第464話
翌朝。アキが起きる前に部屋を出て、城壁に向かっていると、ハウスラー金士に会った。昨日も遅かったのに朝が早いな。
「おはようございます、閣下」
「ああ。朝が早いな」
「ええ。提案したき事がありまして、閣下をお探ししておりました」
「言ってみよ」
「閣下の親衛隊の方々の戦果を伺い、ふと思い立ったのですが、親衛隊の方々を教官に各部隊を鍛えなおしてはいかがでしょうか。当然の事ですが、悠長に鍛えている時間はありませんから、付け焼刃となりましょうが、有効な策を知っているだけでも採れる行動に幅が出ます」
「なるほど、確かに良案だ。では鍛える部隊を挙げておいてくれ」
「承知しました。親衛隊長殿を含め、全員を教官と考えても?」
「親衛隊長と一部は含めぬが、まあ百四十人は教官として出そう」
「承知しました。それでは失礼します」
ハウスラー金士はそう言って一礼すると、足早に立ち去った。
巨人や牛頭人を倒したという我が親衛隊から、その対策法を習うのであれば、少なくとも行動に迷っている間に壊滅する、というような事にはならぬだろう。
俺は来た道を引き返し、アガフォノワの部屋に来た。ちなみに、親衛隊の士官相当官には個室を与え、それ未満には複数名による相部屋を与えた。
「アガフォノワ、起きているか」
「おはようございます。よろしければ、どうぞお入りください」
「ああ」
俺はアガフォノワの誘いに応じ、その私室に入室した。部屋にある全ての物に使われた形跡がなく、ベッドすら綺麗に整えられている。
アガフォノワに言われてソファーに座ると、正面にソファーがあるのに、アガフォノワは木製の丸椅子を持って来て座った。俺と同等の椅子に座ったからといって、俺は不忠とは思わぬが、アガフォノワは面倒な性格をしているな。
「アガフォノワ、魔将王軍への対策を、帝国軍将兵に教えられるか」
「可能です」
「そうか。では我が親衛隊員を、各部隊に教官として配する」
「御意。しかし、トモエ殿は教官に向いていると思えませんが…」
「ああ。それゆえ、十名程度は本陣付きの対魔将王軍専門の参謀として手元に置いておく」
「承知しました。ところで閣下、ルホターク殿からの伝言がございます。本来であれば昨夜のうちにお話しすべきでしたが、白蓮隊外への情報流出は総隊長であられる閣下のご判断を待て、と厳命されておりましたので」
「そうか。それで伝言とは?」
アガフォノワが表情を変え、声を低めてそう言った。
白蓮隊副長であるルホタークは色々と手を回し、一日だけ軍令部付き特別参謀を務めた後、軍務省に所属を変え、『枢密院議長附特別軍事顧問』として枢密院事務局に出向している。そこから、皇帝陛下や枢密院議長を通じ、軍に対して色々と口を出しているようだ。ちなみに、ルホタークは金士相当官を任じられており、これは陸戦、海戦、軍政の全ての分野に等しく口を出すためである。
「閣下は戦争において、自ら魔法を用いるという選択肢がありません。ご自覚があるのでは?」
「……確かに。魔将王軍など俺が魔法を使えば、圧勝だ。そもそも、俺が魔法を使うのであれば、二十万もの大軍を動かす必要すらない。なぜ思いつかなかったのであろうか」
アガフォノワに言われるまで、俺が魔法を使うという選択肢は思いつかなかった。俺も自ら出陣し、敵を討つことはあったが、その時も魔法は使っておらぬ。帝都を発つ前には、レリアに対して俺が魔法を使えばすぐに帰れると豪語したが、それ以降は俺の魔法など戦力として思いつかなかった。
言われてみれば、魔将王軍に対する策としては、簡単かつ最適な答えである。俺が魔法を使えばよかったのだ。なぜ思いつかなかったのであろうか…自分の無能が恐ろしいな。
「閣下、もし自分を卑下なさろうとしているのであれば、お待ちください。閣下の魔法が戦略として挙がらないのは、ヴォクラー神の思し召しです」
「なにゆえ…なにゆえ、ヴォクラー神は俺の魔法を禁じておられるのだ?」
「例えば、閣下が単騎で数十万の敵を何度も壊滅せしめておられれば、確かに我が軍の被害は抑えられるでしょう。しかし、それは閣下個人の戦果であり、サヌスト軍の戦果ではありません。それは敵も承知でしょう」
「まあそういう認識もあるな」
