第372話
アズラ卿が帰った後、俺は絵画の設置の指揮を執った。接吻の二枚は書斎に、それぞれの肖像画は応接室に飾っておいた。
俺は嬉しくなってきたので、玄関に机と椅子を出して、少し酒を飲むことにした。全く勝手なことであるが、久々にレリアの姿を見れて、乾杯したくなったのだ。
俺が夜光杯を空にすると、机に置いた瞬間にサラが注いでくれるので、俺は反射的にそれを飲み干すと、さらにサラが酒を注ぐので、既に樽がいくつか空になってしまった。
一応、アキの帰りを待っているという言い訳は用意してあるのだが、アキが朝帰りでもした場合には、おそらく屋敷から酒が無くなる。
夜半というには遅すぎる頃、つまり翌日の朝方、アキとリンは帰ってきた。アキは泥酔しながらも立っており、酔い潰れて眠っているリンの首根っこを掴み、引き摺って歩いてきたようだ。そのせいか、リンの服は至る所が破れている。
「旦那様ぁ」
「飲みすぎではないか?」
「リンだって…旦那様が四人……?」
「良くぞ気付いた。絵が完成したそうで、ここに飾った。良くできておろう?」
「ふん…ふふふ。姫…へへへ。あッ!」
アキは笑いながら絵画に近づき、リンに足首を掴まれて転んだ。リンも起きていたようだな。酔人の相手ほど面倒なこともないぞ。
「アキ、大丈夫か?」
アキを心配し、跪いて呼び掛けたが、どうやら眠っているようだ。この状態で良く帰って来れたものだな。
「ジル様ぁ」
「おぬし、俺を呼ぶのは良いが、服は良いのか?」
リンが俺の服を掴み、そう言ったが、服が破れているせいで、他人に見せるべきでない箇所も見えている。素面であれば、このような醜態は晒さぬだろうに。
「おしっこぉ…」
「そうか。ここでするでないぞ」
「漏れたぁ…へへへへへ…あははははっ。はは…漏らしちゃった…」
リンはそう言い、泣き始めた。これだから酔人の対応は面倒なのだ。それも、一度に二人など、待っていた事を後悔するほどだ。
「サラ、すまぬがリンを頼む。酔いが醒めて覚えていたら厄介だ」
「承知しました」
「アキは俺が寝室に連れて行く。おそらく朝食はいらぬゆえ、キトリーにそう伝えよ。では」
俺はそう言い残し、アキを抱えて寝室に向かった。酒臭いし、こちらは気のせいかもしれぬが、何度か吐いたような口臭もする。別に不快な匂いでは無いので俺は構わぬが、アキ自身が気持ち悪かろうから、水魔法で洗っておいた。
翌日。昼前頃にリンが起きたようで、談話室に呼び出された。
俺はアキが風邪をひかぬよう、魔法で空調の管理をし、ラヴィニアに引き継いでから談話室に向かった。さすがに冬にもなれば、温暖なサヌストの気候といえど、そこそこ寒い。レリアは大丈夫であろうか。
談話室に入ると、湯気が立つ紅茶を飲むリンがいた。陛下の結婚式で貰った茶菓子が傍にあるので、おそらくあの紅茶も一緒に貰ったものであろう。聖なる試練の間に傷んでは無礼であるゆえ、食品は部下に配ったのだ。
俺はリンの正面に座り、茶菓子を食べた。さすが王宮の菓子というべきか、なかなか美味いな。
「リン、もう酔いは良いのか?」
「昨日は醜態を晒したそうで…」
「気にするでない。おぬしの失禁は二度目であるゆえ、俺も特に気にせぬ」
「あ…え、漏らしちゃったんですか…?」
「覚えておらぬか」
「そうなんです。私、酔ったら記憶が無くなっちゃうので…」
「そうか。それで、今日はなんの用だ?」
「その前に、お願いがひとつ」
「言ってみよ」
「忘れてください…失禁を」
「ああ。昨日の失禁が無ければ、ドルミーレでの失禁も思い出しておらぬ。おぬし自身も気をつけよ」
「はい。それは…ごめんなさい、すごく気をつけます」
「うむ。アキの様子を見ておかねばならぬゆえ、俺は行く。では」
俺はそう言い、立ち上がった。アキの面倒を見てやらねばならぬし、レリアの絵も見ていたいのだ。
リンの話とは、失禁を忘れよ、ということであったが、以前の失禁の際にも似たような事を言われているので、大して気にする必要はあるまい。
「あの、本題がまだなんですけど…」
「そうであった。それで、話とは?」
「キャロル義姉さん達が、明日にでも到着するそうです。住居の用意はできていますか?」
「…キャロル義姉さん?」
「はい。私の亡兄の妻です。キャロル・クックです。私は村長の孫だったので、みんなが私を村長代理にって言ってくれていたんですけど、ジル様に同行するから、義姉さんに代わりを頼んだんです」
「そうか。村長代理の代行か」
「おかしな話ですよね。村長代理は分からないでもないですけど、その代行って…しかも村は滅んじゃってるんですよ?」
リンは何でもないようにそう言うが、その滅んだ村は自らの故郷であろうに。
もしかすると、リンを村長代理に推している者は、フォルミード村の復興を夢見ているのかもしれぬ。仮にそうであるならば、俺は支援を惜しまぬつもりである。
「まあその話は良い。そのキャロル・クックの対応を任せる。俺は護送の傭兵と会うわけにいかぬゆえ、おぬしに出迎えを任せる。できれば、傭兵には早く帰ってもらってくれ」
「分かりました。住居はどうしましょうか」
「どこでも良い。街中が良ければ街中に、領主館の近くが良ければ官舎に、安心したければ兵舎に、俺に身近で仕えたくば我が庭に。全ておぬしに任せる」
「分かりました。仕事は何をさせますか?」
