第367話
塔の扉が開かれると、エヴラールを伴ったサリム大司教がいた。
ようやくグザヴィエ司祭との日々が終わるのか。長かった。俺にとっては、断眠や断食より、それによって機嫌の悪そうなグザヴィエ司祭と過ごす事の方が苦痛であった。グザヴィエ司祭も不機嫌を前面に押し出している訳ではないのだが、押し隠しているのが分かってしまったので、逆に辛かった。
俺とグザヴィエ司祭は、念の為、医術の心得がある司教に診られたが、俺は何の異常もなかったので、エヴラールを連れてサリム大司教の執務室に来た。
執務室に来ると、色々と手続きがあった。俺は教皇になるまでは大司教となるそうで、その手続きだそうだ。書類の方はエヴラールが用意してくれていたので、俺は署名をするだけであった。
俺は大司教になったところで、大司教区を与えられるわけでもないし、説教をせねばならぬこともないし、聖堂騎士団に対する指揮権もない。俺の大司教としての役割は、ヴォクラー教徒の模範として過ごすこと、であり、これは貴族などが名誉を目的として聖なる試練に及第した場合などに与えられる、いわゆる名誉職である。まあ俺の場合は、すぐに教皇になるので、大して気にする必要はない。
手続きを終えると、俺は睡魔を理由に帰宅することにした。聖職者となった俺がそう感じるべきではなかろうが、聖職者と一緒にいると疲れる。
帰りの馬車にエヴラールと乗り込み、聖ソフィアン大聖堂の敷地から出ると、エヴラールが這い蹲った。何か問題でもあったろうか。
「申し訳ございません、ジル様」
「俺は謝られるような事はされておらぬ。気にするでない」
「いえ、許されざる失敗を致しました」
「…何のことだ?」
「十一月十六日、この日が何の日か、覚えておいででしょうか」
「聖なる試練の初日であろう」
ちなみに、今は十一月二十日の深夜である。教会側は五日間を正確に測ったようだ。俺としては、十五日の夜から始めたので二十一日の朝まで拘束される可能性も考えていたのだが。
「それもありますが…国王陛下の誕生パーティーがありました」
「……忘れていた。このまま王宮に行って陛下に詫びる。王宮に向かってくれ」
「いえ、そちらはアシル様が対処してくださいました。ジル様は教会から呼び出されており、それが終わるとゼーエン作戦に直行せねばならない、と。畏れ多くも私が名代として出席いたしましたので、儀礼上は問題ありませんが…」
「ああ。ゼーエン作戦が完全に終わり、教会の方も落ち着いたら、改めて挨拶に行こう」
「は。申し訳ございませんでした」
陛下の誕生日があることを完全に忘れていた俺の落ち度であるのに、エヴラールは謝りすぎではなかろうか。あえて責任を転嫁するならば、陛下の結婚式と誕生日パーティーを続けて開催しようと提案した者が悪いといえようが、結婚式で祝いの気持ちを全て出し切った俺が悪いのだ。
「いや、おぬしが気に病むでない。今回は俺が悪い」
「いえ、そのような…」
「良いのだ。それより、屋敷に戻ったら、準備ができ次第、ガッド砦に向かう。おぬしは休んでから合流せよ」
「いえ、私だけ休むわけには参りません」
「一度しか言わぬぞ。俺はおぬしに頼り切っているのだ。つまり、おぬしが倒れでもしたら、俺は戦闘力が高いだけの無能になる。その事を忘れるでないぞ」
「お心遣い、感謝いたします。ですが、私は日中に休息いたしました。それと、私は無能にお仕えしているつもりはございません」
「そうか…礼を言う」
無視されても良い謙遜で自分を無能と言ったが、まさか否定されるとは思わなかった。まあ確かに、主君が無能であれば、その臣下は無能に仕えていることになるから、俺はあまり自分を卑下せぬ方が良いな。
