第325話
しばらくすると、アキが骨付き肉を両手に持って戻ってきた。リンと話しながら様子を見ていたが、新しく焼かせていたようで、そのために長時間を要したようだ。
「買ってきたぞ。ほら、食え」
「あ…」
「どうした?」
「私、羊肉はダメなんです」
「ちゃんと美味いらしいぞ。いや、何か理由がある感じだな。ワタシが聞いてやるぞ」
「はい。昔、羊が三つ子を産んだので、そのうちの一匹をラーナって名付けて飼ってたんですけど、ある日突然いなくなったんです。それで、その日の夜ご飯が、ユキさんが買ってきてくれたような骨付き肉だったので、まさかと思って父に聞いたんです。『ラーナはどこに行ったの?』って」
「おいおいおい、まさか…」
「そうなんです。なぜか酔っていた父が『お前の腹の中だぁ!』って笑いながら叫んで、その事実と父の酒臭い息とで体調を崩しちゃって、それ以来羊肉はダメなんです。ごめんなさい」
「ワタシこそ悪かった。牛肉もあるぞ」
「そっちを頂きます」
「悪かったな」
「いえいえ。言ってなかった私が悪いんですから」
「そうかそうか。羊肉はワタシが食っておくからな。あ、ワタシが食べるのはいいのか?」
「どうぞ、お好きに食べてください」
アキとリンは和やかに話し、二人でアキが買ってきた肉を分け合って食べた。俺には無いのか。まあリンを慰めるため、アキが自費で買ったものであるから、俺が求めるのは筋違いであるのだが…釈然とせぬな。
それにしても、死者を悪く評するのは躊躇われるが、リンの父はなかなか惨いな。娘が飼っていた羊を、娘に知らせずに屠畜し、娘に知らせずに夕食に出し、娘に問われた際には笑いながら答えるなど、どの段階から酒に酔っていたのかは知らぬが、尋常な父親の行動とは思えぬ。
「あ、ファブリス様…」
「旦那様、そんな物欲しそうな顔をするな。目を瞑って待て」
「ああ」
俺は物欲しそうな顔などした覚えはないが、とりあえずアキの指示に従って目を瞑った。その直後、アキが俺に口付けをし、アキが噛んで柔らかくなった羊肉が、俺の口内に流し込まれた。
なかなか良い。羊肉とアキの唾液が絡み、何とも評せぬ味だが、楽しむべきは味ではなく行為自体だ。
「白昼堂々と…」
「ワタシの旦那様は昼も夜も元気だからな」
「ユキさんもでしょう」
「当たり前だ。でなければ、旦那様の相手は務まらんぞ」
「何で私に言うんです?」
「何でだろうな」
「ユキ、もう一度だ」
「続きは夜だ」
「そうか」
俺の己に対する罰は、既に形骸化してしまっており、落ち着きを取り戻すための手段に成り下がっている。良くないという自覚はあるが、大慾には逆らえぬ。
「やっぱり見られていた方が興奮するんですか?」
「やっぱり?」
「旦那様、リンはそういう奴なんだ。気にするな」
「ちょっとぉ、どういう意味ですか?」
「自分の胸に聞いてみろ」
「胸は喋りませんよ」
「変な事を言うな。胸が喋ったら怖いだろ」
「冗談ですよ。さ、続きを見に行きましょう。次はどこにしましょうか」
「おぬしに任せる」
「じゃあ適当に行っちゃいましょう」
リンはそう言い、俺の手を引こうと手を出したが、その手をアキが掴んだので、アキと手の手を引いて歩き始めた。
その後、有力な貴族や将軍の邸宅、ヴォクラー教の教会や聖堂などを見て回った。
クィーズス軍では、平民出身であっても軍で出世できるため、徴兵を終えても退役せぬ者の割合が、サヌスト軍より多いようだ。
それから、五万名以上の兵士を麾下に置く将軍は、独自の称号を下賜され、伯爵と同程度の格を有し、子爵や男爵より上席に座る。まあ貴族と違って世襲はできぬため、長年をかけて財を蓄えた子爵や男爵の方が金は持っているし、偉そうにしているそうだ。
パー・ダン傭兵団のクィーズスでの後ろ盾であるサザーランド子爵は、獅子心将という称号を有し、役職としては、東部防守軍最高将帥だそうだ。東部防守軍最高将帥というのは、旧来のサヌスト軍の東方守護将軍と似たものであるが、東方守護将軍と違って国境警備はせず、国内の治安維持のみを管轄する。ちなみに国境警備は、東方国境防守軍がしているそうだ。国境の検問も東方国境防守軍の担当だそうだ。
ヴォクラー教関連の施設であるが、王宮のように眺めただけで終わった。クィーズス王国全土を担当するブレンダン大司教の聖堂派、ヴァシパラティを担当するデヴォン司教の教会派に分かれ、派閥争いをしているようで、王都民以外は近づかぬ方が良いそうだ。
ちなみにヴァシパラティのみを担当するデヴォン司教が、クィーズス全土を担当するブレンダン大司教と派閥争いをする程の勢力を有するのは、イライアス二世がデヴォン司教を贔屓にしているからだそうだ。いや、正確に評せば、ブレンダン大司教がイライアス二世に嫌われているそうで、大司教の対抗馬としてデヴォン司教に力を蓄えさせ、いずれはクィーズス全土担当の大司教に、デヴォンを就けさせるつもりである、というのがリンを含む大部分のクィーズス王国民の見立てだ。
聖職者が政争に巻き込まれているのか、聖職者が政争を主導しているのか知らぬが、いずれにしても教皇になったら枢機卿団に伝え、どうにか対処させよう。
夕食を外で食べ、ホスピティウムに戻り、アキの部屋で寛いでいると、リンが来た。何やら紙束を抱えている。
