第290話
俺は誰にも見つからぬよう、屋敷に入った。レリアの気配は談話室からする。アキから伝わっていたら、俺を迎えに来てくれるはずであるから、おそらくアキは弟妹に会いに行ったのであろう。
天眼で調べると、談話室にはレリアとアルテミシア、サラがいる。茶でも飲みながら話しているのか。
「開けるぞ。もう一度言うが、腰を抜かすでないぞ」
「はい」
俺は再度アデレイドに忠告し、扉を開けた。すると、その瞬間、レリアが抱きついてきた。
「ジル、おかえりっ!」
「ただいま、レリア。よく分かったな」
「ジルが近づいたら分かるよ………あれ?」
「どうした?」
「誰かついて来てるよ」
レリアはしばらく俺に抱きついてから、アデレイドに気づいたようだ。俺に夢中になってくれるのは嬉しいが、暗殺未遂があったのに警戒心が無さすぎるな。その分、俺が警戒しておこう。
「連れてきたのだ。相談せずに決めてしまって悪いのだが…」
俺は談話室にソファに座りながらそう言った。レリアが俺の隣に座り、アデレイドはアルテミシアの隣に座った。俺とアデレイドのために、サラは茶を淹れ始めた。
「あ、マルフェ提督の子?」
「知っているのか?」
「叔父さんが言ってたよ。ジルに提督を押し付けられて、その前任者の娘をジルが引き取ったって」
「もう帰って来ているのか?」
「うん。昨日ね。しばらくジルのこと言ってたよ。義理の甥のくせに、俺に仕事を押し付けやがって、とかね」
「そうか…謝りに行かねばならぬな」
「いいよ、そんなの。ジルが良かったら、もっと押し付けちゃっていいよ。五十歳を過ぎてるのに遊び歩いてるなんて、ちっちゃい子の教育には良くないよね?」
「ちっちゃい子…」
『ちっちゃい子』という語にアデレイドが反応したが、おそらくファビオやカイ、ユキのことであろう。俺からしてみれば、アデレイドも『ちっちゃい子』であるが。
「あ、ジルに弟が三人いてね。下の二人が五歳と一歳だっけ?」
「いや、一歳に満たぬのではないか?」
「ウルはついこの前、一歳になったんだって。ファビオは五歳だっけ?」
「…おそらくな」
ウルの誕生日を過ぎていたのは初耳だ。また誰かに聞いておこう。ファビオの誕生日も聞いておいた方がよかろう。
「そういうことだから、えと…名前は?」
「アデレイド、です」
「アデレイドちゃんね。あたしはレリア。よろしくね」
「よろしくお願いします」
「でね、そういうことだから、ちっちゃい子っていうのは、アデレイドちゃんのことじゃないからね」
「あ、はい」
アデレイドは自身が『ちっちゃい子』と呼ばれているとは思わなかったのか、少し驚いていた。もしかすると、ただ小さい子が好きなだけかもしれぬ。末娘と聞いているし、心のどこかで弟妹を欲しているのかもしれぬな。別に聞いたわけではないから、全くの逆で、小さい子が苦手なのかもしれぬ。
「そんな事より、レリア、大事な話がある。サラ、適当な部屋をアデレイドにあてがってやれ。それから、護衛も兼ねて人狼の侍女をつけよ。人選はおぬしに任せる。では頼んだ」
「はい。お荷物は…?」
「出そう」
俺はそう言い、異空間からアデレイドの荷物を出してやった。纏めてあったので、サラなら持って行ける。
「アデレイド、先の頼みは忘れよ。どうやら近くにはおらぬようだ」
「分かりました」
「では遠慮せず過ごすといい」
「はい。ありがとうございます」
アデレイドはそう言い、サラに連れられて退室した。遠慮せずに、というのは言う必要などなかったかもしれぬが、レリアの前であるから、つい気取ってしまったな。
「で、大事な話って何?」
「その事だ。まずはアルテミシアよ、レリアを助けてくれて、礼を言う。おぬしには礼をせねばならぬ。何か欲しい物があれば言ってみよ」
「いえ、そんな…」
「そうか。焦る必要はない。思いついた時に言ってくれれば良い」
「ありがとうございます」
