私のことだけ忘れた旦那様
「おめでとうございます、奥様。ご懐妊されていらっしゃいますよ」
ルシェリナの診察を終えた老齢の侍医は、にっこりと笑って言った。
「ありがとうございます……!」
ルシェリナは喜びで視界を滲ませながら、まだぺたんこのお腹に手を当てる。
前国王の弟である公爵の養子、イリオスと政略結婚をして、すったもんだありながらも三年が経過した。
政略結婚からはじまった関係は、いつしか互いを必要とするような信頼関係へ、そして最終的にはきちんとした愛を育み合う関係へと変化した。
ルシェリナにとって、イリオスと同じように愛しくて大切な存在ができるなんて、夢にも思わなかった。
生まれて初めて味わう感動に包まれながら、侍医からの注意事項や禁止事項をどこか浮ついた気持ちで聞いていると、コンコン、と部屋の扉がノックされる。
「奥様、旦那様がお戻りです」
「わかりました、直ぐに向かいます」
禁止された黒魔術を扱う貴族の残党討伐、という危険な現場にイリオスが赴いて一カ月。
既にいっぱいだと思っていたルシェリナの胸は、夫が無事に帰って来たという喜びでさらに溢れる。
今日は、なんて良いことずくめの日なのだろう。
「あの、旦那様には私からご報告をしたいので、しばらく子どものことは秘密にしておいていただけませんか?」
ルシェリナがこそりとお願いすれば、侍医は心得たとばかりに目尻の皺を深くして頷いた。
「ではまた、一ヶ月後に伺いますね。どうぞ、イリオス様をお出迎えください」
「はい。先生、ありがとうございました」
気配りを忘れない侍医に感謝を込めて優雅にお辞儀をし、ルシェリナはメイドが開けてくれたドアを早歩きで通り抜ける。
ルシェリナもイリオスも、あまり家族愛には恵まれない幼少期を過ごした。
そのためイリオスにいたっては、結婚当初「子供なんて欲しくない。一生誰とも身体を繋げる気はない」と宣言していたほどだ。
イリオスの心の傷は深く、まだ自分の子供が欲しいとは思えないと言っていたが、同時にルシェリナの子供は見たいと、可愛いに違いない、とも言っていて。
本人の中で相反する感情を抱えながら、それでもルシェリナと一緒に幸せな家庭を作りたいと、前向きに考えるようになってくれたのだ。
──早く、イリオス様にお伝えしたい。
あなたの子供が、まだ小さな命が、この身に宿ったのだと。
これからはこの子が、あなたに新しい感情と愛を、たくさん教えてくれるのだと。
普段なら玄関まで急いで向かうが、もう自分一人の身体ではない。
妊娠初期は特に気を付けて行動するように言われたので、ルシェリナは駆けたい気持ちを抑えて一歩一歩、しっかりと踏みしめるように歩いた。
「……! ……!!」
「……、……大変だ、旦那様が!」
「大丈夫だ、問題ない」
なにやら玄関が騒がしく、ルシェリナは聞こえてきた言葉に不安を覚えた。
もしや怪我をされたのか、と思い、慌てて二階からイリオスの姿を確認する。
ルシェリナの視界の先では、怪我をした様子のないイリオスが普段通り、執事のゴードンに脱いだ上着を手渡していたところだった。
ホッとしたルシェリナの視線を感じたのか、イリオスがすいと目線を上げて二階にいるルシェリナを見る。
ルシェリナは軽く手をあげ、微笑もうとして……固まった。
イリオスが、ルシェリナを視界に入れても、笑みひとつ浮かべなかったからだ。
『ただいま、ルシェリナ』
『こちらにおいで』
普段なら、優しい笑みを浮かべ、ルシェリナに両手を差し出してくれるのに。
何かが違う、とルシェリナの頭の中で、警鐘が鳴る。
あの冷たい瞳は……イリオスが誰も信じず、自分の内に閉じ籠っていた頃と、同じ瞳だ。
そう、出会った頃の三年前と、同じ瞳。
先ほどまで喜びで溢れていた胸に、ドクンと嫌な鼓動が打ち鳴らされた。
「イリオス、様……?」
それでも自分の勘違いかもしれない。
名前を呼びながら、ルシェリナは辛うじて笑いかけようとした。
うまく笑えず、顔が引き攣っている気がする。
声が震える。
どうか、安心させて欲しいと切に願う。
『どうした、体調でも悪いのか?』
『何か、嫌なことでもあったか?』
一カ月までのイリオスなら、きっとそう尋ねてくれた。
けれども、一カ月前には別れを惜しんで愛を囁やき合ったはずの旦那様は、ほんのわずかに表情を動かしただけだった。
──それも、眉を顰める、という形で。
「あの女が、教皇の娘のルシェリナか」
「イリオス様……」
嫌な予感が膨れ上がり、階段の手すりの上に置いた手をぎゅっと握る。
ゴードンが悲痛そうな表情を浮かべ、ルシェリナに報告をした。
「奥様。旦那様が、過去三年分の記憶を失ったとのことです」
「奥様!」
「ルシェリナ様!」
ルシェリナは思わず倒れそうになって、必死で手すりにしがみつく。
ダメ。
ショックを受けては、いけない。
ルシェリナが受けた衝撃を、赤ちゃんがそのまま受け止めてしまうかもしれないのだ。
大丈夫。
関係なら、また一から築けばいい。
お互いのことを何も知らない状態からはじめても、愛し合うことができたのだ。
――でも。
ルシェリナは座り込んだまま、そっとお腹に手をあてた。
