第百二話 静謐(せいひつ)の婿取り
「なるほど。東の大陸へ渡るのか。長旅になるな」
「はい。レオン法王からの依頼でもあるので、しばらくお会いできなくなると思います」
「うむ。確かに君の勇名は、トラネスでも聞くようになってきているよ。それが外洋を越えて伝わっていたんだな」
実力と名声が伴ってきた愛弟子に、目を細めたいイットウサイであったが、ユリと約束したあのことを今言い出したものかと、少し困ってもいる。イットウサイはしばらく練成場の天井を見上げてそのことを考えていたが、意を決したようだ。
「ではしばらくの別れの前に、一晩ここでゆっくりして行きなさい。心尽くしを用意しよう」
「ありがとうございます。感謝しきれません」
「うむ。で……その前に俊也君。君に話があるんだが、俊也君がここで鍛錬していた時に自由に使っていた、私の家の部屋で少し待っていてくれないか?」
「はい。わかりました」
「ありがとう。稽古場を片付けたらすぐに行くよ」
清廉潔白を主としている俊也は、「どういうお話でしょう?」とイットウサイに聞きもしない。その愛弟子の態度を見た師は、かえってバツが悪い気がしたが、努めて表には出さなかった。傍で一連の話を聞いていたユリは、父イットウサイと俊也を見て、乙女心に祈っている。
ここでの修行で半月ほど自室として休息を取るのに使った静謐の一室は、柔らかく優しい空気で俊也を迎え入れてくれた。彼は懐かしい部屋から見える庭景色をまず眺めている。夏のエネルギーがまだまだ草いきれから感じられると共に、秋への移ろいも少しずつ見えていた。
「修行から、そう時間が経ったわけでもないけれど、とても懐かしく感じられる」
一人、小さな声でつぶやいた後、俊也は座禅を組み、瞑想を始めてみた。鈴の修行を思い出しているのだろう。そのおさらいも兼ねて心を落ち着かせているのだが、彼にとってこの部屋から受ける静けさが、心身共にとても心地よい。
静謐の一部となり師を待っていると、静かな足音がゆっくり近づいてきた。
「待たせたね。入るよ」
「どうぞ」
お互い短く応じると、引き戸が音もなく開き、イットウサイが入る。師と愛弟子は、お互い顔をしばらく見ていたが、それだけである程度会話が通じ合ったようだ。二人はそれを自然なものとして、気に留める様子もない。
「娘のことだよ」
「そのようですね。話を伺います」
(私としてもこの子を婿として取れれば……)
俊也の目は無垢である。下心が幾ばくかある分、イットウサイはその後の言葉が発しにくい。