第一章 知らなかったこと、知ったこと⑩
「夕姫を放せ」
獣じみた悪意が私を蹂躙しようとしたとき、そんな声が響いた。
ゲイルたちの笑い声がぴたりと止まる。
声のした場所を見れば、訓練場の入口に白髪蒼眼の青年が立っていた。
「ひ、かる……くん」
どうして輝くんがここに来たのかはわからない。だけど彼が来てくれたという事実に、ぼろぼろと涙が溢れてきた。
ゲイルたちも輝くんの姿を認めて、何度目かもわからない悪意の笑みを浮かべた。
「なになに? ヒロインのピンチに駆けつけたヒーローってやつ?」
「ひゅう、クロガミくんカッコいいーっ」
小馬鹿にして挑発されても、輝くんは全く意に介さず、ただ淡々と告げる。
「三度は言わないぞ。夕姫を放せ」
「は? なにお前調子乗ってんだよ。いつもブルって何もできない雑魚が、女の前だからってかっこつけてんじゃねぇよ」
輝くんの不遜な態度がゲイルには不愉快だったらしい。ゲイルは私から離れると、見せつけるようにナイフを指先で弄びながら輝くんに近づいていった。
「ムカつくわぁ、その態度。ちょうどいいや。お前とカグラってデキてんだろ? 自分の女が玩具にされるとこをそこで黙って見とけよ」
輝は何も言い返さない。無言でゲイルを睨み続けている。
「んだその目は? なんか文句あるなら言ってみろや。弱虫のクロガミくーん?」
ナイフの腹で輝くんの頬をぺちぺち叩く。反撃してくるわけがない。そう考えているのが露骨に表れている。
輝くんはゆっくりと口を開いた。
「三度は言わないと言ったぞ」
まるで虫でも払うかのような無造作な動きで、輝くんはゲイルを殴り飛ばした。
ゲイルの身体がゴム鞠のように床を跳ねる。数度のバウンドを繰り返しながら、壁の緩衝材にぶつかってようやく停止した。
「害が及ぶのが俺だけだったなら黙っていられたが、俺の友人に手を出すなら話は別だ」
輝くんの口から友という言葉を聞いたのは初めてかもしれない。彼がそう思ってくれていた嬉しさと来てくれたことへの安堵でさらに涙が溢れ出た。
輝くんが一歩前に出る。蒼眼が取り巻きを睨みつける。
いつもと違う輝くんの様子に怯んだのか、私を抑えつける力が緩んだ。
「あっ!?」
その隙を突いて私は拘束を振り解く。もつれそうになる足をなんとか動かして、形振り構わず輝くんのところまで走った。
輝くんは私を背に庇ってくれた。
「悪い。まさか今日の今日でこんなことになるとは思っていなかった」
輝くんが謝ることじゃないのに。こうなったのは私が自分で招いたことなのに。
なのに輝くんはここに駆けつけて、こうして私を守ってくれている。
もう限界だった。私は輝くんの背中にしがみついて、嗚咽を漏らしてすすり泣いた。
「もう大丈夫だ。あとは俺に任せろ」
こくこく。何度も頷く。彼の背中がとても大きく感じる。
「くそがぁ! お前ら何してる! 魔術でも何でもいいからそのクソ野郎をぶっ殺せ!」
激怒するゲイルの咆哮を浴びて、取り巻きたちが魔術を放った。この学園で習う基礎中の基礎。圧縮した魔力を放つだけの魔力砲撃。八人分のそれが私たちに向けて一斉に放たれた。
基礎魔術と言えども込められた魔力量によっては殺傷能力を持つ。直撃すれば無事では済まない。
私はぎゅっと目を閉じた。
「法則制御――対魔障壁・単一展開」
轟音。だけど痛みはなかった。恐る恐る目を開ければ、蒼く輝く【対魔障壁】が八人分の魔力砲撃を防いでいた。
それもたった一枚で。
「これくらいの魔術なら、俺の技量でも十分か」
ぽつりと漏れた輝くんの呟き。
「一人で全部防ぎやがっただと!? いや、そもそもこいつは魔術が使えないんじゃなかったのか!?」
輝くんは魔力を体外に出せないと言っていた。体外に魔力を出せないなら術式を構築できても魔術は発動できない。
だけど輝くんは【対魔障壁】を発動させた。
「術式兵装を介して魔術を発動している。それだけだ」
輝くんの腰にある機械のようなもの。彼がそれに手をかけると形が変わった。