この子のことだけは、知られるわけにはいかない。
記憶を失くしたイリオスにとって、子どもは地雷だ。
なんの躊躇もなく、ルシェリナごと斬り捨てようとするだろう。
三年前の彼は、そういう人だ。
知られるわけにはいかない。
「……お帰りなさいませ。ご無事をお祈りしておりました」
「そんな真っ青な顔をして、言われてもな。内心帰って来ないことを期待していたのではないか?」
イリオスが鼻で嗤うように言うと、ゴードンが悲鳴のような声をあげて注意した。
「旦那様、奥様になんということを……!」
三年前、イリオスに注意のできる人物は、既に隠居している彼の義父である公爵と、ハンナという使用人しかいなかった。
だからこそゴードンの言葉に、イリオスは目を丸くする。
「ゴードン、私なら大丈夫」
しかし、赤ちゃんの存在を知られれば、無事ではすまない。
赤ちゃんがいなければ、イリオスとまた一から関係を築いていくことにしただろう。
けれども、彼の子どもを妊娠していると知られた時点で斬り殺される可能性がある、とわかっていながら、イリオスの傍にはいられない。
ルシェリナに駆け寄り身体を支えてくれる侍女や、こちらを心配そうに見上げる使用人たち、そして恐らく記憶喪失だという事情を伝えに来たイリオスの部下たちを見た。
そうだ、今の彼の周りには、彼の身を心から案じる人たちで溢れているのだ。
「イリオス様。もし記憶が戻ったら今の自分を切り刻みたいと思いかねないので、奥様への暴言は控えたほうがいいですよ」
イリオスの腹心である親衛隊隊長のイサクは、肩を竦めながら苦言を呈した。
三年前、イサクのルシェリナへ向ける瞳は憎しみで溢れていたが、今は憐憫の情が強く浮かんでいる。
「は、さすが教皇の娘だな。私の知らない三年間で、屋敷の使用人も、部下ですらも、手玉に取ったのか」
口角を上げて、イリオスは皮肉げに、吐き捨てるようにそう言った。
キリ、とルシェリナの胃が痛み、これ以上はここにいてはいけない、と防衛本能が働く。
「ルシェリナ様、俺が責任を持って、説明をしておきますんで」
「奥様。私たちからも旦那様にお話させていただきます。どうぞ、お部屋で休まれていてください」
ゴードンとイサクが助け舟を出すように声をかけてくれたので、ルシェリナはさっさとその舟に乗り込んだ。
「はい、お願いします。イリオス様、今日はゆっくり休んでくださいね」
お帰りなさいのハグもキスも出来ないまま、ルシェリナは一階へ降りることもできずに、イリオスに背中を向けた。
お腹の子を、彼から守らなければ。
自分やこの子に何かが起きた時、万が一イリオスの記憶が戻ってしまえば、彼は今度こそ壊れてしまう。
「ごめんなさい、イリオス様……」
記憶を失くした彼を一人にしてしまうことは辛かった。
本当は傍にいてあげたいけれども、いつ彼の記憶が戻るかわからないのに、赤ちゃんの存在がバレるような危険は冒せない。
ルシェリナひとりならいいのだが、もうルシェリナひとりの身体ではないのだ。
「あなたも、ごめんね」
イリオスの記憶が戻らなければ、この子が父親に歓迎されることはない。
けれどもこの子はイリオスが過去を克服した結果として、授かった子どもなのだ。
最悪イリオスと離婚することになろうともひとりで立派に育ててみせると、ルシェリナは心に誓った。
***
イリオスとルシェリナの結婚は、敵対している政治のトップである王家と宗教のトップである教皇の融和を、国内外に向けて印象付けるための完全なる政略結婚だった。
イリオスは元々前国王の孫にあたる男だが、前国王が溺愛していた王女は未婚でイリオスを生んだ。
その衝撃的なニュースは内々に処理されたが、貴族間では当初、王女の相手について様々な噂や憶測が飛び交った。
王女はイリオスを妊娠した際に精神を病んだため、穏やかに過ごせるようにと前国王の弟である公爵の領土へ療養で移り住み、そのまま城に戻ることなく出産している。
前国王はイリオスが五歳になった時、王女付きだったひとりの護衛騎士を処刑した。
その護衛騎士こそが王女に乱暴を働いた不届き者ではないかと噂されたが、その直後に王女も亡くなり、王女の死を知った前国王も自害し、真相は闇の中に消えた。
王女の死因は胸に刺さった短剣だったが、傍には王女の血にまみれ肩に傷を負ったイリオスが呆然とした様子で立っていたという。
その後自殺として処理されたものの、その異様な光景を見た人々の口から徐々に、「母殺し」という嘘か誠かわからない異名がイリオスに付いてまわるようになった。
その後、結婚もしておらず子どももいなかった公爵は、城に戻ることのできないイリオスを養子に迎えた。
公爵の後継者として育てられたイリオスだったが、年頃になると、公爵家の後継ぎというだけで言い寄って来る女たちへの断り文句で「この血を残すことはない」と公言するようになった。
そんなイリオスがなぜルシェリナと結婚したのかといえば、国王と教皇がイリオスの断り文句を逆手にとって、「白い結婚でいいから、国のために結婚に応じろ」と迫ったからである。
教皇にとってルシェリナは、子をなさなくても問題のない道具だった。
