第555話
泡にまみれて睦み合っていると、浴室の扉が開いた。俺は慌ててレリアに抱きつき、その美しき裸体を隠した。
「あら、楽しそうでよかったわ」
「お母さん!」
浴室に入ってきたのは、ナタリア様であった。ナタリア様であるなら、レリアのお母上であるし、レリアの身体を隠す必要もないか。いや、寧ろ裸で抱き合っている姿をこそ、見せるべきではないのかもしれぬ。そういう訳で俺はレリアから離れ、湯船に浸かった。
「うちの人が迷惑をかけたって聞いて、代わりに謝りに来たんだけど、必要なかったかしら」
「お父さんにきっちり謝らせるから、絶対に」
「それなら明日になさい。今日は起きないと思うわ」
「じゃあ今夜は外で寝かせておいて。酔いも醒めるでしょ」
「ダメよ。若い人と違って、ただの風邪でも拗らせて死ぬような歳よ」
「それならそれで…」
「レリア! 怒っているのは分かるけれど、それはダメよ。私からキツく言っておくから、あなたはジル君と一緒にいなさい。明日の夜にでも謝らせに行くから」
「言葉の綾だよ、お母さん」
「そうね。レリア、お湯から上がったら、あなたも部屋に来なさい。ジル君、悪いけどレリアを借りるわ」
「構いませぬが…」
「そう。それじゃ、また後で。失礼したわね」
ナタリア様はそう言うと、浴室の扉を開けたまま立ち去った。ふと隣を見ると、湯船に顔を半分浸けたレリアがこちらを睨んでいた。何か失言でもあったろうか。
「どうした?」
「どうしたもこうしたもないよ。構ってよ」
「ああ、当然だ。レリア、来てくれ」
「違うよ。あたし、悪くないよね?」
構ってくれと言われたので抱き寄せようとすると、レリアは俺の膝の上に座って、善悪の話を始めた。何に対する善悪か分からぬが、レリアが悪の側に立つはずがないので、敢えて分かりきった話をしたいのだろう。
「レリアが悪いはずがなかろう」
「じゃあ庇ってよ。お母さん、あれで怒ると超怖いんだよ」
「では俺も行こう。一人で来るようには言われておらぬだろう?」
「追い出されるよ、きっと」
「その時はレリアを連れて追い出されよう。後日詫びれば良かろう」
「それじゃあ、本気の本気で頼っちゃうよ」
「ああ、任せてくれ。行くか?」
「そうだね。嫌な事は早く終わらせるに限るからね」
レリアはそう言うと、湯船から出て俺に手を差し出した。俺はその手を取って立ち上がり、身体についていた泡を洗い流した。泡で戯れていたために、当初はそうでなかったのだが、泡風呂になってしまっていたのだ。
いつの間にか用意されていた部屋着に着替え、せめてもの礼儀にと上着を羽織り、ナタリア様の部屋を訪ねた。
「お母さん、来たよ」
「どうぞ、入りなさい」
「ほら、怒ってる」
レリアが扉を叩いて呼びかけると、部屋の中からナタリア様の返答があった。それを聞いたレリアは、声色から察したのか、小声でそう言った。
扉を開けると、安楽椅子に座って葡萄酒を片手に、ナタリア様が待っていた。寛いでくださっているようで何よりだ。
「あら、ジル君を呼んだ覚えはないのだけれど」
「ナタリア様、我らは夫婦であります。一緒にいられるときには一緒にいます」
「そう。今は一緒にいられない時よ。久しぶりの親子水入らず、邪魔しないでくれるかしら?」
「は。それでは…」
「ジル!」
「イリナを呼びましょう。親子水入らず、でありましょう?」
「そうね…呼んで来てくれるかしら」
「あ、あたしが呼んで来るよ。ジルは休んでて」
レリアはそう言うと、走ってイリナを呼びに行った。親子水入らずなどと言われては、引き下がるしかないが、それならばイリナを呼べば、親子水入らずを実現できるうえ、レリアをナタリア様と二人きりにせずに済む。イリナには事情を説明し、必要ならば小遣いでも渡してレリアを庇ってもらえば良い。
「ジル君、レリアを叱るだけよ。怒ってはいないの」
「は。ですが、私はレリアの夫として、レリアを守らねばなりませぬ」
「ジル君、私もレリアを大切に思っているの。だからこそ、叱るのよ」
「承知しています。ですが…」
「ジル君は、気に入らないからといって父親が死んでも構わないって言うような、親不孝者と一緒に子育てをしたいの? たとえ言葉にしなくても態度には出るものよ。子供はそういうのを察するわ。いいの?」
「良くありませぬが、それは言葉の綾であると、レリア自身が言っていたではありませぬか」
「だから何?」
「本心ではないかと」
「そう」
ナタリア様はそう言うと、葡萄酒を口に運び、それ以来黙り込んでしまった。心変わりをしていただけたのであろうか。であるならば、親子水入らずも楽しいものになるのではなかろうか。
「お母さん、お待たせ。しよっか、親子水入らず」
「ちょっとお姉ちゃん、親子水入らずをするって何?」
