安全と安心
「不安を解消するための行為はやめましょう」「安心を求めるより安全を求めましょう」というのが主題です。
安心したいという心は悪徳業者につけ込まれて心身を損ねたり経済的な損害を被る隙になります。
■安心とは
心配に思ったり恐怖するなどの気掛かりな事が無く心が落ち着き安んじることを指します。
これは当人がどう感じるかが全てであって客観的な尺度は存在しません。
同じ状況でもある人は安心していてある人は不安を感じるというのは普通のことです。
■安全とは
安全には被害を受ける可能性がない『絶対安全』と、仮に被害を受けてもそれは許容できる『安全』という概念があります。
『安全』というと『絶対安全』を思い浮かべるかもしれませんが、何をするにしてもゼロリスクという事はありえないので『絶対安全』はこの世には存在ない幻想です。
なので「許容できないリスクがない」状態を安全といいます。
許容できるリスクの範囲は何なのか、またそれは誰の許容範囲なのかなど色々ありますが、安全にはグラデーションがあってざっくり言うと「リスクがほとんどない安全」から「ほとんどの人が気にしない程度のリスクしかない安全」や「重大な被害がでるリスクはあるが利益と秤にかけて専門家が慎重に行うことによって確保する安全」といったものがあります。
最後の物はどこが安全だと思われるかもしれませんが、医薬を思い浮かべてください。
病気や怪我の治療に使う薬はある意味では毒でもあるので、処方せずに済むならそれに越したことはありません。
しかし「処方しなかったときの被害」と「処方したときの治療効果と副作用」などを勘案して処方するしないやどれだけの期間や量を処方するかを医師や薬剤師といった専門家がコントロールする事でリスクの低減を計るのを前提として『安全な医薬品』としているのです。
実は自動車とか電気とかもそうで、免許が必要となるものはだいたいそうだと思ってもらえば大過ないと思います。
安全基準というものがありますが、安全基準の定義は「許容可能なまでにリスクを低減するための規制基準」です。リスクを取り除いているのではなくあくまでリスクの低減なので安全基準を満たしていても被害を受けることはあるのです。
■安全と安心
安全というのはある程度は客観的な評価が可能ですが、安心はどこまでいっても個人の内心なので客観的な評価は不可能です。
つまり『安全』であっても『安心できない人』はいますし、『危険』であっても『安心する人』はいます。
安全と安心はそれぞれ別の物ですので大雑把に分けると「安全で安心」「安全で不安」「危険で不安」「危険で安心」の四つの状態が存在します。
■安全で安心
これは全く問題ありません。
■安全で不安
不安と向き合い現実をきちんと理解して安全であると判断して不安を解消するというのが正道ではありますが、誰もが何に対してでもできる事ではないでしょう。
筆者も得意分野の中の極々一部ならともかく、大部分の事象についてこうできる自信はありません。
不安を煽る者は詭弁を弄してでも現状が危険であると主張します。
よくある言説としては「リスクの存在だけを取り上げ、リスクの大きさについては言及しない」というものがあります。故意に事実の一部を言及しないことで思考を誘導するわけです。
どんな事柄にもリスクは存在しますのでリスクの存在だけでは何の価値もありません。
そのリスクの大きさが許容できない大きさなのか否かが重要なのです。
起きたときの被害の大きさは声高に叫ぶのにそれが起きる頻度に言及しないものは何の価値もない言説と考えてください。
発生したら致命的になる事でも発生確率が限りなくゼロであるならばそれに心を煩わせるのは文字通り『杞憂』です。
また「可能性」という言葉も悪意を持って便利使いされる言葉の一つです。
天地開闢以来一度たりとも起きなかった事象でも次の瞬間に起きない保証はありませんので、発生確率は限りなくゼロに近くてもゼロではない、つまりは可能性はあるという事です。
〇パーセントや一〇〇パーセントと断言できるのは数学などの閉じた論理上の存在ぐらいで、どのようなものであっても可能性は限りなく〇パーセントから限りなく一〇〇パーセントの間のどこかにあります。
可能性があるというのならそのパーセンテージと確度(及びその根拠)まで出さなければ意味がありません。
どのような事でも起きうる可能性があるので誠実で有能な専門家(特に科学者)ほど断言しません。
誠実で有能な専門家は分からないことは「分からない」と言い、研究途中のものは「まだ研究中なので申し上げられない」と言ったり「仮説の段階ですが」と前置きします。
憶測や願望や先入観で話さないのです。
誠実で有能な科学者は、効果がある可能性が限りなくゼロであっても「効果は無い」とは言わず「効果は確認できなかった」と言います。