民に見せたいのは「王家と教皇の和解」という姿勢であって、実際に嫁いでしまえば、権力も後ろ盾もないイリオスの血を引いた子どものありなしなど、どうでも良かったのだ。
それよりも自分の息子たちを宗教という名の下、民を一致団結させるための指導者として各地にばら撒くほうが大事であったし、有益だと考えていた。
そのためルシェリナは、家族からも誰からも期待を寄せられることなく、いるのかいないのかもわからないような、無価値の存在としてただ衣食住だけを与えられていた。
こうしてルシェリナを受け入れなければならない状況に陥ったイリオスだったが、義父と同じく生涯独身を貫くつもりだった彼にとって、当初ルシェリナは目障りな存在だった。
***
イリオスは玄関のすぐ傍にあった執務室に向かおうとして、ゴードンに止められた。
「旦那様、今は執務室の場所が変わっております。こちらですよ」
ゴードンに新しい執務室へ案内され、イリオスは内心、首を傾げる。
同じ一階だが、効率重視とは思えない場所へ移動していたからだ。
「なぜこの場所へ移したんだ?」
「こちらの場所からは、温室がよく見えます。ルシェリナ様は温室にいらっしゃることが多いので、その姿を見るために移されたのですよ」
「そうか。では、元の場所へ戻しておいてくれ」
「かしこまりました」
なぜ過去の自分はそんな愚かなことをしたのだろう、と思いながらイリオスは椅子に座り、今度は違和感に見舞われた。
「机や椅子まで、変えたのか」
長年使用していた机や椅子が新しい物へ変えられており、余計なことをして、と過去の自分に舌打ちしそうになる。
そしてその席から部屋を見回して、イリオスは再び違和感を覚えた。
殺風景だった執務室が、随分と整えられていたからだ。
明らかに自分以外の手が入ったとわかる、部屋作り。
閉め切られていたカーテンで重苦しかった空間が、日の光を取り込んだ優しい空間へ変化していた。
乱雑に置いて誰にも触らせなかった書類が、誰が見てもわかるように丁寧に仕分けられていた。
部下からの報告は立たせてさせていたのに、応接セットが用意されて、執務室を訪れる人へ配慮した造りになっていた。
季節を感じるような花がいくつかの花瓶に生けられ、部屋の中にも小さな癒となる生命力を感じた。
「ゴードン、いつものを頼む」
「かしこまりました」
確かに以前よりは多少居心地が好いかもしれないな、と思い直しながら、ゴードンに飲み物を頼むとイリオスは執務に取りかかる。
「お持ち致しました」
「なんだ、これは」
見たことのない赤い色の温かい飲み物が出てきて、イリオスは目を丸くする。
「これが旦那様の、『いつもの』でございます」
「そうか、わかった」
どうやらこの三年間で、飲み物の嗜好まで変わったようだ。
不愉快な気持ちを抑え、不味かったら文句を言えばいいだけのことだと自分を説き伏せると、ひとまずその液体を一口、口に含む。
「……悪くはない味だな」
それは思っていたよりも酸味は強いものの、後味がさっぱりして頭が冴えるような口当たりのハーブティーだった。
***
「もうこんな時間か」
置時計の音で、ハッと我に返る。
勝手に変更されていて腹を立てた机と椅子だったが、机は以前のものよりも横幅が長くて、資料を並べて置くのに困ることがない。
椅子はより自分の体形にあった物へと変更されているらしく、長時間使用しても疲れにくかった。
そして何より、玄関より遠いところへ執務室を移動したせいか、人が往来する音で集中力が途切れることなく、処理スピードが格段に上がったことに驚いた。
「ゴードン」
イリオスはゴードンを呼び寄せ執務室はこのままでいい、と命じたあと、尋ねる。
「マグリットはどこだ?」
イリオスは三年前ルシェリナを牽制するために屋敷に招き入れた偽の愛人の名前を口にした。
ルシェリナがまだこの屋敷から出て行っていないことを考えれば、恐らく計画は破綻したのだろう。
ならばもう、マグリットを雇い続ける必要はない。
ゴードンは苦笑しながら報告する。
「マグリットなら、旦那様がとうに解雇して、この国から追い出しておりますよ」
「どういうことだ? 何があった?」
聞けば、偽の愛人契約だったマグリットはイリオスをその身体で誘惑しようとしたらしい。
そして、イリオスが一切自分の誘惑に靡くことがないとわかるなり、今度は屋敷の金目の物を勝手に売り払って金を手に入れようとしたそうなのだ。
「マグリットはルシェリナ様に使用人部屋を使わせ、自分が女主人であるかのように振る舞いました。ルシェリナ様は自分の物がマグリットに盗られても文句ひとつ言いませんでしたが、旦那様の母君の遺品をマグリットが売りさばこうとした時には、私たちの前で叱ってくれたのです」
「なんだと!? 私はルシェリナを虐げることなど、指示していない。そもそもなぜ、ルシェリナが公爵夫人用の部屋ではなく使用人部屋をあてがわれた時、私を含めこの屋敷の者は誰も何も言わなかったんだ?」
「それは……ハンナが関係しています」
「ハンナが? なぜハンナが出てくる?」