機械仕掛けの大きな鎌。その鎌からカシュンという音がしてガラス筒のようなものが飛び出す。中身は空。だけど赤い水滴がわずかに残っている。
その赤が血の色であることは一目でわかった。
「血から魔力を抽出してるの?」
「正解だ夕姫。魔力を含む俺の血が入ったシリンジを装填して、機械鎌を通して魔術を発動している」
確かにそれなら魔力を体外に放出できなくても魔術を発動することができる。
輝くんは手にした機械鎌をゲイルに向けた。
「は、ははははっ!」
なにがおかしいのか、ゲイルは大きな声で笑い出した。この状況で笑う意味がわからず、私だけじゃなくて彼の取り巻きも何事かと目を丸くしている。
「なるほどなるほど。御大層な武器を持ってきたから強気になってんのか。けどお前馬鹿だろ!」
勝ち誇ったように指を指す。意味がわからない。
「その鎌の刃は本物だよな!? 一定の長さ以上の刃を持つ武器の携行は狩人しか認められていない! そんなもんを持ち出した時点で法律に反してるんだぜ! 俺たちが訴えれば罰せられるのはお前だ!」
なんて理屈だろうか。自分たちだって犯罪行為をしたくせに、輝くんのことだけを責めるなんて。
ゲイルの取り巻きの一人が機械鎌を持つ輝くんを撮影している。それを証拠にするつもりだ。
「なら訴えればいい。自分たちの正当性を主張するのは万人に認められている権利だ。もちろん俺もな」
輝くんは懐からカードを取り出した。そこには輝くんの顔写真が載っており、さらにはこう書かれている。
狩人ライセンス認定証。
「俺は狩人だ。武器を携行することに何も問題はない」
それはいままで誰も知らなかった事実だった。みんな絶句し、私も驚きのあまり金魚みたいに口をぱくぱくさせていた。
しかしゲイルは引き下がらなかった。
「だ、だがお前は俺をそれで殴りつけた! それは暴行罪だ! このことを学園に伝えれば退学処分に追い込むことだってできるんだぞ!」
「機械鎌で殴った覚えはないが、まあ訴えるなら好きにしてくれ。だったら俺は身の潔白を証明するだけだ」
「はっ、お前が機械鎌を持ってるところはもう撮ってんだ。どうやってやるってんだ!?」
「あれを使うだけだよ」
輝くんは天井を指差した。その先にあるのは訓練風景を記録するためのカメラ。
あれには私がゲイルたちに襲われていた様子が記録されているはずだ。輝くんの正当性を証明するには十分だと思う。
私が泣き叫ぶ姿が他人の目に触れるのは恥ずかしいけど、輝くんの潔白が証明されるならそれくらい我慢できる。
「ばぁか! この部屋の記録装置はカグラがここに来る前に全部電源を切ってんだよ! あれにゃなんにも残ってねぇよ」
ゲイルは輝くんを愚かだと揶揄した。
輝くんはそれを受け、大きなため息をつく。漏れ出た吐息には呆れ果てたという感情が混じっていた。
「そんなものここに来る前に電源をつけて来れば良いだけだろ。ほら」
輝くんは自分の携帯端末を取り出して動画を再生した。そこにはゲイルたちの犯罪行為が映像と音声で鮮明に記録されている。
言い逃れのできない決定的証拠を突きつけられて、勝ち誇っていたゲイルの顔から余裕が完全に消え去った。
「く、くそがあああああああああああっ!」
自棄になったゲイルが輝くんに魔力砲撃を放つ。
先ほどと同じように輝くんは【対魔障壁】でこともなく防いだ。
「それと、夕姫が受けた痛みを少しでも味わっておけ」
機械鎌が駆動し、シリンジから吸い上げた魔力を使って術式を起動。
蒼い魔法陣。上がっていく回転数と溢れ出す輝きから、相当な魔力が込められていることが見て取れる。
「法則制御――魔力圧縮・一点解放」
ゲイルの魔力砲撃とは比較にならない。蒼い一条の光が放たれた。標的から逸れた場所に着弾。緩衝材を破壊し、それに伴う轟音と爆風を巻き散らして、ゲイルを木の葉のように吹き飛んでいく。
「ひ、ひいっ!?」