その後、屋敷に戻って準備を整え、ガッド砦に着いたのは日の出の直後であった。ちなみに、王都の城門は閉まっていたが、俺が近づくと門の守衛長が近づいてきて、開門してくれた。まあエヴラールが公爵家の紋章を掲げていたので、当然ではあるのだが。
ガッド砦のゼーエン作戦本部では、俺の執務机に書類が積まれていた。再開は昨日からであるはずだが、もうこんなに溜まっているのか。集中して終わらせよう。
各隊の財務情報や使用した傭兵、通った街道や訪ねた街や施設など、各隊の報告書について本部員が確認と補足をし、それを俺に提出する。俺は報告書を読んだ上で補足について確認し、署名する。これが大まかな流れであるが、俺の負担が大きいのだ。それゆえ、俺が処理する前に別の書類が届けられ、書類は溜まる一方である。
各隊の財務担当などから、余剰分の予算を返還され、財務報告書と齟齬がないか確かめたり、ゼーエン作戦に参加した者に対する手当の支給など財務関係を、エヴラールに任せているので、俺はエヴラールに頼ることもできぬ。正確には、既に頼っているのである。
リンがいた頃は、代筆や要約をしてくれていたので、今よりは楽であった。そのリンは、聖都で俺の迎えを待っていたそうであるから、ケリングに迎えに行かせた。明日には来るだろう。
翌日。昼過ぎにリンが到着し、夕食の頃には全ての処理を終えた。
夕食後、俺が個人的に頼んでいた調査に関して、リンから報告書を渡された。縮約版と完全版が二冊ずつあり、縮約版は小指ほどの厚さ、完全版は拳ほどの厚さがある。何についての調査か俺も忘れていたが、『ノヴァーク軍による同国周辺海域に出没する海賊に対する軍事行動』と『ノヴァーク軍による第一次及び第二次コンツェン遠征』と題してある。何となく思い出したような気がする。
とりあえず、今夜は『ノヴァーク軍による第一次及び第二次コンツェン遠征』の縮約版を読むことにした。海賊の方は、ノヴァークの御前決闘裁判の会場で聞いた気がする。
縮約版といえど、読了まで一晩はかかりそうな厚さである。
アンドレアス暦三百八十六年、ときのノヴァーク国王であるアレクサンダー王はコンツェン遠征を決定した。ただちに遠征軍が編成され、副将以上の将帥五名、その麾下にある将兵十四万が従軍した。
最初、ノヴァーク軍はコンツェン軍による反撃を意に介さぬ快進撃であったそうだ。だが、ヴェンドゥーザ山での山岳戦で、アレクサンダー王が落馬し、負傷した。また、同じ山の別の個所で土砂崩れが発生し、カラン央軍副将の隊が壊滅した。
コンツェン軍によるものではないとはいえ、大打撃を受けたノヴァーク軍は、シルヴァジャヌーラの大平原まで退却し、アレクサンダー王の回復を待ちつつ、軍の再編を急いだ。そこへ、コンツェンの正規軍と諸侯連合軍が一斉攻撃を仕掛けた。ただし、ノヴァーク軍は損害を出しつつも、コンツェン軍を撃退する。
コンツェン軍を撃退後、アレクサンダー王の容態が悪化し、そのまま死亡した。ノヴァーク戦士の心得として、ノヴァーク王室に不幸があった場合には、全ての攻撃を止めるべし、というものがあり、これに従ったノヴァーク軍は自国領アフティポシ城まで退却した。
これを好機と見たコンツェン軍は、追撃を仕掛けた。心得によって攻撃を禁じられたノヴァーク軍であるが、防衛戦争は全く別の話であった。王を失った悲しみと怒りの全てをコンツェン軍に向け、その半数以上を討ち取り、撃退した。ただし、ナイジェル央軍大将は死の原因となる傷を負い、テニール左軍副将は捕虜にとられたが。