ハンナは、もともとイリオスの母親の侍女だった女性だ。
母親について公爵領に移ったのだが、イリオスと距離を取ろうとする母親の代わりにイリオスに教育を施した、母親代わりの女性でもあった。
「ハンナは旦那様の信用をいいことに、旦那様をこの屋敷から孤立させていたのです。我々はハンナの話すことを鵜呑みにし、旦那様もまたハンナのことを信じていました。そのため、旦那様も私も、ルシェリナ様が自ら望んで旦那様の部屋とは遠い部屋を選んだと勘違いしていたのです」
ハンナは自分の子を亡くし、イリオスに執着していた。
イリオスを大事にする一方で長い間「この屋敷で本当の味方は自分しかいない」と言い含めて洗脳しようとし、イリオスと自分の間にほかの人間が介入することを厭った。
「今、ハンナはどうしている?」
「ハンナは実家に戻っています。二度と公爵領に足を踏み入れないことと、旦那様の前に姿を現さないことを約束して」
「そうか」
イリオスは、イスの背もたれにぐっと寄りかかって額に手をあてた。
ルシェリナが嫁いでくるもっと前から、ハンナの自分に対する執着心にはなんとなく気づいていた。
反抗期に入り避けるようにはなっていたが、それでも追い出さなかったのは、母親代わりとしてずっと小さな頃から見守ってくれていたからだ。
自分を大事に思っている気持ちが伝わってくるからこそ、無碍にはしなかったのだが。
しかしどうやら、もっと早く追い出すべきだったようだ。
「私が今まで旦那様に色々と申し上げなかったのは、ハンナがいたからです。しかしそれは間違っていたのだと、屋敷の者全員が、ルシェリナ様に教わりました」
イリオスの記憶にある限り、イリオスは「母殺し」という噂のせいで、使用人たちから怖がられているという話をハンナから聞いていた。
だから極力関わらないようにしていたし、必要最低限のやり取りしかしないようにしていたのだが。
「事情は大体わかった。ゴードン、これからも色々教えてくれ」
「かしこまりました」
ゴードンが嘘をついている、もしくはルシェリナに唆されている可能性もあった。
しかし、イリオスにはゴードンの話が真実であろうことが、屋敷の気配で感じていた。
無表情だった使用人たちはみんな笑顔で、本当に同じ屋敷に戻ってきたのかと眉を顰めたほどだ。
それは三年前のものより、圧倒的な幸福感で満たされていた。
***
「旦那様。もしお許しをいただけるのならば、私はアリゾーノス地方へ移り住みたいと思うのですが」
通夜のような夕食を摂る中で、ルシェリナはイリオスに切り出した。
アリゾーノス地方は、公爵領の中でも過ごしやすい穏やかな気候で、活気に溢れた地域である。
ゴードンやほかの使用人たちが動揺する中、イリオスは「お前がどこにいようが、私には関係ない。好きにすればいい」と突き放すように答えた。
しかしルシェリナは怒ることもなく、「ありがとうございます」とただ頭を下げる。
ルシェリナとイリオスは深く愛し合っていた、と親衛隊隊長のイサクから聞いていたイリオスは、自分に縋ることなくあっさりと引き下がるルシェリナを見て、なんとなく腹立たしい気持ちが沸き上がった。
「教皇のところへ戻ってもいいが、離婚はしない。また再婚を迫られても面倒だからな」
少し意地悪な気持ちでそう尋ねれば、ゴードンとイサクが同時に血相を変える。
「旦那様!」
「イリオス様!」
「私には帰るところがないので、その心配には及びません」
ルシェリナは苦笑しながら口元を拭い、「本日はあまり体調が優れないため、お先に失礼いたします」と言って席を立つ。
三年前のイリオスは、ルシェリナが蝶よ花よと大切に育てられた一人娘であると思っていた。
だから「なぜあんなことを言ったのです?」と二人に責められても意味がわからなかったのだが、ルシェリナの事情を知って理解した。
母親に望まれなかった自分と、教皇に見限られていたルシェリナ。
もしかしたら、互いの似たような境遇に、仲間意識が芽生えたのかもしれない。
その夜イリオスが自室へ向かうと、寝る前の習慣にしていた剣の手入れの道具一式が見当たらなかった。
「どこへ移動したんだ?」
「申し訳ありません、ただ今取って参ります」
使用人は慌ててイリオスの寝所を出ると、閉め切っていたはずの扉を使って、夫婦の寝室へと入って行く。
「奥様からのご指示でこちらの部屋の掃除はいつもよりしっかりとしておいたのですが、物の移動を失念しておりました」
「……待て。それはつまり、普段は夫婦の寝室で寝ていたということか?」
「はい、おっしゃる通りです。一年ほど前からずっと夫婦の寝室をお使いになっていたので、旦那様がこちらの部屋を利用されるのは久しぶりです」
「そうか」
「それで、ルシェリナ様が休まれる時にお使いになっていた香をイリオス様も好んでお使いになられていたのですが……本日はどういたしますか?」
「必要ない」
「かしこまりました」
イリオスは額に手を当てながら、使用人を下げさせる。
どういうことだ。
母から疎まれ続けたこの血を残すことになるかもしれない行為なんて、この私がするわけもないのに。
やはりあの女は、清廉潔白そうな仮面を被った、悪魔なのか。
