第294話
アキに手を引かれて食堂に着くと、壁に大穴が空いていた。薄い布で穴を隠しているようで、布の向こう側にはベッドが置いてある。まさか、な。
「ワタシは今から屋敷を閉鎖する。旦那様と姫は二人きりで食事を楽しみ、その後も楽しめ。明日の昼頃には戻るから、それまでに終わらせろよ。それじゃあ、閉鎖する。使用人も全部いなくなるから、自分のことは自分でするんだぞ。じゃあな」
アキは早口でそう言い、同じ内容が書かれた紙を壁に貼り付けて出ていった。俺もレリアも、何も反応できなかった。
「ごめんね、見てても止められなかった」
「仕方あるまい。俺でも止められぬ。それより食べてしまおうではないか。冷めてしまっては、味が落ちる」
「ねえ、ほんとに食べるの?」
「心配か。アキに俺やレリアを害する意思はなかろうが、俺が先に食べよう。俺は毒に強い」
「そういう意味じゃないけど…そういう意味でも大丈夫なの?」
レリアは別の心配事をしていたようであるが、媚薬効果について伝えたのであろうか。とすると、媚薬に対する不安か。それとも俺が先に発情期に入ってしまうことへの不安か。こういう時は安心させてやらねばならぬ。それが俺の使命だ。
「大丈夫だ」
俺はそう言い、手前に置いてあったスープを飲んだ。
かなり美味しい。何が美味しいか分からぬが、かなり美味しい。いや、美味しいというより、人で例えた場合のレリアのように、次元が違う。
キトリーの料理は既に完璧と称すべき域に辿り着いていたと思ったが、それ以上である。この短期間でこの成長は有り得ぬであろうから、アキの卵の効果であろうか。それとも、これまで手を抜いていたのであろうか。どちらでも良いが、美味いな。
「美味しいぞ」
「それは顔を見たら分かるよ。それより大丈夫?」
「ああ。異変はないぞ」
「ほんとに?」
「何度も言うが、俺はレリアに嘘は言わぬ」
「じゃあ、いつもより…あたしが魅力的に見えたりする?」
「ああ。レリアの美しさはこの世の美を…」
「そうじゃなくて、いつものあたしと比べて…どう?」
レリアはそう言って上目遣いで俺を見た。身長の関係で、いつも上目遣いになるが、今日はいつもより可愛く見えるな。
いつものレリアが劣っているというわけではなく、おそらく長らく離れていたため、俺の記憶が少しずつ劣ってしまったのであろう。記憶というものは、あまり信用できぬな。
「可愛い」
「ありがと。こんなこと言うのはアキに失礼かもしれないけど、媚薬なんていらないね」
レリアも媚薬効果について聞いていたようである。アキのことであるから、おそらく口を滑らせたのであろう。そして芋づる式に俺が知っている事も話したのであろう。
「媚薬としての効果は必要ないが、妊娠の補助としての効果は高そうであるぞ。どういう生存戦略か知らぬが、受胎の確率を上げる効果も高いそうだ」
「聞いたよ。でも…最初の子くらい、自力で身篭りたかったな」
「では、この料理はしまっておこう。アキには食べたと言っておけば良い」
「いいの?」
「ああ。異空間に入れておけば、腐らぬし、冷めぬ。ということで、異空間にある温かい料理を出そう」
「なんかアキに悪いね」
「ああ。ゆえに知られてはならぬ。俺とレリア、二人だけの秘密だ」
「そうだね」
俺はレリアを見ながら料理を全て片付けた。そして代わりに別の料理を出した。先の料理には及ばぬであろうが、この料理もキトリー作であるから、美味しいはずだ。
「では食べよう」
「なんか二人きりって変な感じだね」
「ああ。だが、悪くない」
「うん。悪くない」
レリアはそう言い、食事を始めた。俺もレリアを見つめながら食事を始めた。やはりレリアと共にする食事は最高だ。
空腹は最高の調味料と言うが、俺にとってはレリアが最高の調味料ということになるらしい。食事に限らず、何をするにしても、レリアと一緒が一番だ。