「ええ。閣下がおられるサヌスト軍は最強ですが、閣下の抜けたサヌスト軍は実戦を久しく経験していない弱小軍である、と考える敵もいるでしょう。結果的にサヌスト軍の勝利で終わるとしても、敵味方双方が少なからぬ損害を被ります。閣下が魔法を使った場合と使わなかった場合、十年後には前者が後者の死者数を上回り、それは百年後のヴォクラー教の存亡にも関わる、これがヴォクラー神のご判断です」
「なるほど、俺が魔法を使わぬことで生じる被害は、未来の被害を減らすための、ある種の生贄である、と」
「…生贄という表現は適切ではありません。閣下がおられなければ、同程度の被害が生じる訳ですから」
「確かにそうだ、忘れてくれ」
『生贄を求むる神の否定者』を意味するモレンクの主たる俺が、味方の損害を生贄などと仮に例えでも言うべきでなかったな。幸い、聞いていたのがアガフォノワだけであったので、緘口を命ずれば洩れることはない。
「そういえば、選ぶ選ばぬは別として、選択肢に挙がらぬのはなぜであろうか」
「私も詳しくは存じませんが、閣下の魂魄にリャゴスティヤン様が干渉なされたそうです。閣下が軍を指揮する時、閣下の思考に閣下の魔法が浮かばないように、と。これはこの世界に生まれ落ちた全ての民に影響するそうです」
「俺の思考がリャゴスティヤンによる干渉を受けていると? すると、皇帝陛下に対する忠義や我が愛妻に対する恋慕…まさか、ヴォクラー神に対する信仰すら…リャゴスティヤンの干渉の結果であると?」
「いえ、ご安心を。いかに神といえど、既に形成された好悪は変えられません。閣下は前世の記憶を失いつつあるそうですが、それによって形成された好悪に変化はありません」
「前世の記憶…?」
アガフォノワに言われるまで完全に忘れていたが…いや、言われても前世の記憶など思い出せぬ。せいぜいイェンスウェータの民であった事のみである。そういえば、名は忘れたが日本やら言う国の少年の記憶を吸収したが、その詳細も忘れ去っている。ヤマトワ語を習得できたのは彼の記憶があってこそだったのだが…思い出せぬ。
汗腺なき身体なれど、全身から冷や汗が噴き出ているような気が…いや、実際に魔力が冷や汗として流れ出ている。
「……続けてくれ」
「顔色がお悪いようですが…」
「大丈夫だ、続けてくれ」
「閣下が魔法を選択肢として挙げられなくなるのは、閣下が戦争であると認識し、将兵を指揮なさる時のみです。奥様をお守りすべき時など、閣下が個人として、一人または少数で交戦する場合には、これまで通り魔法の選択肢が浮かびます」
「将として、軍を率いる場合には魔法は浮かばぬのだな?」
「はい。ご理解いただいているとは思いますが、異空間に物資を入れて輸送部隊の負担を軽減したり、転移魔法などにより兵員や物資の輸送をしたり、負傷した将兵を回復魔法で癒したり、いわゆる兵站に関しても魔法を使う案が浮かばなくなりますので、ご注意ください」
「なるほど、戦争関連全てか」
「はい。ですが、魔法使いを鍛えたり、魔導書を書いたり、魔法で戦争に備えることはできます。ただ、魔法で武器を作ったりするのは、閣下の魔法が敵を殺すことになりますので、魔法が使えません。この辺りは、閣下の認識とリャゴスティヤン様の判断によりますので、私も何とも言えません」
「なるほど、では平時に魔法使いを育てておかねばならぬわけだ」
「その通りです、閣下。それで、閣下、あの、やはり顔色が…使っておりませんので、ベッドでお休みください」
「俺は良い。それよりおぬし、ベッドを使っておらぬと言うが、どこで寝たのだ?」
「閣下のお部屋の近くで休みました。そんな事より、顔色が優れません。白湯しかありませんが…用意します」
アガフォノワはそう言って水差しから白湯を杯に注ぎ、俺に渡した。忠義を無碍にはできぬので、俺は一気に飲み干した。
確かに、アガフォノワから俺の思考や記憶に関する話を聞いた時から、冷や汗と化した魔力の流出が止まらぬが、それは精神的なものであり、体調的なものではない。
「ではアガフォノワ、訓練の件は頼んだぞ」
「はい。閣下、どうか遠慮なさらず休んでください」
「…ああ」
俺はそう言い、アガフォノワの部屋を出た。有能だが、忠義が少々重いな。