もしくは、禁断の黒魔術でも使っているとか。
イリオスは今すぐにでもルシェリナに問い詰めたくなる衝動を懸命に抑えながら、落ち着け、と自分に言い聞かせた。
そしてイリオスにとって、穏やかな時間である剣の手入れをしながら、思考を巡らせる。
イリオスの記憶にあるのは、黒魔術使いの女の最期の言葉だ。
『私の最愛の息子を殺したお前に、同じく最愛を殺される絶望を味わわせてやろう』
そう言いながらイリオスに黒魔術をかけ、絶命した、とある貴族の母親。
その後イリオスは、不眠不休で自分の屋敷に戻った。
イリオスには、自分以外に愛する存在なんていないはずだった。
いやそもそも、自分のことですら、愛せないのに。
なぜそんなに急ぐのかわからないまま屋敷に戻って、ひとまず義父である前公爵の無事を確認した。
そして、自分が過去三年間の記憶を失ったことを知った。
「結局あの黒魔術は、失敗に終わったということか」
ルシェリナを愛していなかったから黒魔術が成功しなかったのだろうし、愛していたならば彼女が死んでいなければおかしい。
ルシェリナと深く愛し合っていた、というイサクやゴードンの話は眉唾物だ。
マグリットと契約したように、恐らくそう見えるようルシェリナと何か取引をしたのだろうとイリオスは考えた。
「どのみち、あの女は明日にはアリゾーノスに行くんだ。もう関わることもないだろう」
母親からすら、愛されなかったのだ。
そんな自分がほかの誰かから愛されることはないだろうし、誰かを愛することもない。
「近寄らないで」「化け物」「あんたなんて、生みたくなかった」「おぞましい血が流れてる」
これらはみんな、イリオスが母親から投げつけられた言葉だ。
いつも、母恋しさに近寄る幼い息子を怯えた目で見ては、震えていた。
母親が正気を保った時には優しく抱き締めてもらったこともあるが、それも両手の指で数えられるくらいだ。
五年間一緒に住んでいてもらったプレゼントはただひとつ、「あなたの身を守るものよ」と言われて首にかけてもらった、古臭いネックレスくらいで――。
イリオスはそのネックレスに指先で触れ、ぴたりと固まった。
ネックレスペンダントであった楕円形の虹色の石が酷くひび割れ、破損していたのだ。
「古いものだったからな。気づかない間に、壊れたか」
首から外して、ベッド脇の引き出しにそっとしまう。
古いネックレスが壊れただけだ。
もう自分は、こんな物に一喜一憂する年ではない。
「薬を頼む」
「薬、でございますか……?」
使用人を呼んで普段飲んでいる薬の手配を命じれば、まだ仕事に就いて新しいのか、怪訝な顔をされた。
どうやら三年の間に睡眠薬も飲まなくなったらしく、準備がないらしい。
仕方なくイリオスは寝酒を頼み、多めのアルコールを摂ってから、床に就いた。
三年前は不眠症だった彼が眠ったのは、起床する三時間前だった。
***
ルシェリナがアリゾーノスに移り住んで、一年後。
無事に生まれた息子はすくすくと成長してもう四ヶ月。
首も座り感情表現が豊かになって、愛らしさ満点で周りの大人を笑顔にさせてくれる存在だ。
ゴードンの計らいで幸いにも侍女と使用人がつけてもらえ、不自由ない生活の中で安心して出産に挑むことができた。
公爵の妻、という身分は伏せているものの、近所の人たちもたまにやってくる高貴そうな馬車や騎士たちの姿に、なんとなく元の身分は高いのだろうと思いながらも、ルシェリナとは普通に接してくれている。
しかし彼女の家の前に、公爵家の紋章のついた馬車が堂々と停まっている時は、さすがに空気を読んで、誰も近付かない。
「ルシェリナ様、イリオス様が屋敷に戻るようにと、おっしゃられています」
「イサク、本当に心苦しいのですが、お断りいたします。旦那様の記憶が戻られるまで、私は戻りません」
守るべき我が子を抱きかかえた母は、やはり強い。
ルシェリナは柔らかく微笑みながらも絶対に引かない様子で、イサクの伝言にあっさりと返事をする。
「まあ、そうですよね。イリオス様にも毎回、そう伝えてはいるのですが……」
夫婦の間に立たされたイサクは肩を竦めながら、それでもルシェリナが抱きかかえる赤子の愛らしい様子に相好を崩した。
「若様も、ちょっと見ない間にぐっと大きくなりましたね」
「ええ、本当に目が離せません。この子に何かあれば、旦那様の記憶が戻った時一番辛い思いをするのは、旦那様なので」
「はい、俺もそう思います。それではまた、近況を伺いに参りますね」
「いつもごめんなさい、イサク。どうか旦那様を、お願いします」
丁寧に招かれざる客を見送る母子にイサクは頭を下げ、今度も空の馬車を連れて、帰途についた。
――それから、一週間後。
「ルシェリナ」
「……っ、イリオス様……!」
いつも通り、息子を抱えて近所を散歩して戻ってきたルシェリナは、いるはずのない人間から声をかけられ、ビクリと身体を硬直させた。
イリオスの横には、目で謝罪をし続けるイサクの姿。
どうやら毎回同じルシェリナの返答に痺れを切らして、止める間もなく自ら乗り込んできたらしい。
「ルシェリナ様」
