フェイの一番苦手な人
朝方の街には霧が薄く広がっている。まだまだ肌寒い季節だからか、人通りもまばらだ。
そんな街角に店を構えるカフェ『三毛猫堂』も例に漏れず、開店してからまだ客は来ていなかった。
(今日は午前中までオーナーはいないし、昼まではなんとか一人で回さないと。……今日は寒いから、温かいものがよく売れそうね)
三毛猫堂の学生バイト――フェイ・ミラーは、皿やカップを温めながら店の外を眺めていた。
客のいない間というのは本当に暇だ。もうすぐテストが近づいていることもあって、暇な時間には勉強を進めておきたいが、バイト中にそんな事はできない。
かといって、他の店員と世間話をする、というのも、神経を使うためかなり疲れる。それを思えば、一人で暇な時間をぼーっと過ごす方がまだマシだ。
そんなことを考えながら、手持ち無沙汰に食器についた水滴を拭き取っていると、カランカラン、と来客を知らせるベルが鳴った。
手に持っていたカップと布巾をそっと置いて、入り口へ視線を向ける。
(ああ、またこの人……)
心の中でうんざりしながら、それを表には出さないように、にっこりと笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ。お一人でよろしいですか。好きな席を選んでください」
「おぉ」
流れ作業のようなフェイの台詞に、無愛想な返事を発しながら、厨房から一番遠いボックス席へ、のしのしと歩いていく。
動きやすそうな白いシャツと紺色のズボンを身につけた彼は、爽やかな服装とは裏腹にとても凶悪そうな見た目をしていた。体躯もかなり大柄で、全身が筋肉で包まれており、その辺の騎士では到底彼には敵わないだろう。
(本当に、いつ見ても同じ学生とは思えないわね)
近寄りがたい雰囲気の彼は、フェイと同じ『レゾッロ学園』に通っているジークという名前の騎士見習いだ。名字は知らない。
文官コースに所属しているフェイには、滅多に顔を合わせる機会はない。それなのに、フェイが彼を苦手とする理由は、これまでにいくつかあった。
初めてその存在を認識したのは、去年の夏、学園の食堂でのこと。
生徒がごった返して座る席が見つからずに彷徨っていた時、ジークの向かい合わせの席が空いているのを見つけ、座ってもいいかと聞いたのだ。
しかし、返ってきたのは、苛立たしげな舌打ちと「好きにしろ……」という台詞だった。
突然向けられた負の感情に驚いたフェイは、違う席を探すという行動に移ることが出来ず、そのまま彼の向かいに座ってしまった。
一度座ってしまった手前、再び別の席に移動することが何だか間抜けのように思えてしまって、結局居心地の悪さを感じながら、昼食を食べきったのだ。
それから暫くはジークとの関わりはなく、この昼食事件の事も忘れていたのだが、半年ほど前、つまり今年の夏頃から、彼がこの店にやって来るようになった。
最初に店員として接客した時も、最初に舌打ちをかまされ、とげとげしい言葉をいくつも投げかけられたのだが、今では口を挟む間もないほど滑らかに定型文を言い切り、案内することで、文句の数は激減している。
それでも注文を取る時や、会計の時には、毎回フェイの働きぶりを勝手に評価して文句を付けていくのだが。
毎回のように長々とメニュー表を眺めているジークの様子を、厨房の奥で時々確かめながら、「あと三時間であがり、あと三時間であがり」と心の中で呟いた。
***
バイトが終わったあと、フェイは寮の自室に引きこもって、授業の課題や予習に追われた。勉強とバイト漬けの週末が過ぎ去り、再び授業が始まる。
フェイは学園に入学してから二年間、ずっとこんな生活を繰り返してきた。
週明けの昼休み。
次の授業は様々なコースの生徒が集まる合同授業が行われるため、フェイは数少ない友人二人と校内を移動していた。
「ね、二人とも。今度のお休みの日、お芝居でも観に行きません? 試験前ですし、お勉強の息抜きに!」
「まぁ、いいですね。是非行きたいです」
「フェイさんは?」
きらきらした瞳が二対揃ってこちらに向けられる。
「あ……ごめんね。今度の試験はどうしても良い成績を取らないといけないから、今まで以上に勉強しないといけないの。だから、お芝居は二人で楽しんできて」
フェイがそう言うと、二人は揃って肩を落とした。
「それは、残念ですね」
「私、もうチケット三枚分買ってしまったわ。どうしましょう!」
残念そうにしてくれる二人に申し訳なく思うが、それと同時に自分の心が温かくなるのを感じた。
こんなお金持ちのお嬢様たちが、フェイのような貧乏苦学生と仲良くしてくれるだけでも信じられないのに、こうして色々なことに誘ってくれる。
お金にも時間にも余裕がないため、あまり誘いに乗れないのだが、フェイはそれがとても嬉しかった。
(最初の頃は、お金持ちで性格悪くて、どうせ私をからかって遊んでるだけだと思ってたけど。あの時悩んでたのが馬鹿みたい)
フェイがそうしみじみと浸っていると、遠くの方がにわかに騒がしくなった。
ざわめきは徐々に大きくなり、男子たちの賑やかな話し声が聞こえてくる。
ちらりと目を向けると、重そうな鎧を上半身だけに身に着け、模造刀を持ち歩いている集団が見えた。
あれは、騎士コースの生徒たちだ。きっと、外で行う模擬授業の帰りなのだろう。
「あら。騎士見習いの方たちだわ。格好いい……」
「男らしくて素敵ですね。フェイさんもそう思いません?」
うっとりしたように呟く二人を余所に、フェイはその集団に目を凝らしながら、気もそぞろな様子で返事をした。
「……そうね。素敵ね」
「やっぱり、皆、そう思ってましたのね!」
心ここにあらずなフェイに気が付くこともなく、二人はあの中の誰々が特に格好いいという話を始めた。
だが、フェイはその会話に混じらずに、只々じっと誰かを探すように視線をさまよわせている。やがて、彼女の視線は一点に縫い付けられた。
(このまま歩いていったら確実にあの人と鉢合わせる……。ここは一旦離脱しないと)
フェイの視線の先には、三毛猫堂の口うるさい常連――ジークがいた。彼と顔を突き合せるのは、バイト先だけで勘弁してほしい。
「――でも、次の授業は他のコースの方たちとの合同授業ですし、騎士コースの方々もいらっしゃいますわよね。もしかしたら、お近づきになれるかもしれませんわよ!」
「そうなったら、いいですねぇ……」
まだ話し続けている二人にフェイは声をかける。
「ごめんね。私、今日中に図書室に返さないといけない本があるの。だから先に行ってて」
「あら、そうですの」
「分かりましたわ。また後で」
あっさりと了承した二人に背を向けて、フェイは早足でこの場を立ち去った。
図書室は彼らがいる方と全くの逆方向に位置している。だから、絶対にすれ違うことはないし、丁度鞄の中に返そうと思っていた本が入っているのは事実だから、全くの嘘というわけではない。
返却期限は今日ではなく、明後日までだけど。
ひとまず、廊下の角を曲がってから、校内の地図を頭に思い浮かべる。次の授業に間に合うように、そしていかにも図書室に寄ったかに見えるように、どんなルートを通るべきか。
そんな一見下らない、けれど彼女にとっては重大な計画を練っている時には知る由もなかった。
合同授業のペア課題という、フェイにとっての地獄が待ち受けていることを。