舞踏会デビュー
舞踏会ってとっても楽しそうだわ。綺麗なドレスを着て、目一杯おめかしして、それはそれは豪華な会場で、そして素敵な男性が私に見とれて声をかけるの。一緒に踊ってくれませんかって。彼にリードされて私は優雅に踊るわ。そして2人は燃え上がるような恋に落ち……。
やばい。興奮してきた。
これから訪れる未来の妄想を膨らませるリーシェは今夜が舞踏会デビューなのである。彼女は宮殿へと向かう馬車の中、虚ろな顔で天井を見ている。時おり、「はっ」とか「いや」などと脈絡のない独り言をつぶやいていた。
付き添っている父親が初めての舞踏会に不安がっているのではと心配になって、リーシェに声をかける。
「大丈夫だよ。今夜の君は誰にも負けないほど綺麗さ」
「へえ……へへ……」
父親はリーシェを褒め上げたり、会場での振舞いについて話しかけるのだが、リーシェはずっと上の空で返事をするばかりであった。
馬車が止まってドアが開いた時になってリーシェは正気を戻した。父に支えてもらって馬車を降りると、目の前は宮殿の入り口へと続く大きな階段であった。見上げた階段の先にそびえ立つ宮殿は威圧を感じるほどに豪壮な外観だった。中央のドーム状の屋根が天を突くように伸び、左右には聖人のレリーフを刻んだ重厚な柱が視界の限りに並んでいる。
リーシェは途端に不安な心持ちになった。何せ宮殿に入るのだって初めてなのだから。宮殿に入ったなら、上流階級に相応しい振舞いをせねばならない。それに宮殿には先輩の紳士淑女が集まっている。リーシェは宮殿に見とれている内に、こんな豪華な場に自分は相応しいのかとだんだん気が弱くなっていく。
父はリーシェの手を取って、「行こう」と言って歩みだす。リーシェは少し反応が遅れていささか引きずられるように父についていく。リーシェは足元に気を配りながら階段をのぼった。自分の身をまとう水色のドレスのふわりと膨らんだ裾から、白く艶のある小さな靴が見えた。
今日の衣装はリーシェが母と一緒に相談して決めたものだった。特に靴は母が薦めたもので決めた。
それは母が舞踏会デビューした時と同じ色と型の靴なのだ。母はリーシェと同じようにダンスが苦手だった。母はその靴を履いた瞬間に不思議と勇気が湧いてきて、自信を持って臨めば舞踏会では一度も転ばなかったとリーシェに教えてやった。デビューの夜、一曲だけ一緒に踊った父の方が下手っぴで二回も転んでいたと聞いてリーシェは笑ってしまった。
リーシェは階段の途中で一度立ち止まって父と目を合わす。父がリーシェを注意深く眺めて言う。
「大丈夫かい。リーシェ」
「ええ。舞踏会、とても楽しみだわ」
父は娘の明るくなった表情を見てとって、安心するように微笑んだ。
二人は宮殿に入り、王との謁見に臨んだ。謁見の間には王と王妃が壇上にある玉座に腰掛けており、代わる代わる来賓と挨拶をしている。
絶対にミスしてはいけない場面である。しかし100回以上は練習したことでもある。リーシェは汗ばむ手で父の手を強く握って順番を待った。
リーシェの番がまわってきた。先に父が挨拶をし、家名とリーシェの名を告げる。リーシェは王の表情を見るのが怖いので、口周りの立派な白い御ひげの本数を数えながら父と王のやりとりを聞いていた。父がリーシェに挨拶を促すと、リーシェは一歩前に出て、片膝を曲げてお辞儀をする。自邸を出発する前にだって20回繰り返した動作だ。そして自分の名を王に告げた。
王からは軽く労いと賛辞の言葉を受け取って、リーシェは下がった。
謁見の間から出ると、リーシェと父はシンクロして深い溜息をついた。二人は目を合わせて吹きだして笑い合う。
そして二人はいよいよ舞踏会場に向かう。会場に近づくにつれオーケストラの演奏が聞こえてくる。テンポの良いワルツだ。リーシェは自然と歩くのが早くなって、父がおいていかれないよう慌てる程だった。
会場の前で父とはお別れになる。父は「楽しんでおいで」と言ってリーシェを送り出した。
会場に入るやリーシェは思わず息を飲んだ。広い会場の至るところに舞い揺れるきらびやかな衣装があった。回転してドレスの裾が広がる様子は正に大輪の花の美しさだった。
見上げるてみれば、天井の全面に描かれた絵画であった。神話にある天空の世界を描いたそれは、複雑で繊細、金色や銀色や玉虫色が惜しげもなく用いられている。
天井の中心からはとびきり大きなシャンデリアが吊り下がっている。無数のロウソクが光り揺らめき、装飾のガラス細工が光を散らして煌めいている。
リーシェはお誘いを待っている女性たちの一団の中に歩いていく。すると幼い頃からよく知った年上の友人を見つけた。友人と目が合って、互いに名前を呼び合い、リーシェは友人に近寄る。その友人も他の女性に負けじ劣らず綺麗だった。リーシェと同じように髪を薔薇の花を模したヘッドドレスで飾っていた。リーシェが友人を褒めようとするより前に、友人が目を見張って感嘆の声を上げた。
「まあ。とても綺麗よ、リーシェ。驚いたわ」
「そんな。あなたの方が綺麗よ」
「みんなあなたを見てるわ」