なぜなら無い事を証明するのは悪魔の証明と同じく証明不可能だからです。
ですから「効果は確認できなかった」というのを「効果があるかもしれないがそこまで試していない」などと受け取ってはいけません。
「効果は確認できなかった」を「効果が無いとは言っていない(つまり効果はある)」という詭弁を使う者はたくさんいますので騙されないでください。
「効果は確認できなかった」は「効果は無い」と受け取ってください。
誠実で有能な専門家の言説は、はっきり言わないし訳の分かんない難しい話ばっかりで不安が解消されないどころか逆に不安が募ると感じるかもしれませんが、悪党はそこを突いて自信に満ち溢れた威勢のよい言説を弄するのです。
自分の不安を代弁してくれているかのような耳障りが良い悪党の言説に踊らされないようにしましょう。
踊らされるとどんどん状況が悪化していきます。
■危険で不安
危険なので不安になるのは不思議ではありません。
ですが危険な状態のまま安心しようとするのは意味がありません。
危険に対して保険を掛けたりして損害が小さくなるような方策を実施したり発生確率や発生回数を減らしてリスクを小さくしていき、許容できるレベルまでリスクを下げる努力をするのが理想です。
しかし、所詮は理想なのでできる場合もあるかもしれませんが、たいていは個人だと難しいです。
自分の手に負えない危険に対してできる事は諦念して折り合いをつけるか、危険を解消しようとする他者の足を引っ張らないことが大事です。
不安を根拠に誠実で有能な専門家の邪魔をしたり不心得者を後押しする事は危険な状態を長引かせる事にしかなりません。
■危険で安心
こんなことってあるのだろうかと言うと事例は沢山あります。
一つは危険であると知らずにいることです。
これについては危険を認識している人が教えてあげればそれですみます。
厄介なのは危険な状態のまま安心しようとしたり、安全なのに不安から逃れるために自ら危険な状態にしてしまう事です。
そして悪徳業者が鴨にするのが不安から逃れられたと安心している人達です。
というか悪徳業者は不安につけ込んでこの状態に持っていくのです。
一度この状態に持っていけたらしめたもので、次々と不安にさせれば骨の髄までしゃぶれます。
こちらには中々打つ手がありません。
不安から開放されて安心しているので聞く耳を持ちませんし、よしんば騙されたと薄々気付いても騙された自分を認められず正当化をはかろうとします。
これが当人だけの被害で済むならともかく、自分に被害が及ぶとなると全力で逃げるぐらいしかできません。
■不安を解消できるのは本人のみ
究極的には不安はその人の内心でしかありません。
ですから不安を解消できるのは不安を感じている本人にしかできません。
他者がどうこうできる事ではありませんし、他者が責任を負うべき事でもありません。
不安になる事が駄目なのではありませんが、不安を根拠にしたお気持ちヤクザにはなって欲しくありません。
どれだけ許容可能な筈のリスク――人が生きていく上で普通にあるリスクより小さいリスク――しかなく安全だと幾ら説かれても、ゼロリスクの絶対安全という幻想を求める者は納得しません。
また、不安であり続けてくれた方が都合が良い勢力は詭弁を弄してでも「安全であるという言説は嘘である」と主張しますので不安からなかなか脱却できません。
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今回駄文を上げようと思ったのはCOVID-19絡みで次亜塩素酸での手指の消毒や酷いケースでは噴霧という危険な行為で安心感を得ようとする事例が多数確認できたからです。
色々事情はあるのでしょうが、害しかない事は止めていただきたいと思います。
特に噴霧は危ないのです。
殺菌などの効果が期待できる濃度で噴霧していたら呼吸器障害は起きるでしょうし下手すると死にます。
空気中の濃度が殺菌力が期待できない低濃度でも一時間もいたら数日間は深呼吸すると肺が痛くなる状態になります。
もしそうならないのでしたら有効成分が霧散してしまった只の水や塩水を噴霧しているだけです。
次亜塩素酸ナトリウムは危険だけど次亜塩素酸水は次亜塩素酸ナトリウムとは別の物質ですという無知なのか詭弁なのか判断が難しい言説も見かけます。
次亜塩素酸ナトリウム水溶液の噴霧は危険 → 正しい
次亜塩素酸水と次亜塩素酸ナトリウム水溶液は別の物質 → 正しい
確かに正しいことしか言っていませんが、この二つから次亜塩素酸水の噴霧が安全であるという結論を導くのは論理の飛躍です。
次亜塩素酸水の噴霧は次亜塩素酸ナトリウム水溶液の噴霧と同等以上の危険があります。