第481話
屋敷が見えてくると、俺はヌーヴェルに指示を出し、駆け出した。視界に無ければ我慢もできるが、視界に入れてしまえば我慢などできぬ。僅かでも早くレリアやアレク、テリハに会いたい。
門を通り抜ける瞬間、門衛の黒甲兵を一瞥しながらヌーヴェルから飛び降り、しばらく並走していると、駆け寄ってきた別の兵にヌーヴェルの手綱を預け、俺はさらに玄関まで駆けた。
「戻ったぞ。レリアはどこだ?」
俺が扉を両手で勢いよく押し開けると、近くにいたロアナが腰を抜かした。今のは褒められた行為ではなかったな。次から気を付けよう。
「お帰りなさいませ。姫様は居間でお帰りを待ってますよ」
「そうか、礼を言う。ああ、デュフロという客人を伴っているゆえ、応接室にでも通してやれ」
「承知しました」
「では頼んだ」
俺はロアナにそう言い残し、居間まで早歩きで廊下を進んだ。本当は駆け出したいが、これが癖になってはアレクやテリハの教育に悪い。
居間の前まで来た俺は、部屋の中にレリアの気配を確かに感じつつ、念のために身なりを整え、扉を叩こうとした。すると、俺の手が扉に触れる直前に扉が開いた。
「あ、やっぱり。おかえり、ジル」
「ただいま、レリア」
扉を開けたレリアも俺の気配を感じたようであった。俺達はどちらからともなく抱き締め合い、互いに深呼吸した。承知していた事ではあるが、やはりレリアの全てが愛おしい。
「レリア…ああ、レリア。好きだ。すぐに帰ると言ったのに二か月半も要してしまった。すまぬ」
「いいんだよ、ジル。あたしはジルが無事に戻ってきてくれたら…それでいいんだよ。アキから想定外の強敵だって聞いて、心配してたんだからね」
「その点に関しては安心してくれ。アレク達が大人になって初孫を抱くまでは死んでも死に切れぬ」
「…初孫を抱いたからって、危ない事するのはダメだよ」
「当然だ。初孫を抱いた時には曾孫を見るまでは、と、曾孫を抱いた時には玄孫を、と俺はそう思うような気がする」
「うん、約束だよ。誓ってくれる?」
「ああ。ヴォクラー神に…いや、愛に誓おう」
俺がそう誓うと、レリアはその唇を俺のそれに合わせた。これを以て愛に対する宣誓としよう。
この幸せな時が永遠に続くよう、そしてこの愛に報いるために、俺は最大限に尽くさねばならぬ。
「旦那様、姫、客の前だぞ」
「…随分と仲がおよろしいようで」
レリアと俺が互いを求め合っていると、アキに連れられたデュフロが俺達を見ていた。レリアにばかり集中していて気付かなかった。レリアの身を守るためにも、油断してはならぬと俺自身に誓っていたはずであるのに…
「ロアナ、応接室にお通しせよと言ったはずだが」
「私もそう言ったんですけど…」
「ワタシの判断だ。どうせ姫も呼び出すんだから、最初から姫のいる所へ案内した方がいいだろ?」
「ああ。だが、俺の指示の意味も考えてほしかった」
アキの判断は、レリアを気遣った判断ではあったようだが、俺を含めた夫婦を気遣った判断ではなかったな。まあ我慢もせず廊下で抱き合っている俺達がアキの気遣いを否定などできぬが。
「あの、あたくしに御用がおありだとか…」
「そうであった。デュフロ卿、応接室はこちらだ」
何事もなかったかのようにレリアが話し始めたので、俺も何事もなかったかのようにデュフロを応接室に案内した。途中、リンは声を出さずに『家政』と口を動かし、自らを指し、首を振ってロアナを連れて離れていった。家政には関係ないと言いたいのであろうか。
応接室に着くと、サラが茶やら茶菓子やらを用意して待っていた。ロアナが伝えてたのであろう。
「改めまして、モレンク血閥の皆様方にご説明いたします。枢密院において、諸侯の公選による枢密院議官の選出が決定されました。皆様は諸侯であられると同時に被選挙人でもあられます」
「あの…ちょっと待ってください」
茶を飲んで話し始めたデュフロを遮り、レリアは俺に身を寄せた。先程の事を忘れてはおらぬが、こう刺激を与えられては我慢ができぬ。
「ジルはもう知ってる事だよね?」
「ああ。だが、俺よりデュフロ卿の説明を聞いた方が確実だ」
「そうじゃなくて…みんなを呼んだ方がいいかな? ジルが帰ってくるってアシルが言ってたから、ルイスさんとかアズラちゃんとか呼んで、お祝いをと思って」
「いるのか。ならば呼ぼう」
「サラ、ちょっと」
レリアと声を低めて相談し、屋敷にいるというアシル達を呼ぶ事にした。サラはレリアの指示で退室し、アシル達を呼びに行った。
応接室では少々手狭かもしれぬが、まあ全員分の席は用意できるし、気にしすぎかもしれぬ。
「デュフロ卿、スタール伯らを呼んだ。しばし待たれよ」
「御在宅でらっしゃいましたか」
「ええ。旦那様の祝勝会を、と思いまして呼び集めておりましたの。ご参加なさいますか?」
「お誘いいただき、光栄に存じますが、私は政務がございますので、遠慮いたします」
「そうですか。旦那様なら、敵さえいれば必ず勝利をお掴みになるでしょうから、その機会に是非」