俺が一方的に保護しているのであるから、働かなくとも養ってやるのだが、本人達が気まずかろう。だが、農村出身の女などを雇うのは初めてであるゆえ、何を任せるべきか分からぬ。
「逆に問おう。何ができる?」
「言ってくだされば何でもしますよ。でも、なるべく危険な事はさせないでください」
「そうか。では犬の世話はどうだ?」
「あの四匹の?」
「ああ。人狼を幾人か出すゆえ、その下で実務を担えば良かろう。今はまだ良いが、餌となる鶏も育てねばならぬ」
「分かりました。そういうのが得意そうな人を選びます。残りはどうしましょう?」
「…炊事やら洗濯やら掃除やら、人手を欲する部門もあろうから、適当に振り分けよ。纏めて侍女として雇おう」
「ありがとうございます。それじゃあ、使用人用の寮に住まわせてもいいですか?」
「ああ。だが、五十人も増えるとなると、空室が足らぬ。増築を手配するゆえ、完成までは迎賓館の方に泊まらせよ」
「分かりました。ありがとうございます。このご恩は、私が一生かけてでもお返しします」
「俺が決めたことだ。恩返しなど求めぬ」
「そうですか…いつでも前言撤回していいですよ」
「そうか」
キャロル・クック一行の処遇と忠犬飼育係の編成を一度に終わらせる事ができて良かった。寮の増築は、いずれせねばならぬ事が早まっただけであるゆえ、実質的に俺は得しかしておらぬ。
「寮の増築の手配をせねばならぬゆえ、俺は行くが…話は終わりか?」
「はい。良ければ、増築の手配に同行させてください」
「別に構わぬが…なぜ?」
「アキさんに見つかったら、また飲まされちゃうじゃないですか。もう醜態は晒しませんよ」
「そうか。では行くぞ」
俺はそう言い、リンと茶を飲み茶菓子を食べてから、ウィルフリードの家に向かった。防音性向上の工事などを頼んだ際に家の場所を聞いておいたのだ。ちなみに、べランジュールと同居しているそうだ。
道中、リンに犬人や猫人を説明したが、どうやら俺のおらぬ間に会っていたようで、好印象を抱いているようであった。
ウィルフリードの家は、いわゆる民家である。魔族にも家格という概念があるそうで、家格に応じた家に住んでいる。そのため、フーレスティエは豪邸と称すべき家に住んでいる。
「突然すまぬな」
来る途中、念話で向かう事を伝えていたため、ウィルフリードとべランジュールが家の前で待っていた。
「いえいえ、主君が自宅に訪れるのは、臣下にとっては名誉ある事ですから」
「そうか」
「ジル様、どうぞお入りください」
べランジュールに招かれ、ウィルフリード宅に入った。こういう民家に入るのは新鮮であるな。
応接室らしき部屋に招かれると、俺とリンを残して二人はどこかに行った。
「いつ見ても可愛いですよね」
「おぬしより歳上であるぞ」
「そうなんですよね。やっぱり身長って大事なんですね」
「おぬしも低い方ではなかろう。我が愛妻より高いぞ」
「何言ってるんですか。アキさんの方が高いじゃないですか」
「レリアの話だ。絵があったろう?」
「あの人が噂の…」
「ああ。絵も美人であるが、本物はもっと美人であるぞ。予想では来年の六月頃に俺との子が産まれるのだ。そのために荘園に篭っているのだが…出てきたら紹介してやろう」
「ありがとうございます。妊娠中は会えないなんて、お貴族様も大変ですね」
「全くだ。だが、疫病から護るためだ。耐えねばならぬ」
「なるほど…」
リンにレリアを自慢していると、二人が戻ってきた。書類の束と茶を持っている。リンの言う通り、二人は背が低いので、書類が大きく見える。
「お待たせしました。これはアシル様に許可を頂いて作成した、ジル様のお屋敷の設計予想図です。これが敷地内全域の地図です」
ウィルフリードがそう言いながら、二枚の紙を広げた。俺の屋敷は、陛下から下賜していただいたものなので、設計図が手元にないのだ。それゆえ、アシルは設計予想図を作る許可を与えたのであろう。
「とりあえず、使用人用の寮を三倍にする。今あるものに加え、同じものを二つ建ててもらう。ついでに迎賓館も増やそう」
「承知しました。どこに建てましょう?」
「それは良いようにしてくれ」
「ではこの辺りに並べましょう」
ウィルフリードがそう言って敷地内全域を記した地図を指でなぞると、べランジュールが『使用人寮』と書いて四角で囲んだものを二つ描いた。
「それから、鶏小屋と犬小屋を新設して欲しい。この二つは捕食者と被食者という関係であるゆえ、なるべく離してもらいたい。双方の近くに休憩小屋と倉庫も建ててもらおう」
「犬種は何でしょうか」
「忠犬と言って、大きい犬だ。狼より大きくなるらしい。それが四匹だ」
「では馬用の厩舎を建てておきます。状況に応じて改修しますので、お申し付けください」
「ああ。頼んだ」
俺が注文すると、べランジュールが設計図やら図案やらを描き始めた。なかなか良い建物ができそうだな。
それから、リンも交えて詳細を詰めた。話しているうちに、敷地内に菜園を作って、フォルミード村の名産であった作物をいくつか作ることとなった。リンも復興を望んでいるのかもしれぬな。
その後、ウィルフリード宅を出る頃には日が沈みかけていた。ラヴィニアに連絡してアキの様子を確かめると、不服そうに早めの夕食を食べているそうであった。早く帰らねば。