破壊された緩衝材を見て、ゲイルはほうほうの体で逃げ出した。いまの光景を目の当たりにした取り巻きたちも、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
「ちょっと待て」
逃げ出そうとする女子二人を輝くんが捕まえた。私を携帯で撮影していた二人だ。
「携帯端末を出せ」
二人は怯えながら携帯端末を差し出した。輝くんはそれを放り投げ、機械鎌で真っ二つにしてしまう。
「次はないからな」
輝くんが凄むと二人は涙目で何度も頷いた。転びそうになりながら逃げ去っていく。
訓練場に残っているのは私と輝くんだけになった。
「終わったよ、夕姫」
そう言われて、止まりかけていた涙がまた溢れてきた。
終わった。輝くんが終わらせてくれた。全部解決してくれた。
「うう、うええええええんっ」
反動でもう抑えが利かない。子供みたいに私は大声で泣いた。泣き出した私を心配して駆け寄ってきてくれた輝くんに飛びつく。
「怖かった! 怖かったよおおおおぉっ! わ、わた……私もうちょっとで……う、うあああああん!」
「俺のせいで怖い目に遭わせてごめんな」
「そーだよおおおっ。結局、輝くんが全部自分で解決しちゃったじゃん! 私要らなかったじゃん! いっぱい悩んで、勇気出して、輝くんの味方になるって決めたのにいいいぃっ! 自分で解決できちゃうならもっと早くやってよおおおっ!」
「す、すまない……」
「すまないじゃないよおおおおおっ」
もっと気の利いたことを言ってよ! 怖いのによく頑張ったねとか。心配してくれてありがとうとか。私が報われるようなことを言ってよ!
「夕姫」
輝くんが名前を呼んでくれる。私はぐすぐすしながら彼を見上げた。
優しい色を宿した蒼い眼が私を覗き込んでいる。
「俺は笑っている夕姫が好きだ。だから、泣かないでくれ」
「す――っ!?」
なんでそんなこっぱずかしいセリフが言えるの!? 真正面からそんなことを言われたせいで顔から火でも出てるんじゃないかと思うほど熱くなってる。
見つめ合ったままお互いに無言になってしまう。輝くんはちっとも赤くなってない。いつもと変わらない顔。
私ばかり恥ずかしいところを見られているからとても悔しい。
後ろから、誰かが駆け寄って来る足音が聞こえた。
「ユーキ!」
「ユーキぃ!」
名前を呼ばれて振り返ると、リナちゃんとソフィアちゃんが飛びついてきた。二人にもみくちゃにされる形で、輝くんと一緒に倒れこんでしまう。
「ごめんねぇごめんねぇ。ユーキが危ない目に遭ってるのに、なんにもできなくてごめんねぇ」
「あたしもだ。ユーキが連れていかれたとき、見てることしかできなかった。友達なのに、ごめんな」
「二人とも……」
泣きながら謝罪を繰り返す。そんなにも自分を責めてしまうほど、私のことを心配してくれたことがわかって、嬉しくなってしまう。
「ソフィアが連絡をしてくれたんだ。だからすぐに引き返して来れた。ソフィアから連絡を受けてなかったかと思うと正直ぞっとするよ」
「そうだったんだ。ありがと、ソフィアちゃん」
「だってぇ、私ぃ……ひっく……そ、それくらいしか、できな……」
「それでもだよ。ありがと」
「うううぅ……」
泣き顔を見られたくないのか、ソフィアちゃんは顔を埋めたまま上げようとしなかった。
「とりあえず、どいてくれないか? さすがに三人は重い……」
リナちゃん、ソフィアちゃん、そして私。女子と言えど三人分の体重がのしかかっていては確かに重いだろう。
「ご、ごめんね輝くん。いまどくから。ほらっ、二人とも立って」
「重いのはぁ、ユーキのせいー。ねぇ、リナちゃん」
「だなー。あの特大パフェを一人で三つも食えばそりゃ」
「ちょっ!? たしかに食べたけど、そんなすぐ体重に変わりませんーっ!」
「いいから早くどいてくれ……」
一向にどこうとしない私たちに、下敷きになっている輝くんが呻く。
私は自分から動こうとはしなかった。
胸に当てた耳から聞こえる彼の鼓動。触れた肌から伝わる彼のぬくもり。
この時間を、もう少し感じていたかったから。