優秀な侍女がルシェリナの腕の中からさっと子を預かると、そそくさとその場を辞する。
「今の子どもは、なんだ。すっかり家の中が子ども仕様になっているようだが、囲った男とでも一緒に暮らしているのか?」
自分の子どもであるとは微塵も思っていない揶揄するような言葉に、まだイリオスの記憶が戻っていないことをルシェリナは痛感する。
ここで「そうだ」と言ったほうが息子は安全だなんて、皮肉な話だ。
万が一にもイリオスの子どもだなんて言ってしまえば、最悪斬り殺されてしまう。
「諸事情により、子どもを預かっているのです」
それでもイリオス以外とそういう行為をしたと思われたくなくて、ルシェリナは睫毛を落としながらそう答えた。
「ほう? 私はなんの報告も受けていなかったがな」
そして、片眉だけ上げて冷笑したイリオスを見て、ルシェリナは慌てて話題を変える。
「それよりここには、どんなご用でいらしたのでしょうか?」
「夫が妻に会いに来ただけなのに、何か都合が悪いことでもあるのか?」
「いいえ、とんでもございません。ただ急なことでしたのでおもてなしができず、心苦しいだけです」
そう答えながら、単純なものだ、とルシェリナは自分を評価した。
子どもの安全さえ確保されれば、結局自分は、イリオスのことが好きなのだ。
こうして会えて、少し疲れていそうなものの元気そうな姿を見ることができて、嬉しくてしかたがない。
頭を下げるルシェリナをじっと見て、イリオスは「少し二人で話がしたい」と告げる。
「はい、わかりました。イサク、近所の店は貸し切れますか?」
「この家から私を追い出したい、と言っているようにしか聞こえないのだが」
「滅相もありません。ただ、部屋が狭いので……」
「狭くていい。お前の部屋に案内しろ」
「わかりました」
ルシェリナは使用人に茶の準備を指示すると、イリオスを私室へ案内した。
私室と息子の部屋を分けておいて良かったと、ほっと安堵の溜息が漏れる。
「随分と物が少ない部屋だな」
離婚をしていないため、公爵の妻としてもっと贅沢をしていると思っていたイリオスは、通された部屋に愕然とした。
それはいっそ、質素と言ってもいい部屋だった。
「ですから、人を出迎えられる部屋ではないと申し上げたのです。それではどうぞ、ご用件をお話くださ……イリオス様、お母様の形見はどうされたのですか!?」
他人のようによそよそしい態度を取っていたルシェリナだったが、イリオスの胸元にペンダントがないことに気づくと、眉を顰め、表情を曇らせてイリオスに尋ねた。
「……お前は、あれが母の形見だと知っているのか?」
「はい。以前、イリオス様から教えていただきましたから」
「そうか。以前の私はお前に、どこまで話した? どこまで知っている?」
「その前に、どうかお約束していただきたいのですが」
「なんだ」
ルシェリナはすう、と息を吸い込み、じっとイリオスを見つめる。
「どうか、イリオス様にとって人に知られたくないことを私が知っていたとしても、自分の望んでいないことが起きていたとしても、殺さないで欲しいのです」
「……ああ、いいだろう」
つまりは、かなり深いところまでルシェリナは知っているのだ。
ルシェリナの懇願は真に迫っていて、必死であることが伺えた。
恐らく望んでいないこととは閨のことだろうと、イリオスも真剣な表情で頷き返す。
しかし、それに対するルシェリナの返事は、意外なものだった。
「私ではありません。さきほど見た、赤子を殺さないで欲しいとお願いしています」
「自分ではなく? ……わかった、殺さないと約束しよう」
不審に思いながらも、イリオスは約束を交わす。
ホッとしながら、ルシェリナはイリオスの疑問に応えた。
***
「イリオス様があのペンダントをお母様から譲り受けたのは、お母様が自害する直前です」
ルシェリナは話しながら、ちらり、とイリオスの様子を窺う。
「……続けろ」
「望んでいなかった子を授かったお母様は、心の病にかかられていました。成長する息子を受け付けられず、いつもその憎しみをイリオス様にぶつけていらっしゃいました」
「ああ、それで?」
「五歳の時、体調の良かったお母様は、イリオス様を庭園に呼びました。しかし、仲睦まじいご様子に安心した使用人が席を離した瞬間、お母様はイリオス様への殺意を明確にして、左肩に短剣を刺しました。……その傷は今でも、イリオス様のお身体に残っています」
「そうだな」
しかし、イリオスの母にもわかっていたのだ。
子どもに、イリオスに罪はないことを。
だから、憎しみと愛しさの間を行ったり来たりして、苦しんだ。
憎しみのままに短剣を突き刺し、痛みに顔を顰めながらも悲鳴ひとつあげようとしないイリオスの表情に我に返り、慌てて自分が身に付けていた護符の効果のあるネックレスを「あなたの身を守るものよ」と言って渡した。
「イリオス、ごめんなさい。私はあなたを愛さなければならないのに、憎くてたまらないの。憎くてたまらないのに、愛したいの。苦しくて、弱くて、ごめんなさい」
そして……いつか本当にイリオスを手にかけてしまうかもしれない自分を止めたくて、イリオスを刺したその短剣を引き抜いて自分の胸に刺し、その場で自害したのだ。