友人が周囲に目を配りながらそう言うので、リーシェが首を回して左右を見ると、幾人かの女性と目が合った。みなリーシェの美しさに対する賞賛や羨望の眼差し、またはリーシェの初々しさをにこやかに見るものであった。
彼女らに会釈を返している内に、一人の男性がリーシェに歩み寄った。リーシェは男性に気付いて彼と向かい合った。男性はリーシェに向かって背筋を伸ばしてから、正しい姿勢で丁寧にお辞儀をした。
「私と踊っていただけませんか」
リーシェはかーっとほほが熱くなるのを感じた。
彼は目鼻立ちのはっきりした華やかな男性だった。全て後ろに流した金色の髪がとても上品に感じられた。
リーシェは体中が固まってしまった上に、言うべき言葉が浮かばないでいた。瞳だけが無意味にきょろきょろするのだった。男性をしばらくお辞儀させたままにした後、やっと口が開いた。
「えっと。今会場に着いたばかりですので、しばらく休ませてください」
男性は姿勢を直して、にこやかにほほ笑んだ。何かを飲み込むようにして一泊空けてから、「さようですか。失礼します」と言って去っていった。
リーシェはうつむいて溜息をはく。すると隣にいた友人がリーシェに興奮気味に言う。
「あの方、伯爵家の令息よ。それにとっても素敵だったじゃない」
「あはは。少し飲み物を頂いてからにしようかと思って」
リーシェはその男性が決して気に入らない訳ではなかった。ただ心の準備ができていないだけだった。悪い事をしたかななどと思っている。
リーシェは気を取り直して、友人が紹介した女性などと話をして会場の雰囲気をつかむよう努めた。
話していた女性との会話が途切れ、会場を見渡していた時だった。一人の男性が一直線に自分の方に向かっているのが目に留まった。まだ距離があるうちから二人はしっかりと視線が重なった。男性は落ち着いた茶色の髪をナチュラルに横に流していた。近づくにつれて顔がはっきり分かる。引き締まった快活な容姿であるが、どこかあどけなさを残している。自然とリーシェも彼の方に歩みだした。すると彼は恥ずかしそうに視線を斜めに外したが、リーシェはそんな彼から目が離せなかった。
二人が十分に寄って向き合うと、彼はお辞儀をして言う。
「一緒に踊っていただけませんか」
リーシェも膝を曲げてお辞儀をする。
「喜んで」
彼がしなやかに手を差し出し、リーシェがその手に自分の手を乗せた。
二人は他のペアらに混じって踊っていた。リーシェは片手を伸ばして男性の手に預け、もう片方は男性の型に乗せている。男性は片方の腕をリーシェの腰に回している。男性は初々しいリーシェを気遣って周囲よりもゆったりとした動きで、左右に揺れる程度の慎ましいダンスをするのであった。
リーシェにはそのリズムが心地よかった。彼の世辞に笑みで返したり、優しい言葉にうなずきで返したリ、シェンデリアを見上げてみたり、目を閉じて胸の高鳴りを抑えたり、彼の瞳を眺めてみたりした。
曲のテンポが一転して上がると、男性がリードして二人のステップが大きくなり、会場を広く舞い歩いた。めまぐるしく人波を縫うようにして舞った。オーケストラの演奏に煽られるようにリーシェの心が躍る。リーシェは人波に触れないようしばしば周囲に視線を向けるのであった。リーシェよりも大きく華麗に舞っている友人と目が合うと、彼女はとても陽気で楽しそうにリーシェに目配せをした。リーシェも同じ表情をしていた。
男性はそんなリーシェにずっと気を配っている。リーシェは彼と目を合わす度にそれを確認していたのであった。
リーシェのステップがわずかに乱れるのを男性は見て、ダンスを続けながら人波からリーシェを離して、出口へと連れて行った。
一緒に休息をしようという彼の申し出にリーシェは頷き、二人は腕を組んで会場を出て、バルコニーへと向かった。
星空の下で、興奮を冷ますに程よい風を感じ、舞踏会場の旋律を遠くに聞きながら、二人は言葉を交わし合った。
彼は隣国の外交官であった。そして明日には国に帰ってしまうという話をした後、二人の会話は途切れた。
彼はしばらく目線を星空に向けていた。リーシェは彼と同じように星空を眺めて彼に尋ねた。
「何を考えておられますか?男性は政治やお仕事の事をよくお考えになりますわね」
「いいえ。あなたを見た時からずっとあなたの事しか頭にありませんよ。今日のあなたは会場で最も輝いていました」
リーシェは恥ずかしそうに微笑みながら、困ったように眉を下げた。
「ただ、この夜が終わるとあなたにはもう会えないのだなと考えておりました」
リーシェは彼の言葉を噛みしめる。彼は真剣な表情でこう言う。
「初めての舞踏会のあなたに出会えた事を心から光栄に思います。どうか一度きりのこの夜を大切にお過ごしください」
リーシェは彼の意を悟ってから少し思い悩んだ後、彼の面前に立って、強引に視線を合わせた。
「今夜はあなたと過ごしたいのです」
「本当に私でよろしいのですか」
「もちろんです。さあ、もう一度一緒に踊りましょう」
リーシェは彼の手を引いて歩み出した。
二人はまた腕を組んで華やかな舞踏会へと戻っていくのであった。
<了> 蜜柑プラム
芥川龍之介「舞踏会」のオマージュ作品です。
読んでくれてありがとう。