アルテミシアがいなければ、レリアはどうなっていたか…どうにか別の方法で助かったかもしれぬが、レリアを助けてくれたのは事実だ。アルテミシアには一生…は言い過ぎかもしれぬが、少なく見積っても十年分の恩はある。何としてもこの恩を返していかねばならぬ。
「え、大事な話ってアルテミシアだけ?」
「いや、レリアにもある。レリア、猫を飼い始めたそうだな」
「うん。ジルが帰ってきたら相談しようと思ったんだけど、それまで逃がすわけにはいかないからね。正式にはジルと相談してからだよ」
「いや、猫を飼うのは良いのだ。ただ、レリアに害をなした個体でなくても…」
「害をなしたって…甘噛みだよ?」
「いや、甘噛みでも全治三日の重傷と聞いたぞ」
「三日もせずに治ったし、重傷じゃないよ。ほら」
レリアはそう言い、右手を俺に向けて差し出した。
俺はレリアの右手に触れた。やはり、レリアは指先まで美しい。美の化身だ。一ヶ月も離れていると、かなり淋しさを感じたものだが、先の抱擁といい、レリアに触れていると、少しずつ淋しかった気持ちを忘れられる。
いや、そんなことを考えている場合ではない。レリアの手に傷痕らしきものは見当たらぬし、魔力の流れなどを見ても、いたって健康だ。
「ね?」
「ああ。しかし、改めて思った。かように美しきレリアの手を一時的にとはいえ傷つけた畜しょ…いや、猫など、やはりレリアの傍に置いておくのは危険だ」
「でも…ほら、ダメ?」
「俺は今のところ反対だ」
「あの、よろしいですか?」
アルテミシアが軽く片手を上げ、そう言った。俺とレリアの会話に割り込むとは、アルテミシアでなければ、不快感を露わにして威圧しているところだ。アルテミシアには恩があるし、そもそもレリアの友人であるから、そのような事はせぬ。
「何だ?」
「先ほど仰った、姫様をお助けした褒美について…」
「…今でなければならぬか?」
「はい。今、お願いします」
「言ってみよ」
「姫様の願いを聞いて差し上げてはくれませんでしょうか」
「アルテミシアもこう言ってるんだし、お願いっ。ね、いいでしょ?」
アルテミシアには返し切れぬ恩があるから…しかし、それにしても、手を合わせて上目遣いでこちらを見るレリアも可愛いな。こういう姿を見るために、拒否し続けてしまいそうになるほどだ。
「しかし…」
「ダメ?」
「…俺は反対だ」
「そう。交渉決裂だね。行こ、アルテミシア」
「あ、はい」
レリアがアルテミシアの手を引いて、部屋を出てしまった。俺は驚きのあまり、制止の声すら出ず、動けなかった。
「旦那様、ちょっと来い」
「…アキ」
「ちょっと来いと言ってるだろ」
「何だ?」
「だから、来いと言ってるだろ。早く来い」
いつの間にか現れたアキは俺の手を引き、屋敷の二階に進んだ。このようなことをしている場合ではないのだが。というより、アキを構っている場合などではない。早くレリアを追わねばならぬのに。
「で、何だ?」
アキは寝室の前で止まった。まだ夕方と称すのも早い頃であるのに、わざわざ寝室に来る必要などなかろう。
「庭の方を見てみろ」
俺はアキの言う通り、寝室に入って窓を開け、庭を見た。すると、レリアとアルテミシア、トモエがいた。
「こらーっ!許しなさーいっ!」
レリアが円錐型に丸められた紙に口を当て、そう叫んだ。
「にゃんこを飼って何が悪いんだーっ!許せー、ジルーっ!」
「返事してやれ」
アキがそう言い、レリアと同じ形の紙を俺に渡した。俺はレリアの真似をし、口の前に構えた。
「飼っても良いぞっ!」
「ほんとにーっ?」
「レリアに嘘は言わぬ」
「やったーっ!」
レリアは円錐型の紙を落とし、飛び上がって喜び、アルテミシアに抱きつきながら、トモエに礼を言った。円錐型の紙はトモエが拾い、満足そうに潰した。
「ちょっと待っててね。今そっちに行くから」
レリアはそう言い、駆け足で屋敷に入ってきた。迎えに行きたいが、レリアが待つように言ったので、寝室の入り口でレリアを待つことにした。