自殺と正しく処理されたのに、イリオスは「母殺し」という汚名をそのまま訂正することはなかった。
実際に自分が手を下していなくても、自分のせいだと思っていたからだ。
「イリオス様は、一年前の依頼で何か、危険な目に遭われたのですか?」
ルシェリナは、心底心配しているような様子でイリオスに尋ねた。
「いや、追い詰めた術師から黒魔術をかけられたのだが、失敗に終わって……」
イリオスは途中で説明をぴたりと止め、ルシェリナは目を瞬かせる。
「ルシェリナ。先ほどお前はあのペンダントのことを、護符の効果がある、と言ったか?」
「はい。イリオス様は気づいていらっしゃらなかったのでその時に説明しましたが、お母様の形見のペンダントは神力が宿っていました。身に付けている者の危機の際、身代わりになってくれるのだと思います」
「身代わり……」
あのペンダントが身代わりになったとしても、人を呪い殺すほどの黒魔術には耐えられなかったのかもしれない。
ということは、愛する人を殺されることはなくても……愛する人の「記憶を」殺された可能性はあるのかもしれない。
「ルシェリナ。知っているだろうが、私は記憶を、取り戻してはいない」
「はい。存じております」
ルシェリナには、イリオスの視線ひとつ、態度ひとつで彼の気持ちが手に取るようにわかる。
記憶を失うまでのルシェリナを見つめるイリオスの瞳は、とても甘かった。
そして今のイリオスの視線と態度は、歩み寄ろうとしてくれた頃と同じに思えた。
「これからも恐らく、私がこの三年間の記憶を取り戻すことはないだろう」
「……っ、はい……」
ルシェリナは零れそうになる涙を、ぐっと堪える。
護符が壊れるほどの危険な任務に就いていながら、命があっただけでも良かったではないか。
そう思わなければならないのに、二人の思い出を共有できないことが、ルシェリナを愛していたイリオスが消えてしまったことが、辛くて堪らなかった。
「しかし、これからはお前……君と、その三年分以上の思い出を一緒に作っていきたいと考えている」
「え?」
イリオスの口から出た言葉とは思えず、ルシェリナはパッと顔を上げる。
ずっとルシェリナが傍にいたなら、まだ理解できる。
しかし、今のイリオスとは一年前に一度顔を合わせたきり、全く会っていなかったのに。
そんな夢のような話を、信じられるわけがなかった。
「あの……そう思われた理由を伺っても、いいでしょうか?」
何か裏があるのかと思いながらおずおずとルシェリナが尋ねれば、イリオスは頷きながら呟く。
「屋敷の中……いや領土中に、君の存在をひしひしと感じるんだ」
睡眠薬は、ルシェリナと一緒に寝るようになってから常備しなくなったという。
そう聞いて、一度試しにルシェリナが好んでいた香を焚いて寝たら、寝つきも睡眠の質も驚くほど良くなった。
ゴードンやイサク、使用人たちはしょっちゅう「奥様が」という言葉を口にするし、また休憩時間などに話している話題も大抵アリゾーノス地域へ移り住んだルシェリナを心配したり気に掛けるような話だった。
「君が屋敷の人員や福利厚生を見直したお陰で、三年前にくらべて随分と風通しのいい職場になったと聞いた」
ハンナを辞めさせたことだろうか、と思いながらルシェリナはイリオスの話に耳を傾ける。
自己肯定感が低く思ったことを上手く口にできなかったルシェリナが変われたのは、イリオスのお陰だった。
イリオスはマグリットの話を鵜呑みにせず、ルシェリナの拙い説明を根気よく聞いて、状況や証拠を集めてどちらの話が本当かを見極めてくれたのだ。
この人なら、ひとまず思い込みではなく一度は自分の話を最後まで聞いてくれる。
そう思ったからこそ、勇気を出してハンナの話もすることができた。
記憶を失えば最悪ハンナを呼び戻すこともあるだろう、と覚悟していたが、どうやらゴードンやイサクの口添えで過去を繰り返すことにはならずにすんだようだ。
「領土の視察へ回れば地方を任せている下級貴族から必ず君の様子を聞かれるし、こんなに姿を現さないなんて大病を患っているのではないか、と心配される始末だ」
「まぁ、皆さんが」
公爵領土内の、直轄地以外の重要拠点は、下級貴族が治めている。
ルシェリナが嫁いでから半年過ぎた頃からずっと、三ヶ月に一度の領土視察にルシェリナも同行していた。
圧の強いイリオスには言えない話もルシェリナには話しやすかったらしく、いくつかの地方の問題を解決したこともあった。
その中でもアリゾーノス地域を担当する下級貴族は特にルシェリナに好意的で、今回ルシェリナが住むところの手配もすぐに対応してくれたのだ。
「勝手な話だと理解した上で、君にお願いする。もう一度私に、君の傍にいるチャンスを与えてくれないか?」
そこかしこに、イリオスの知らないルシェリナという人間の気配がする。
それは、イリオスを戸惑わせるにも、興味を惹くにも、充分だった。
今まで通り食事をしても、ふと空いた席を眺める自分がいた。
屋敷に帰れば、無意識に二階を見上げてしまう。
執務を早く終わらせたいと思うのに、その理由が見当たらない。