その後、アレクサンダー王の甥であるオーウェン王が即位し、コンツェンと停戦した上で捕虜交換を行い、第一次コンツェン遠征は終わった。
その六年後、アンドレアス暦三百九十二年、左軍大将に昇格していたテニール大将の進言もあり、オーウェン王はコンツェンへの再遠征を決定した。六年前とは異なり、傭兵を十三万弱も動員し、二十六万の大軍で侵略を開始した。傭兵の動員は、テニール大将の進言に従ったのである。
コンツェン領内に侵入したノヴァーク軍は、大きな戦闘もなくシルヴァジャヌーラまで進軍した。アイリーン左軍副将はこれを怪しみ、退却を進言したが、オーウェン王は『六年前の獰猛さに怯えた』として進言を無視し、前進した。
オーウェン王は、シルヴァジャヌーラの大平原では、左軍を先陣に、傭兵を後方に配置し、自らは央軍とともに中央で待機した。すると、『前方にコンツェン軍。数は約三万』の報せが入り、先陣たる左軍は突撃した。俗に言うシルヴァジャヌーラ会戦の開戦である。
開戦から半日後、夜半にオーウェン王のいる本隊に、テニール大将より通達があった。『好機なり。大突撃されたし』と。オーウェン王は本隊に加え、後方に控える傭兵軍にも大突撃を命じた。
それと同じ頃、先陣である左軍は、後方での異変を理由に、全隊が全速後退を命じられ、一斉に後退した。後方での異変とは、オーウェン王による大突撃の号令と、それによる将兵の雄叫びであった。
一部の傭兵を除き、本隊と後方軍が前進し、先陣が退却したことによって、二つの軍隊は正面衝突を起こした。闇夜も手伝い、壮大な同士討ちが起こったという。この日は新月であったと伝わっている。
主戦場から離れたテニール大将は、一部の傭兵と合流し、さらにコンツェン軍と合流した。
明け方、同士討ちに気づいたノヴァーク軍を、無傷の戦象部隊が襲撃した。むろん、コンツェン軍である。
戦象に踏み荒らされたノヴァーク軍を、今度は無傷のコンツェン兵二十五万が追撃し、オーウェン王は退却を決意する。自身が負傷したことも、遠因であろう。
オーウェン王の退却の命令は本隊である央軍にのみ伝えられ、『オーウェン王、逃亡!』の報が戦場に響き渡った。この報を知ったアイリーン副将は、当初四万五千の騎兵からなっていた左軍の、二万八千騎の敗残兵を率いて戦場を離脱した。傭兵も、それぞれが個々に逃走した。
その三日後、渡河の最中であった、オーウェン王の本隊である央軍を、コンツェン軍が急襲するも、アイリーン副将の隊が援護に駆け付け、撃退し、この二隊は合流した。
その後、オーウェン王に率いられた央左軍は、コンツェン軍の将軍として、コンツェン兵を率いたテニール将軍の追撃を何度も受け、ノヴァーク領内に生還した将兵は三万を下回ったそうだ。また、生還した将帥は、アイリーン副将のほかはいなかった。
コンツェンに寝返ったテニール将軍であるが、ノヴァーク軍の敗残兵に討たれている。時のコンツェン国王リッカルド三世に仕組まれたことであったという。また、テニール将軍に従った傭兵は、リッカルド三世に報酬を求めるも、王は雇い主はテニール将軍であるとのみ述べ、報酬を支払わなかった。これに対し、傭兵の統率者であったクレアは叛旗を翻すものの、二日で討伐され、蜂起しなかった傭兵も連帯責任として処刑された。
結果として、コンツェン軍の圧勝に終わり、コンツェン国内には二十万を超えるノヴァーク人の屍の山が築かれた。しかし、この翌年、死体の山が原因の疫病が流行り、百万以上の死者が出たそうで、『ノヴァーク人の亡霊だ』と噂する者が多く、いつしか『ノヴァーク軍の報復だ』に変わったそうだ。実際は、この時のノヴァーク軍に報復をするような余裕などない。