「ファブリス様、どうぞ」
「これは?」
「報告書です。今日行った所について纏めてありますから、お二人の感想を書いて仕上げてください」
「感想欄はいらぬな。それに報告書はエヴェルとマルセルが書いているはずだ」
「一応、ですよ。それから、こっちは明日のオススメの場所です。アベック向けの場所を選んでおきました。あ、別にここに行けっていう訳じゃなくて、単なるオススメなので参考までにどうぞ。で、これはヴァシパラティ全体の地図で、こっちにはここからそれぞれへの行き方を纏めました。例えばこれだったら、王宮の南門への行き方が書いてあって…」
リンはそれぞれの説明をしながら、何枚も紙を重ねて置いた。一度に言われると覚えられぬが、地図を見る限り綺麗に纏まっているので、話は聞き流しても良いように作ってあるようだ。
説明が終わると、地図やら案内書やらを纏め、冊子にした。指二本分程の厚さがあり、ちゃんと製本すれば、それなりの額で売れそうである。
「ユキさんにも同じものをどうぞ」
「おぬし、いつから書き始めていた?」
「今日帰ってきて、ちょっと経ってからですね」
リンは当然のように言うが、早すぎる。俺達は帰ってきてから、それほど経っていないのだ。俺であれば、最初に出された報告書すら完成しておらぬだろう。せいぜいその半分だ。まあ俺は遅筆であるから、エヴラールなどは完成させてしまうかもしれぬが、さすがに冊子は無理だ。
「いやいや、おかしいだろ。旦那様と一緒にここに来る事を事前に知っていないと、この量は無理だろ」
「ユキさんには言ってませんでしたっけ?」
「何を?」
「私は両利きなんですよ。同じ内容の場合に限りますけど、両手で書けますよ。それに右手と左手を競争させるつもりで書いていると、どんどん速く書けるようになります」
「いや、そんなことは無いだろ」
「ではリンよ、ユキがこれから言うことを、ユキが話す速度と同じ速さで書いてみよ。ユキ、ヤマトワの早口言葉を言ってみよ」
「待って下さいよ。ヤマトワ語なんて知りませんよ」
「魔王語と同じだ」
「じゃあ書けません。魔王語はまだ読み書きできませんから」
「そうか。ではユキの言った事をサヌスト語に訳して書いてみよ」
「同時翻訳なんて初めてですけど…やってみますね」
リンは書く用意をすると、水を飲んだり、首を回したり、『アー、アー』と言ったり、色々と準備をしているアキを眺めて待った。
「よし、始めるぞ。シンセツシンサツシツシサツヒンシノシシャセイサンシャノシンセイショシンサギョウセイカンサツササツシシンセツナセンセイザイシャヒッシノシッソウ。意味は知らん」
「書けましたっ!」
アキが言い終えるとほぼ同時にリンも書き終えた。アキもかなり早口で、俺は何を言っているかも分からなかった。もしかすると、聞き取り能力も試すことになったかもしれぬ。
「どうですか?」
『新設診察室視察、瀕死の死者、生産者の申請書審査、行政観察査察使、親切な先生、在社必死の失踪、意味は知らん』
リンが差し出した紙を見ると、サヌスト語でそう書いてあった。ヤマトワ語の原文も、サヌスト語の翻訳文も意味が分からぬが、確かにそんな事を言っていたような気がする。
それにしても、殴り書きに見えたが、丸みを帯びた可愛らしい綺麗な字だな。
「旦那様、ワタシもどういう意味か知らんぞ。一番難しい早口言葉だと爺様に聞いて、音だけ覚えたのだ。だからサヌスト語に訳されると、ワタシも正解かどうか分からん。それから、サヌスト語の読み書きは苦手だ」
「完全な盲点であった。俺がヤマトワ語に訳して読んでやろう。ユキはそれが合っているか否かを判断せよ」
「言ってみろ」
「新設診察室視察、瀕死の死者、生産者の申請書審査、行政観察査察使、親切な先生、在社必死の失踪、意味は知らん」
俺はリンの翻訳文をヤマトワ語に反訳した。俺は直訳したつもりだが、リンが意訳をしていた場合、言葉が変わっている可能性もある。まあある程度は察してくれるだろう。
「あってる。大正解だ。最後のは早口言葉じゃないが、確かに言ったな」
「リン、良かったではないか」
「褒め言葉はありがたく受け取りますけど、別に私が試してくれって頼んだ訳じゃないですよ」
「確かに俺達が勝手に試しただけだな」
「リン、ワタシの部下になれ。一生不自由させんし、お前が気に入った男がいれば仲人をやってやろう」
「お断りします。伝えてあったはずですが、私はファブリス様の部下として、一生を捧げると、既に決めてました。仲人の件はお願いします」
「旦那様の部下ならいいか。で、仲人の件だが、どんな男がいい?」
「ここではちょっと…」
「そうかそうか。じゃ、リンの部屋に行こう。な?」
「はい…」
「じゃ、旦那様」
「ああ。強要はするでないぞ」
「分かっている」
アキはリンの手を引いて部屋を出ていった。酒は一滴も飲んでおらぬのに、まるで酔っているかのように機嫌が良いな。リンが俺の部下になったのがそれほど嬉しいのか、仲人を楽しんでいるのか知らぬが、アキが楽しそうであるならそれで良い。
仲人で思い出したが、アキに対し、カイとトモエ、ヒナツの結婚式を主宰せよ、との指示がタカミツ殿から届いているのだが、アキは未だに実行しておらぬ。忘れていなければ良いのだが。