温室に人影が見えれば、必ず誰か気になってしまう。
そしてずっと……なぜだか喪失感が、拭えない。
イリオスの訴えに、ルシェリナは泣きたくなった。
心のままについて行くことができれば、どれだけ幸せなのだろう。
「君が気にしているのは、あの赤子のことか?」
イリオスの言葉に、ルシェリナは目を見開いてパッとその顔を見上げた。
「わざわざ殺すなとお願いするほどだ、あの赤子が大切で離れたくないのだろう? 一緒がよければ、連れて来てもいい」
「……本当に、良いのですか?」
イリオスの記憶が戻らなければ、これからずっと自分だけで成長を見守っていくのだと覚悟していたルシェリナの瞳にじわ、と涙が浮かぶ。
「その赤子の出来が良ければ、養子にしたっていい。どうせいつかは、養子を貰うからな」
ルシェリナはきゅ、と涙を拭うと、「あの赤子には、まだ仮の名前しかつけていないのです。どうかイリオス様が、つけてくれませんか?」とお願いした。
「わかった、考えておこう」
二人は主室に移動し、その後のルシェリナの帰宅について、イサクや侍女や使用人も交えて話し合った。
出て行った時はほとんど荷物を持たなかったルシェリナだったが、赤子である息子の荷物は多い。
結局荷物は持って行かずに公爵邸で一式買い揃えておくことに話は纏まり、ルシェリナたちはその一カ月後にはアリゾーノス地域から領都へと戻って来た。
***
「……男ならミカエル、女ならアンジェラだ」
帰りの馬車の中のイリオスの言葉に、ルシェリナは泣きそうになりながら何度も頷く。
ルシェリナが呼んでいた息子の仮の名前も、ミカエルだった。
それは二人が閨を共にするようになり、子どもを持つことに前向きになったイリオスがぽつりと呟いた、子どもの名前だった。
「ゴードン、みんな、ただいま」
ルシェリナが屋敷に到着すると、その帰りをみんなが満面の笑みで出迎えてくれた。
「奥様、お帰りなさいませ。おお、そちらが話に伺っていた、赤ん坊ですか」
そう言ったゴードンはすっとルシェリナの耳元へ顔を寄せて、こそりと呟く。
「ようやく若君をこの目にすることができて嬉しいです。色彩は奥様そっくりですが、造作は旦那様にそっくりですな」
「やっぱりゴードンもそう思う? 私もそう思うわ」
改めて母子を迎え入れた公爵邸は一層の賑わいを見せ――それから、一年後。
ぽてぽてと歩くミカエルは、目的地まで辿り着くと、ぎゅっとそれにしがみついた。
「はは、歩くのが上手になったな、ミカエル」
自分の足にしがみついた子どもをひょいと抱き上げ、イリオスは微笑む。
一年前は抱っこの仕方もわからず、顔を紅くして大泣きする赤子の存在に戸惑うだけだったイリオスは、すっかりミカエルの一番の遊び相手として認定されていた。
きゃっきゃと喜ぶミカエルを何度か高く持ち上げると、自分の片腕の中にすっぽりと収めて、イリオスは歩き出す。
「うま、うま」
「馬はまだ早い。もう少し大きくなったら、一緒に乗ろうな」
そんな二人の姿を見て、二人が親子であることを疑う者はいない。
そしてそれは、本人とっても、同じことだった。
その日の夜、最近使うようになった夫婦の寝室で、イリオスは緊張しながらルシェリナに尋ねる。
「ルシェリナ、ひとつ聞きたいんだが」
「はい、なんでしょうか、イリオス様」
「ずっと思っていたんだが。ミカエルは、私たちの息子に違いないよな?」
「ええ、そうですね。息子同然に可愛がっていただけて、本当に感謝しています」
「いや、そうではなくて。私と血が繋がっているのではないか、という話だ」
「……なぜそう思われるのですか?」
一生懸命訴えるイリオスに、ルシェリナは警戒と喜び半々という複雑な気持ちを抱えて、聞き返した。
「可愛くて仕方がないからだ。ついでに顔も、私の幼い頃にそっくりらしいしな」
似ているから、というより可愛いから、という理由が先にくることに、ルシェリナの胸は温かくなる。
「もし実子だとしたら、どうするおつもりです?」
「どうもしない。ただ君に、お礼を言いたい。あんなに可愛い子を産んでくれて、ありがとうと。それと……一番大変な時に傍にいてやれず、すまなかった」
「隠していたことを、怒らないのですか?」
「怒るわけがない。聞かなくても、君が隠していた理由は想像つく。むしろルシェリナが、怒ってもいい立場だろう」
ルシェリナは、ぐっと唇を噛み締めて、泣くのを堪えた。
「私のことだけ、忘れてしまいましたからね」
意地の悪い言い方だとわかっていても、一番大変なのは本人だったはずだと理解していても、愛し合っていた頃のように優しいイリオスには、どうしても甘えてしまう。
「ああ、そうだ。やはり君のことだけ、どうやっても思い出せないでいる」
イリオスは懺悔の気持ちを込めて、そんなルシェリナをぎゅっと抱き締めた。
「しかしきっと、何度忘れても、私は君を愛するんだ」
「もう……二度と、忘れないでください」
ルシェリナは私も愛している、という気持ちを込めて、ぎゅっとイリオスを抱き締め返した。
そして二人は一度見つめ合い――どちらともなく、口付けたのだった。