「そうですな。文官の我々の間でも、その将才は噂になっております。モレンクロード大将軍閣下が全力をお尽くしになれる間は、我がサヌスト帝国も安泰だ、と」
「そうですわね。旦那様のご活躍も、全ては任務と優秀な兵をお与えになられた皇帝陛下の、そのご采配のお蔭でございますわ」
「ご謙遜なさいますな。他の大将軍方は此度の戦場は御免被りたいと、そう仰っておいででした」
「あら、それこそ謙遜ではございませんの?」
「失礼」
レリアとデュフロが何とも言えぬ会話をしていると、アシルとルイス卿、アズラ卿が入室してきた。
頼りになるとは思っていたが、これなら政争でレリアの身に危険が及ぶ心配などないかもしれぬな。いや、舌戦ではどうにもならぬと思われて武力で黙らされるかもしれぬ。いずれにしても、危ないものは危ないな。
「さて、おそらく公選枢密院議官の話だとは思うが、聞いておこう」
「スタール伯爵閣下、その情報をどこで…?」
「軍事顧問が出向しているだろう。かの者の副官の一人が、我が軍令部情報部員だ」
「左様でございましたか。我々としても情報保全には気を配らなければなりませんから」
「ああ。主要な組織には防諜要員を派遣している。安心して本題に入られよ」
「はあ。伯爵閣下の仰る通り、公選枢密院議官についてです」
アシルに情報源を聞いたデュフロは、公選枢密院議官についての説明を始めた。
当然ではあるが、俺達が枢密院で決めた事をそのまま説明しているだけである。
説明が終わると、アシルやルイス卿は腕を組んで悩み始めた。ルイス卿はともかく、アシルは事前に知っていたようであるのに、何を悩む事があろうか。
「ジルさん、私は領主府長官として忙しいので、棄権します。いいですね?」
「ええ、構いませぬ」
アズラ卿は二人が悩んでいる姿を見て、自ら率先して沈黙を破った。領主府長官が具体的に何をやっているのかは知らぬが、俺より遥かに優秀なアズラ卿が忙しいと言うのなら忙しいのだろう。それに、アズラ卿はモレンク血閥軍の君主代行もしているし、忙しいのだろう。
「あたしも…ほら、ね、忙しいから棄権していいよね?」
「ああ。レリアの決定に文句は言わぬ」
「良かった。真面目な顔で働くジルを間近で見れそうだから迷ったんだけど、そんな不純な動機はダメだろうし、アレク達の面倒はできる限りあたしが見たいし、あたしなりに色々考えたんだよ」
「ああ。だが、おそらくレリアの思うような顔はしておらぬぞ」
「自分では気づかないものだよ」
「そういうものか」
まあレリアが俺を誉めてくれているのなら、俺自身も素直に俺自身を誇りに思おう。
アシル達は未だに何かを悩んでいるようで、周囲に聞こえぬよう小声で相談を始めた。血閥総帥たる俺を除いて相談するとは、少々気に食わぬな。
「兄上、ファビオを推してみるか?」
「なにゆえファビオを?」
「我らモレンク血閥の勢力拡大のためだ。なに、幼少を理由に代理で適当な者を送り込めばいい。内務省も大臣の代わりに副大臣を出席させたそうじゃないか」
「傀儡というわけか」
「簡単に言えばそうだな」
「…言っておくが、俺としてはモレンク血閥の勢力拡大を望んでおらぬし、そのために弟妹を利用するなど以ての外だ。むろん、ファビオ本人が望むのであれば、全力で推そう」
「ふむ…起こすか」
「いるのか?」
「ああ。義姉殿の招集だ。応じてないのはカイと兄上の苦手なあの女だけだ」
「そうか。レリアの呼び掛けに応じぬとは…」
「兄上が命じた事だろ。三龍同盟サヌスト帝国支部としてブロンダンと交流せよ、と」
「…そうであったな。サラ、ファビオを」
アシルとルイス卿はモレンク血閥の勢力拡大のためにファビオを利用しようとしていたようだが、俺としては勢力の拡大など必要ない。今ある財産を守り、子孫に残していけるのであれば、無駄な争いの火種を抱え込む必要などないのだ。まあ各自が勝手にやる事には口を出さぬし、できるならば応援はするつもりではある。
しばらくすると、ルガンに抱えられた、寝間着姿のファビオが来た。どうやら二人の仲は良好であるようだ。それにしても、鬼のような仮面はこのような状況でも外さぬのだな。
「アニキ…おかえり」
「ああ、ただいま、ファビオ。休んでいるところを悪かったな」
「ん…いいよ」
「ファビオ、一つだけ質問をさせてくれ」
「いや、兄上、寝惚けている時に聞いたら、本人の意志とは言えんだろう。デュフロ卿、明日答える。すまんが、今日は帰ってくれ」
「承知しました。こちら、本件に関する詳細です。どうぞお役立てください」
ファビオに質問をしようとすると、アシルが止め、デュフロに帰るよう促した。確かに寝惚けている状況では、頭が冴えているときとは考えも異となろう。
デュフロが帰ると、ルガンに抱かれたファビオも自室に帰っていった。よほどルガンを信頼しているのか、ファビオは安心しきっているように見える。