年内は待命状態の続行を要請し、この生活を満喫したいものだ。いや、そんな事をせずとも、任務を早く終わらせれば良いのか。今回の叛乱鎮圧に際しても、遠慮せずに魔法で叛乱軍を壊滅させれば、早く帰れたのだ。まあそんな事をしては、味方から反感を買うであろうし、後処理なども面倒そうだ。第一、アルフレッドの生死が分からねば、生きている現状よりも厄介な状況になったであろう。
「ねえ、そんな真剣な顔して、何考えてるの?」
「レリアと少しでも長く一緒にいるためにはどうすべきか、と。結局、早く勝って早く帰るしか思いつかぬ」
「そんなの簡単だよ。あたしを強くして、あたしを仕官させて、一緒に連れてってくれれば、ずっと一緒にいられるよ」
「そんな事はできぬ。俺はこう見えても心配性であるから、たとえレリアが俺より強くなったとしても、レリアには安全地帯にいてもらわねば、何も出来なくなる。であるから、たとえレリアが望んだとしても、そうはさせぬ。俺の持てる全ての権力と権威を使って、人事担当に圧力をかけ、レリアを解雇させる。いや、そもそも軍には入らせぬ。俺としては、レリアと離れるのは辛いが、完全な悪手という訳でもなく、かと言って…」
「分かってる。分かってるって。冗談で言ったんだけど」
「ああ。だが、肝の冷える冗談はやめてくれ。冷静さを失う」
「ごめんね。でも、気持ちだけは連れてってね。ずっと応援してるから」
「ああ。存分に縋らせてもらおう。レリアが応援してくれていると分かれば、それだけで百人力だ」
「頑張ってね、て言おうと思ったけど、しばらくはゆっくり休んでね。ずっと寝ててもいいけど、たまには起きてね」
「いや、レリアと過ごしていた方が休まる。レリアが起きている間は起きているし、寝顔も見たいから、寝た後もしばらく起きている」
「寝顔…やっぱり見てた?」
「ああ。悪いとは思いつつ、欲望には逆らえなかった」
「そんな事知っちゃったら、今日から寝るのも緊張しちゃうよ。変な顔してなかった?」
「変な顔などするものか。いつも、いい夢を見ているのか、それともただ気持ちよく眠っているだけか、凄く幸せそうな顔をしているぞ。俺はそれを見て幸せになる」
「あ、その事でちょっと相談なんだけど、いい?」
「ああ。俺に出来ることであれば、何でも叶えよう」
俺に出来ることなど限られているかもしれぬが、病気なら医者を呼ぶし、寝具が悪いなら寝具職人を呼ぶ。どうにか解決できるであろう。いや、解決せねばならぬ。
「最近、あんまり眠れないんだよね。眠りが浅いって言うか、寝てもすぐに起きちゃうんだよね」
「体調は大丈夫なのか?」
「今は大丈夫。だけど、昨日まではそんなに良くなくって、外に出ない日とか、食欲が全くない日もあったんだけど、ジルの顔を見たら、そっちは治っちゃった」
「すると、今日はレリアこそ、ゆっくり休むべきではないか?」
「だめ。こんなにお膳立てされちゃったら、後に引けないでしょ?」
「いや、レリアの体調が…」
「後には引けないからね。ね?」
「…そうであったな。後には引けぬ」
レリアと話していると、食事の残量にも気が回らぬようで、いつの間にか食べ終わっていた。
今はアキが屋敷を封鎖しているから良いが、明日からは俺が周囲を警戒せねばならぬ。気を引き締めねばならぬな。
「こんなこと言ったら痴女みたいで幻滅しちゃうかもしれないけど、少しでもジルを感じたら、最近なんて名前を聞いただけで、その…悶えちゃうんだよ。もう二ヶ月もご無沙汰なんだから、ね?」
「同感だ」
俺はレリアの肩を抱き、壁に空いた大穴をくぐった。こうなると、食堂の隣に寝室を造ったアキには感謝せねばならぬな。人目を気にせず、すぐ事に及べるのはありがたい。




