第二章 隣の芝生は青く見える③
最寄り駅まで走ったせいでちょっと汗をかいてしまった。
そういえばもうすぐ夏だなぁ。ハンカチで軽く汗を拭きながら、そんなことを考えた。
クロガミくんといえば、同じだけ走ったはずなのに、汗一つかかず涼しい顔をしている。
これじゃ私が汗っかきな女みたいでちょっと恥ずかしい。
「災難だったな」
「ほんとだよぉ……なんなのあの人たちぃ……」
自己中心的で失礼極まりない。あんな人たちがいるから真面目に仕事してる記者さんも白い目で見られたりするんだよ。
「でも大声を上げたのは良い手だったな」
「元カレにストーカーされたことがあるんだぁ。他にもいろいろ危ない目に遭いそうになることもあって……あれが一番手っ取り早い対処法だからぁ、よく使うの」
「よく使うって……そんなに頻繁にあるのか?」
「もしかしてぇ、心配してくれてるのぉ?」
からかうようにクロガミくんの目を覗き込んだ。こうすると大抵の男の子は目を逸らしてちょっと赤くなる。そして冗談めかしながら、肯定してくれるんだぁ。
「心配するに決まってるだろ」
予想通りの言葉が返ってくる。だけどクロガミくんの蒼眼はまっすぐと私を見ていた。
それだけが、私が知っていることと違う。
「そ、そぉ? ありがとねぇ。でも昔の話だから大丈夫だよぉ」
「そうか。何かあったときは教えてくれ。力になろう」
「さっきみたいにぃ?」
「さっきみたいに」
「かぁっこいいー。じゃあ頼っちゃうねぇ」
クロガミくんの手を両手で握って私は喜んで見せた。
顔色や反応こそ他の人と違うけど、口にする言葉は今までの男の子とあまり変わらない。ほとんどは見栄から出た言葉で、実際にそういう場面になると何もできない人ばかりだった。
クロガミくんはどうかな? 少なくともさっきは助けようとしてくれた。ユーキのときも率先して動いてくれた。そして助けてみせた。
なんだか期待しちゃいそう。
「クロガミくん、これから時間ってある?」
「二、三時間なら構わない。夜に予定があるからそれまででいいか?」
夜の予定ってなんだろう。気になる。
「もしかして彼女さんとデート?」
もし彼女がいたら大変だ。略奪愛はやる気が出ちゃう。
「いや、俺に特定の相手はいない。ただの仕事だ」
「お仕事?」
学生なのに働いている? 一瞬、疑問が浮かんだけど、彼の腰にあるものを見て思い至った。
「狩人のお仕事かぁ。それって危ないのぉ?」
「それなりにな。場合によっては死ぬ。上等な銃器が流通している『アルカディア』では狩人の死亡率は低いが、それでも死ぬときは死ぬ」
「危ないのになんで学生やりながら狩人をやってるのぉ? 安全なお仕事なんてたくさんあるでしょぉ?」
「いろいろ事情があるんだ」
はぐらかされてしまった。聞けばなんでも答えてくれるわけではないらしい。秘密の一つや二つ誰にでもあるけど、気になる男の子のことを知りたいと思う気持ちはまた別だ。
「教えてくれないのぉ?」
瞳を潤ませて上目遣いでお願いしてみる。さらに彼の手を握ったまま胸元に寄せるコンボ。
「教えない」
「どうしてもぉ?」
今度はもっと身体を寄せて彼の胸に手を添えながら。甘ったるい声でキスをせがむように。
「どうしても」
「むぅ、けちぃ」
秘密を教えてもらえなかったことよりも、ちっとも動揺しないクロガミくんの態度が不満だった。手から伝わってくる彼の鼓動は至って普通。
ガードが固くて全然通じない。これは手強そうだ。
彼女がいないということがわかっただけでも良しとしよう。
「じゃあちょっとセンター街に遊びに行こうよぉ。私ちょっと買いたいものあるんだぁ。男の子の意見も聞かせてほしいなぁ」
「いいけど俺で参考になるか?」
「ならなかったらならなかったでいいよぉ。何事もチャレンジだよぉ?」
クロガミくんも男の子である以上、女の子に興味ないはずがない。たくさん押せばきっとガードも緩くなるはず。女として負けるわけにはいかないのですよ。
挑んで挑んで、最後の一回だけ勝てば私の勝ちだ。