緊急招集
今朝はこれまた、良い朝であった。
「んー……ぬーん……」
春眠暁を覚えずとは、多分このことだ。わたしはカーテンの隙間から顔にかかった日差しの温もりで漸く目が覚めた(本当は春じゃなくて夏の終わり頃の9月なんだけど、その割にはかなり涼しいのだ)。
朝に弱い体質であることも手伝って、起きたくないというより、純粋にこうやって微睡むのが心地いい。
だがしかし、この組織における抵抗者部隊、つまりはわたしが所属するADFの朝は早い(他の隊の朝も早いらしい。くそ!自分だけ苦労しているみたいな言い訳が使えなくなった!)。
今は朝7時くらいだと思うけれど、もう起きなければならない。いや、今日は休日(ADFでは休日でも駐屯地内で過ごすことが義務付けられている)ではあるのだけれど、だからと言ってあまり寝坊をするようなことは無いようにと推奨されているので、寝ていたい気持ちとの闘いに、わたしは唸っている訳である。
「ぬーん…ぬぬぬ…ぬ…」
うわーん!寝ていたいよお!
「くっ…!」
……起きます。
と、そこに丁度良くなのかどうなのか、スマートフォンに電話がかかってきた。寮の部屋の中ではスマートフォンの使用が全面的に許されるんだから、これでもまだ特別扱いなんだぞと、日倭かおり曹長から聞いたけれども……それは本当なのだろうか?
スマホの画面には『梨乃』と表示されている。
わたしのルームメイト、紫野梨乃ちゃんだな。
「もしもし篠守さん?今更起きたのですか?」
うるせえ。
「今からできるだけ早く、作戦会議室に来ていただけますか?来ないようであればお迎えに上がりますので。では」
と、彼女は言うだけ言って、割と一方的な通話が割と一方的に終了した。
ん?待てよ、何か変だな。
休日だと梨乃ちゃんが先に起きていることはいつも通りなのだけれど、何故梨乃ちゃんに呼び出される?
かの後輩の声は幾度となく聞いてきたが、思えば朝起きてすぐに、それも通話越しに聞くのは、これが初めてだ。
まあ、後輩というか、ここでは同僚だけれども。
「こうしちゃいられん!」
何はともあれ、わたしは急いで、部屋を出る支度を始める。
着替えて、顔を洗って、ああそれから起床時には水分補給も大切らしいので水も飲んで…
ドタバタと準備を終えて、部屋を出ようとドアの前に立った。
よし、逃げよう。
え?うん、逃げるけど。
そもそも妙な話だよ。会議室に来いって、普通に考えれば緊急召集とかだろうけれども、しかしそれは上官からされる事であって、同僚である梨乃ちゃんからされるのは不自然だ。ここADFでは、基本的にわたし達抵抗者だけでなく無能力者の上官達も休日を駐屯地内で過ごすのだが、上官だけは特別に、最多で半数が休日に駐屯地を離れることができる。だから今日なんかは、上官の数がいつもの半分くらいだから人手不足になりやすい状態なのかも知れないが、それにしたって自衛官としての階級が低い梨乃ちゃんが召集を担当し始めるくらいであれば、それ即ち相当な緊急事態ということだろう。
せっかくの休日なのに、面倒臭いよ。いや、緊急事態にすぐ動けるように、我々ADFは休日でも駐屯地内で過ごすことが義務付けられている訳なのだけれど。
上司であるところの日倭さんも、わたしと相部屋の筈なのに、今は何故かこの部屋にいないし。
恐らく、面倒な用事が出来たのだ。面倒で厄介な用事が出来たから、わたしにそれを手伝わせようというのだろう。
面倒事に巻き込まれちゃ堪らない。どこかに隠れて、呼び出しをやり過ごそう。早くしなければ『お迎え』とやらが来てしまう。誰が来るのか知らないが、それは実際のところ、ただわたしを確保して連行するだけなのだろう。さもありなん、これまでの経験から学習した。
「左右確認……」
そっと部屋のドアを開けて、外の様子を窺う。寮の出入り口は2箇所あって、会議室からこの寮に来るならば、部屋を出て左の方向にある階段を降りた先の出入り口から来ると予想されるから、急いで右に行かなければ。
しめた、まだ誰も来ていない!よし、そこの曲がり角を曲がって、それからその向こうの階段を……
あ。
「どこに行くんだぁ?篠守ぃ…」
やっべ。
曲がり角を曲がった先に、鬼の形相と鋭い剣幕で、わたしの同僚・馬垣熔巌くんが待ち構えていた。
彼は平たく言うと不良というか、ヤンキーみたいなものである。そういえば『ヤンキー』って言葉、英語圏の人には伝わらないんだっけか…なんて考えている余裕も、やはり無いな。
「おかしいなぁ?こっちは会議室とは逆方向だぜぇ?」
この男、年齢はわたしとそう変わらないようだが、これまで会ってきた同年代の人間には見たことのないような威圧感があるのだ。
しかもその癖、時には頭が良さそうな側面も垣間見えるのだから、妙な奴である。そこそこ学のある常識人が悪ぶっているように思えてしまうこともあるのだが、この威圧感は果たして、悪ぶっているだけの人間に出せるものなのだろうか。
馬垣くんは、よく解らない。
「い、いやー、あはは〜……わっわたしってば方向音痴だから〜……、別にサボって隠れようとしたとかそういう訳じゃないし〜…」
「ああ、そうなのか?じゃあ案内してやるから俺について来いよ、ほら」
「いやいや、心配には及ばないわ!そそ、それに、馬垣くんと一緒に歩くのはちょっと気恥ずかしいっていうかね、えへへ」
「そろそろ嘘を吐くのをやめたらどうだ。お前に恥じらいなんてもんがあるかよ」
呆れたように言う馬垣くん。やはりこの程度の悪あがきでは欺けないということなのだろうが、しかしいくら何でも、嘘がバレる理由が酷かった。
「だ、だって、普通じゃないでしょ梨乃ちゃんが呼び出してくるなんて!梨乃ちゃんの部下になった憶えは無いわよ!」
「まあちょっと聞けや」
「やめて!わたしに野暮用を押し付けるつもりでしょう!?変な同人誌みたいに!」
「そんな特殊性癖者向けの同人誌があるかよ。ガチで変な同人誌じゃねえか…」
どうする?
