが、誰も動けなかった。
――そのときだ。
横から、何かが走り抜けた。
軽い装備。盾はない。
背に細い槍を数本、束ねている。
男は止まらない。
走りながら、一本を抜き、投げた。
音は小さい。
だが、丘の向こうで、弓手が崩れ落ちるのが見えた。
「……今の、誰だ?」
答えはない。
男は振り返らない。
二本目を抜き、さらに前へ出る。
矢が飛ぶ。
男は進路をわずかにずらすだけで、かわす。
盾も、構えもない。
「おい! 戻れ!」
誰かが叫んだが、
男は戻らなかった。
代わりに、距離が縮んだ。
三本目の槍。
投げた直後、男は走る速度を上げる。
近づく。
矢が途切れる。
その瞬間、男は落ちている槍を拾った。
さっき投げたものだ。
無駄がない。
止まらない。
「……ついて来い」
初めて、声を聞いた。
低い。
短い。
命令というより、事実の確認だった。
気づけば、足が動いていた。
丘を越えた先には、混乱があった。
弓手は散り、前衛は隊列を失っている。
男はそこで、初めて止まる。
短い槍を両手で構え、
一歩、踏み込む。
突く。
深くはない。
だが、確実だ。
相手が倒れる前に、もう一人。
距離を詰めさせない。
追わない。
殺しきるより、近づけない。
「下がれ」
それだけ言って、男は引いた。
敵は追ってこない。
追える距離じゃなかった。
気づけば、戦場は遠い。
息が荒れる。
肩が痛む。
だが、生きている。
男は、地面に落ちていた槍を一本拾い、背に戻した。
それで終わりだった。
「……助かった」
そう言うと、男は足を止めた。
初めて、こちらを見る。
顔に特徴はない。
覚えようとしても、覚えられない。
「名前は?」
そう聞いたのは、
礼がしたかったからだ。
男は、少しだけ首を傾げた。
「必要か」
言葉に詰まる。
「呼びづらいだろ」
男は、もう歩き出していた。
「じゃあ、呼ぶな」
風が、また吹いた。




