第375話
翌朝。日の出頃、何気なく庭を眺めていると、新編した忠犬飼育係が忠犬の世話を始めていた。
俺は忠犬飼育係と親睦を深めるため、庭に出ることにした。アキによると、飼い主である俺とある程度接しておかねば、どれだけ長く世話をしても忠犬が警戒してしまうそうだ。それゆえ、忠犬が盛んに飼われていた時代では、忠犬の世話は側近の役割であったそうだ。ちなみに、アキではなく俺を飼い主と認識しているのは、抱卵に際して俺の魔力を用いたからである。
庭に出ると、忠犬が飼育係に選ばれたうちの四人をそれぞれ押し倒し、顔を嘗め回していた。
昨日、家名をもつ者は家名で呼ぶよう、リンから指示を受け、例えばキャロル・クックであればクックと呼ばねばならぬから、話す時は気をつけねばならぬ。ちなみに、リンによると、ある程度の関係を築いた場合には愛称を使っても良いそうで、リンをトゥイードではなくリンと呼ぶ許可を貰っている。
「調子はどうだ?」
俺がそう言いながら近づくと、忠犬達が俺に気づいて駆け寄ってきた。
先頭を駆けたアルフェラッツがまず俺に飛びつき、後続の忠犬は俺の周りを走り回った。俺はアルフェラッツを受け止めたが、生後二ヶ月に満たぬとは思えぬ重さだ。
「おはようございます、ジル様」
「ああ。クック達はどうだ、上手くやっているか?」
「これから、ですね。私達もお世話を始めたのは最近なので、何とも言えませんが」
「そうか」
俺がルイーゼと話し始めると、人狼以外が作業を中断して跪いている。屋敷内の侍女など、俺が近づいても挨拶をした後は何も無かったかのように作業を再開するので、そうなるまで慣れてもらわねばならぬな。
「クック、昨晩はどうであった?」
「は、はい、はい、あんな上等な部屋を頂いて、何とお礼申し上げれば良いものか…」
俺がアルフェラッツを降ろしながら聞くと、クックはそう答えた。やはり緊張は解けておらぬな。
「説明したとは思うが、来年の三月には使用人寮が完成するはずであるゆえ、そちらに移ってもらうぞ」
「はい、もちろんです。こんな事を言っちゃいけないのでしょうけれど、お貴族様に引き取られると聞いて、奴隷落ちも覚悟していました。そうじゃなくても、奴隷小屋で寝泊まりさせられるぐらいは覚悟してました」
「安心せよ。我が領では奴隷を禁じている。奴隷の所有も売買も全てだ。いずれは大陸全土にこれを拡げる事を目的としているが…まあおぬしが気にすべきことではない。安心して俺に仕えよ」
「はい、よろしくお願いします」
俺がクックと話していると、リンが使用人寮から出てきた。寝癖も直さず、急いでいるのであろうか。
「おはようございます、ジル様」
「ああ。何かあったか?」
「キャロル義姉さんが叱られているように見えたので庇いに…何をやらかしたんですか?」
リンはそう言い、クックに肩を寄せた。クックは困ったように俺とリンを交互に見た。
「何も叱っておらぬ」
「そうです。公爵様はお優しい方で…」
「遠慮しなくても、ジル様は怒りませんよ」
「本当に大丈夫だから」
「ならいいけど、義姉さんが思ってるより、怖い人じゃないですよ」
「俺は怖がられていたのか」
「いえ、そんな…」
「ただの村娘からしたら、お貴族様は全部怖いですよ。しかも、軍勤めなら猶更です」
「そうか」
リンの様子を見る限り、俺を怖れてはおらぬ。まあリンは他の者と比べて長く一緒にいるし、以前から仕える大半の者より俺の近くにいる。それゆえ、怖れを感じぬようになったのかもしれぬな。
「ジル様、作業が止まっちゃいますから、どこか行きましょう」
「ルイーゼ、問題があれば連絡せよ。では」
俺はそう言い、リンを伴って屋敷に戻った。俺の背後では、遠慮しつつ立ちあがって作業を始める気配があった。振り向いてやろうかとも思ったが、リンに何を言われるか分らぬのでやめておいた。
俺は何も言わず寝室に向かったが、リンもついて来た。寝癖を直さぬ程度には寝惚けているようだな。つまり、寝惚けていても庇うほどには、クックを慕っているようだ。
「リン、寝るのであれば客間に、朝食であれば食堂に、寝癖を直すのであれば化粧室に、とにかく寝室はアキが寝ているゆえ、別の場所に行ってくれ」
「あ、ごめんなさい。つい」
「その必要はない。ワタシは起きた」
俺が扉の前でリンに帰るよう言っていると、扉の向こう側からアキの声がした。なぜ扉を開かぬのであろうか。
「まずは朝ごはんだ。その後は領主館に行って、王宮に行く。リンも来いよ」