どうやってこの場を凌ぐ?
「ああわかったわ!いいわよ、わたしを連れて行きたいのなら、そうすればいいわ!もちろんわたしは抵抗するけどね!」
「おいおい、いくら怪我をしない肉体とは言っても、痛みまでは無くせないんだろ?無駄な抵抗はやめといた方がいいぜー」
余裕こいてやがるな、こいつ。
「ふふん、確かに馬垣くんは強い。でも、強いだけじゃあ、勝てるとは限らないのよ?」
「ほう、じゃあ何か?俺がお前に負けるとでも言うのかよ?確かに俺の《万物融解》はお前には効かねえけど、それ以前にまず、俺とお前の喧嘩の強さを比較してみろもよ」
「そんなことは百も承知よ。その上で言ってるって、理解できなかったのかしら?学の無いごろつきは」
安い挑発だろうか。
しかし、完全なハッタリという訳でもない。
「はは、面白え…!見せてもらおうじゃねぇか、お前が俺に勝つところをよ!」
くく、熱くなったな?馬垣くん…!
「ええ、よく見てなさい…こうするのよ!」
そう言うが早いか、わたしは踵を返した。
逃げるが勝ちだ!
「あ、こらっ…待てお前!」
「へへっ!三十六京回、逃げるに如かず!」
「どんな回数だよ!」
何だっけ、三十六けい…正しい言い方は忘れた。
とにかく、わたしは走る。惜しげもなく全速力で。
「お前…速っ!」
もっと誉めるがいい。決して壊れる事のない肉体であるのをいいことに、思う存分鍛え上げた逃げ足の速さを!
我ながら、何という速さ!今ならプロの陸上選手と張り合えるような気すらしてくる!
わたしは速い!わたしは何者にも縛られない!
わたしは自ゆ…
「ぐえっ!」
不意に何かが足に引っ掛かって、転んでしまった。顔面から思いっきり床に突っ伏す形になってしまって、《不壊》の異能によって怪我をしない無敵の肉体とはいえ、顔がめちゃくちゃ痛い。泣きそう。
しかし妙だ。行手には足を引っ掛けそうな障害物は何も無かったように見えたのだが?
「確かに何もありませんでしたね。私が糸を出す前までは」
そう言って物陰から現れたのは、わたしの憎たらしくも愛らしい後輩もとい同僚、梨乃ちゃんであった。
なるほど、彼女の異能・《固定斬撃》によって、突然出現した糸がわたしの足に引っ掛かったという訳であるらしい。
てっきり、会議室に来いと言ってきた梨乃ちゃんは、会議室にいるものだと思っていたのだが……そこも含めて、わたしは欺かれたという訳か。
騙し合いで出し抜かれるとは……何たる屈辱。
「そういやその糸って、障害物としての性質もあったんだな。初めて知ったわ」
「はい。馬垣さんの言う通り、決して破壊されない篠守さんの身体に、触れた物を破壊する私の糸が当たった場合、勿論そこに矛盾は生じず篠守さんの身体は無傷で済むという事は前提として、糸と身体は透過し合うのではなく衝突し合うのです」
二人で何やら話しているが、顔が痛いわたしはそれどころではない。涙が出てきて大変だ。全く、いくら怪我をしない体とは言っても、人に対してやって良い事と悪い事があるのではないだろうか?
というか、梨乃ちゃんが伏兵として潜んでいたという事は、わたしが逃げるであろう未来を予見していたという事になるが……やはりこの後輩には、敵わない。
くっそー……、二人でコソコソと作戦を立てやがって。わたしは仲間外れにされているというのか?なんでそんな心当たりのあることをされるんだ?
まあ標的がわたしなんだから、この場合に関してはわたしが仲間外れにされるのも仕方ないのだけれども。
「仲間外れ?はん、笑わせるね。逆だよ逆、逆じゃねえか。お前を仲間にするために、こうして俺たちが出ばって来てんだよ。おら、さっさと作戦会議室に行くぞー」
「仲間にするというより、それは、何と言うか……」
うーん。
上手い反論が思い付かず、わたしは二人に両腕を掴まれたまま、あえなく会議室に連行された。