34.夢幻の契約
初めて本気で人を殴った。
手がじんじんと痛み、震えが止まらない。
木々は揺れるのを止めて、辺りは静寂に包まれていた。目にかかった前髪をかきあげるアリスティド。霞んだ視界を目の前の男に合わせた。
シャルルは倒れ込んで、荒々しく息をしている。ただ横にいるだけの精霊女王は、助ける様子もなかった。草と土を握りしめ、シャルルは上体を力無く起こす。
「精霊女王! まだだ、足りぬぞ私は。次期女王とも契約して――」
気が付いた時には、アリスティドがシャルルの目前にいた。騎士のように、メルを後ろで庇いながら。
アリスティドの眼光に、初めてシャルルは戦慄を覚えた。勝手に奥歯が鳴る。先程までの威厳など、見る影もない。
アリスティドは杖をシャルルへ向けた。
子どものようにシャルルは叫ぶ。
「ッッ殺すなら早くしろ! まだやるか? それとも欲しい物があるのならばくれてやる。金か、名声か? 地位か?」
「そんなことしないし、いらないよ」
メルを見て、お互いに頷いた。
「シャルル・ド・ルクエールとプリムスの契約を破棄する」
あっけない終わりだった。
アリスティドは、2人の足元に魔法陣を発動させた。上に伸びる淡い光が、シャルルから漏れた魔力を消し去る。
元の老いを取り戻していた。それでもシャルルはまだ立ち上がろうと、もがく。
「こんなガキに……私はまだ……最強の王にっ⁉︎」
「えいっ」
シャルルの額が指で強く弾かれた。
額から小さな煙が上がっている。
気がする。
アリスティドは開いた口が塞がらない。
いつの間にか目覚めた精霊女王。汚れを気にする事なく、しゃがんでいる。
シャルルはそのまま、意識を失った。
体の汚れを払いながら、精霊女王は立ち上がる。そしてアリスティドとメルを見つめた。
「さて、と。アリスティド」
「……はい」
「それにメル。ありがとう」
精霊女王は正気を取り戻したようだった。彼女は2人の手を取って、自分の手を重ね合わせる。
「私がココ家にした約束はね、『必ず男の子産まれて、必ず15歳で出会った女と結婚する』っていう内容なの」
胸を撫で下ろすのも束の間、精霊女王の体を桃色の粒子が包み始めた。瞳を閉じて、静かに微笑んでいる。
時間が止まった気がした。アリスティドは胸のざわめきを抑えつけて、声を上げる。
「それ、って……契約、の……!」
「そうよ」
くるりと精霊女王は背中を見せてしまった。楽しそうに、わざとらしく。後ろで組んだ手を遊ばせながら。
「長く生きすぎたかもね。絶対誰にも言わないって、そう思ってたのになぁ」
「待ってよ、精霊女王……!」
「精霊女王なんてよしてよ。可愛くなーい」
どんな顔で、そんな事を言っているのだろう。
それは――最期まで分からなかった。
「これでアリスティドは自由よ」
「でも……」
「ほら、夜が明けるわ2人とも!」
精霊女王は横顔だけを少し見せる。朝日と髪で隠れているが口元は笑っていた。後光が彼女を一際映えさせる。
「二人は私みたいにならないでね。アリスティド。泣いてくれて、とっても嬉しかった」
「プリムスッ!」
おさまっていた風が、再び吹いた時だった。木々がざわめいて、うるさい。その中で何かを言いながら、精霊女王は光の粒子となって、空へ還った。
2人に手の温もりだけを残して。
茫然と立ち尽くす2人にも、朝は来る。
陽の光が眩しくて、儚い。目を細めながら、精霊女王の姿を脳裏に焼き付けた。
「……あの日ね、初めて会った日。私はアリスに呼ばれた気がしたの」
少しの沈黙の後、メルが呟く。
「呼んでた?」
そんなの、わからない。
村の皆に、自分の運命に苛ついて、ただ焼ける恒久の森を眺めるだけ。自分の事で一杯だった。
それでも、知らなかった世界を知ることができて良かった。新しい出会いに恵まれて良かった。
メルと出逢えて、良かった。
「ふふ、わからないって顔してるよ」
「僕の心を読むんじゃない」
何故かメルから目を逸らして、アリスティドはぼやく。だがすぐに視線を戻すことになる。
いつも温かいはずの小さな手が、冷たい。気付いたと同時に、メルが目一杯大きな欠伸をした。
「メル、眠い?」
「うぅん……魔力? 使いすぎたのかな。なんか、疲れたかも……」
眠気を感じているから、だろうか。目が合わない。魔力の揺らめきを感じて、メルの肩に視線を移す。それを見たアリスティドは、一歩後ろによろめいた。
桃色の粒子だ。
桃色の粒子がメルの体を、包んでいる。
精霊女王と同じように。
空いている手で腕を掴むが、感触が全く無い。喉が詰まって、急速に渇いていく。
アリスティドは呼吸を忘れた自身の体に、無理矢理空気を送り込んで叫んだ。
「ッメルまでどっか行っちゃうのかよ‼︎」
「行かないよ……。でも、ちょっと寝るね……。おやすみ」
メルの言葉とは裏腹に、粒子が内側に向かっていく。いなくなってしまう。繋いでいた手が空ぶって、メルをすり抜けた。そのままアリスティドは重力に引かれて、膝から崩れ落ちた。
地面を握りつぶして、爪の間から血が滲む。
くるしくて、いたい。
胸の奥に、ぽっかりと大きな穴が空く。
「……どこにも行くなって言っただろ」
その場に残ったのは、アリスティドの覚悟と、メルが落としたあの桃色のリボンがついた小さな髪飾り。ただそれだけだった。