アキは扉を開きながらそう言った。ヤマトワのものであるし、本来は黒であるべきが赤であったり、男装であったり、言いたい事はいくつかあるが、ちゃんと正装をしている。これが黒である場合は第一礼装というそうだが、赤い場合もそう呼んでも良いのだろうか。
「見てみろ。青い薔薇だ。実家の家紋を入れようかとも思ったが、旦那様の家紋を入れた」
「俺も正装すべきであろうか」
「王宮なら正装に決まってるじゃないですか。私、そんな上等な服なんて持ってないですよ」
「安心しろ。旦那様ならリンが着る服ぐらいある。それに、ワタシがこんなにいい服を着てるのは、この服が完成したからだ。カイ達の結婚式に向けて用意していたんだが、着るキッカケが欲しかったのだ」
「そうか。リン、サラに言って服を用意してもらうと良い。今までの働きに対する報酬として、何着か持って行くと…いや、使用人寮はそれほど広くないか。民家で良ければ手配しよう。むろん、留守にする事も多かろうから、屋敷の侍女を輪番で家政婦として派遣してやろう」
リンを正式に仕官させるにしても、私臣のままにしておくにしても、いつまでも使用人寮に住ませるわけにはいかぬだろう。エヴラールも、一応は家を与えて輪番で侍女を派遣しているのだ。
使う使わぬは別として、街中に住んでいる以上は、部下に住処程度は用意してやらねば、俺の気が済まぬのだ。
ちなみに、使用人寮に住む者も、家族がいる場合は当然として、独り身である者にも家を与え、その家には掃除など最低限の維持のための人員を派遣している。そのため、使用人寮に住む者でも、俺の屋敷に入らぬ者もそれなりの数いるのだ。
「そんな…いいですよ。服ぐらい片付けられます。私もびっくりしたんですけど、もしかしたら私が住んでた家より広いかもしれません」
「当たり前だ。旦那様に仕える使用人なんて数え切れないくらいいるんだぞ。単なる村長の孫娘の実家より大きいに決まってる」
「いや、アキさん、私の個室が、前の家より広いんです」
「そんなに広いのか」
「びっくりしますよ。まず、台所兼食堂があって、居間があって、寝室があって、それ以外にも一部屋あるんです。たぶん、物置ですね」
「物置じゃなくて、それも寝室にすべき部屋なんじゃないのか?」
「あ、二人部屋か…確かにそうかもしれません。ジル様、キャロル義姉さんと一緒の部屋にしてくれませんか?」
「俺に言われても知らぬ。そんな事より、王宮に行かねばならぬのであろう。早く準備せよ」
「…私も行かなきゃいけません…?」
「リン、聞いて驚け。何と、エジット陛下自らのご指名だ。行かなかったら、分かっているだろうな」
「王様が私を…同名の別人じゃなくて、ですか?」
「正確には、旦那様がクィーズスで拾って、一緒に旅をした、三ヶ国語を話す農民の娘だ。リンしかいない」
「分かりました。でもジル様、困った時は助けてくださいね。ほんとにお願いしますよ?」
「ああ。無礼を働くでないぞ」
「お願いしますからねっ!」
リンはそう言いながら、どこかに歩いていった。廊下を曲がると、サラを大声で呼び始めた。
すると、サラが寝室から出て俺に一礼し、リンを追いかけた。サラはアキの着替えを手伝っていたようであるな。
「じゃあ旦那様、朝ごはんだ。この服は汚しちゃダメだから、汚さないように手伝え」
「ああ。口移しでも構わぬぞ」
「そんな事したら、もっと汚れるだろ、ばか」
冗談を言ったつもりであるが、アキは照れるようにそう言い、俺の服を掴んで歩き出した。
食堂に着き、食事を始めたが、キトリーが事情を知って気を遣ったのか、食べ易く汚れ難いものばかりであったので、俺の出番はなかった。
その代わり、アキは朝の愚痴を言い始めた。
俺が庭に出た後、サラに起こされたそうだ。ケリングから、『ルイス卿とアズラ卿、トゥイードを連れ、早いうちに参内されたし』という念話が届いた、と。アキは仕方なく起きて、第一礼装を着る機会だと気づいて喜んだそうだ。
アキが着替える途中、エヴラールに再確認の念話をすると、『ジル様とアキ夫人、ルイス卿とアズラ卿、トゥイードの参内を陛下が望んでおられる』と返され、アキが『陛下はリンを指名しているのか?』と問うと、エヴラールは『陛下は、ジル様がクィーズスで救って共に旅をした、三ヶ国語を話す農民の娘をご指名だ。トゥイードだろう』と返答したそうだ。
俺に連絡が来なかったのは、まだ朝であるからだろう。エヴラールやケリングは、非常時ではないが俺に用があるとき、人を通じて俺を起こす。彼らなりの気遣いであろう。