気まずい時間を過ごしていると、レリアがイリナを連れて戻ってきた。イリナには事情を話しておらぬようだが大丈夫であろうか。まあイリナも馬鹿ではないし、庇ってくれるだろう。
「三人とも、そこに座りなさい」
「三人? ジルも?」
「ええ、そうよ。よく考えたら、ジル君は義理の息子だし、親子水入らずに参加する権利があると思うの。座りなさい」
俺はナタリア様に言われ、レリアとイリナと並んで床に座った。先ほどの心変わりは、俺も叱る対象に加えるといった心変わりであったようだ。何が失言であったろうか。
俺達はその後、夕食も摂らせてもらえぬままナタリア様のお叱りを受け続け、朝日が昇り始める頃、ようやく解放された。内容としては、父母に対する敬意がどうであるとか、親としての心得であるとか、そういった内容を長々と淡々と仰っていた。レリアの言っていた怖さが何を指すのか分からなかったが、確かに一晩中休憩も挟まずに叱られ続けるのはある種の恐怖を感じさせる。
「それじゃ、反省したと自分で思うなら、帰っていいわ」
「は。それでは失礼いたします」
俺はそう言い、半分眠っているレリアと完全に眠っているイリナを抱え、ナタリア様の部屋を出た。まずは寝室に運んで休ませた方が良いだろう。
二人を寝室で休ませて寝室を出ると、アガフォノワが待っていた。寝室に長時間いた訳ではないので、頃合いを見計らっていたのだろう。
「閣下、トモエ殿からお誘いがあります。魔物討伐に出掛けないか、と」
「トモエは残っているのか」
「はい。赤甲軍団と自警団の統率に加え、ヒナツ殿の支部長業務の代行も行っているようです」
「そうか。では行こう。他に誰が行く?」
「トモエ殿は二人きりで行こうとしていますが…黒甲から誰か出しましょうか?」
「ああ。冒険者登録をしてある者にしてくれ」
「承知いたしました。それでは私と…シュヴェスター子爵閣下をお誘いしますか」
「アズラ卿を?」
「ええ。これまでは十日に一度ほど私兵なり州兵なりの訓練に参加していらっしゃいましたが、魔物討伐庁が設置されて冒険者ギルドが開設してからは、魔物の討伐に行ってらっしゃいます。スッキリするそうです」
「そうか。ではお誘いしよう。四人で良いだろうか」
「モレンク血閥領内は我が軍や友軍が定期的な魔物狩りを行っていますから、脅威はありません。それに、閣下が全力を出せば、魔物など敵ではないのでは?」
「それもそうか。では行こう」
「は。庭でトモエ殿がお待ちです。私は各所に連絡してから参りますので、少々お待ちください」
アガフォノワはそう言うと、駆け足で去っていった。
魔物狩りをする予定など全くなかったが、ちょうど良い機会であるし、魔物討伐庁長官として冒険者総監として、視察をしても良いかもしれぬ。それに、Aランク冒険者として、たまには魔物狩りをしておかねば、俺の地位に納得のいかぬ者も出てくるかもしれぬ。
そういう訳で、俺は寝室に書置きを残し、魔物狩りに必要な装備を整え、庭に出た。まあ魔物狩り専用の装備を持っている訳ではないので、普段通り武装し、視界の確保に兜を脱いだだけである。
庭には、軽装に双錘のみを持ったトモエが暇そうに立っていた。
「トモエ、今日は何を狩る?」
「あいやー。公爵、重装備ある」
「そうか?」
「そうネ。気にすることないネ。わたし、公爵の装備、結構好きある」
「そうか。それで、今日は何を狩る?」
「ギルドで決めるある」
「承知した。アズラ卿とアガフォノワが同行する予定であるが、構わぬな?」
「万全すぎるネ。わたし、公爵の活躍、見たいある」
「まあ機会はあるだろう。ちなみに聞くが、ランクはどの程度上げた?」
「Bネ。今日中にAに上げたいある」
「そうか。なかなかに早いな」
「公爵はどうあるか」
「俺は最初からAだ。だが、冒険者として魔物狩りをした事はない」
トモエはもうすぐAランクとの事であるが、制度上Aランクまで昇格するには数十回、場合によっては百回以上魔物を討伐せねばならぬ。それを、既に昇格寸前まで辿り着いているとは、余程多くの魔物を討伐しているようだ。
しばらくトモエと話していると、俺達の分も馬を連れたアズラ卿とアガフォノワが来た。アズラ卿は普段着に帯剣をしたのみで、アガオフォノワは良く分からぬ魔導具をいくつか持っている。
「では行きましょう。冒険者ギルドはどちらに?」
「領主府庁舎にありますけど、便利に使えるように街の端に何か所か支局を置いてもらいました。道を通って街を出るなら、通り道にありますよ。トモエさん、今日はどうします?」
「昇格、狙うある」
「そうですね。じゃあ南に行きましょう」
トモエと相談し、南に行く事を決めたアズラ卿は、馬に乗って俺達を先導した。アズラ卿の馬の鞍には矢筒が付けられており、弓矢も装備しているようだが、魔物狩りに足りるのであろうか。領主府長官たる子爵である身を守るのに、自らが十代半ばの少女である事を自覚しているのであろうか。




