恋する令嬢に余裕などない
ちらっと出てきた、サーエ・ラ・モビィディック侯爵令嬢と、ラーシュ・ラ・ホエール公爵子息の話。
一章、大夜会の後の婚約者の二人です。
サーエが婚約者と顔を合わせたのは、サーエが10の時だった。
婚約者は主家の跡取りで、二つ年上。名前をラーシュ、と言った。
成長期の二歳差は、サーエにとってラーシュをとても大人びて見せた。
既に騎士としての鍛練を積んでいた彼は、体つきもしっかりとして、とても同じ『こども』には見えなかった。
その姿、その姿勢に、サーエは幼いながら心惹かれた。今振り返れば、一目惚れだったと言って良い。
それ以来、サーエはラーシュと、良い関係を築けている、と思う。
ラーシュは、19 になった今では騎士団に籍を置き、弓の名手として既に名を馳せている。
百年に一人の逸材とも言われているとか。そんな噂を聞くたび、サーエは誇らしい気持ちと劣等感で複雑になってしまう。
誇らしいのは、ラーシュが認められていること。
劣等感は、自分がその彼にふさわしいと胸を張れないことだ。
サーエは、ごく普通の侯爵令嬢である。家は兄が継ぐ予定で、だから早々にサーエの婚約が結ばれたのだ。
相手が主家、公爵のホエール家嫡男だったのは、年齢とタイミング以外にない。
サーエにはそれがわかっている。
選ばれたわけではなく、ちょうどよかったからだ、と。
それでも、サーエは彼にふさわしくありたいと思った。
刺繍や、ダンスや、礼儀作法で恥をかかせ無いようにと勤めた。
ただ。
ラーシュが、第一王子殿下の側近の一人であったから。
彼らの婚約は未だ当事者二家の間だけの話だった。
王子の婚約は、ギリギリまで明かされない。相手を絞り込ませないために、側近たちの婚約も伏せられる。
そのため、サーエは表向き未婚の令嬢である。もちろん、ラーシュも。
二人で出掛けることは難しい。
お互いの家を行き来するのも。
なんとか折り合いを付けて、郊外に出るとか、別々で出掛けて偶然を装うとか。
はたまた、茶会で落ち合うとか、主家と貴下の侯爵家としてのやり取りに紛れ込ませるだとか。
そうするしか出来ない。
出来上がったイニシャル刺繍のハンカチだって、迂闊に渡すことは出来ないし。
自分だけが、彼を好きなのではないかと不安になるのだ。
手紙だけは、紛れやすいのでこまめにやり取りしているけれど。
まだ。
お慕いしていると、書いたこともない。書けない。そんなことは。
そんな日々を、送っていた。
それでも良いと言い聞かせながら。
大夜会で、あの人が、ミノルカオル様と踊るまでは。
動揺を隠すためにはしゃいで、同じ侯爵家令嬢のプリムに、お見合い舞踏の言い伝えを話したけれど。
本当は。
本当は。
「誰でも良いならわたくしを、『選んで』いただきたかった」
夜会の終わり際、一人壁によりかかって溢した愚痴は、誰にも聞かれず喧騒に溶けるはずだった。
けれども。
「誰でもいいわけないだろう」
隣に不意に現れた声に、サーエは目を見開いた。
「ラーシュ、様」
焼けた肌の偉丈夫が、穏やかに笑んで立っている。
「素敵なご令嬢を壁の花にするのは惜しい。どうか俺と一曲、踊っていただけますか?」
いたずらっぽく笑う彼に、サーエはただ、喜んで、とその手を取った。
お見合い舞踏の後ならば、ただの遊戯と見てもらえるだろう。
きっと彼も分かっている。
だから手を引かれてホールに出て。
ホールドされたときの耳元で。
「本気だからな」
と囁かれたのは。
サーエにとって計算外だ。