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Cafe Shelly

Cafe Shelly ソープ嬢から教わったこと

作者: 日向ひなた

 俺がちひろと出会ったのは、運命だったのか。それともただの偶然だったのか。それはただの気まぐれ、偶然と言ってもおかしくなかった。

「ねぇ、今日一緒に飲みに行かない?」

 俺はこの日、ちょっと気分がむしゃくしゃしていた。仕事で上の人間からいわれのないことで怒られたから。ありゃ、単なる自分のストレス発散だな。巻き添えを食らった俺はたまったもんじゃない。

 そのストレス発散に、繁華街でナンバをすることに。学生時代はよくナンパをしてはその場限りの関係を求めていたものだ。

 社会人になってからは、そんなことをするのはほとんどなかった。が、なぜだかこの日は無性に何かで気晴らしがしたくて。昔のことを思い出して街へと足を運んでいた。

「ねぇ、これから一緒に飲みに行かない?」

 一人で歩いている、年頃のかわいい女性に片っ端から声をかける。が、なかなか相手をしてもらえない。まぁ、ナンパなんてそういうものだから。

「ふぅ、ちょっと休憩するか」

 俺は近くのコンビニの前に置いてある灰皿のところへ向かった。タバコでも吸って、気分を落ち着けるか。

「ねぇ、あたしじゃダメ?」

 突然声をかけられびっくり。そこには一人の女の子が。

「あたしじゃダメって、一緒に飲みに行きたいのか?」

「うん、あんたさっき、ずっとナンパしてたでしょ。あたし、ここで見てたんだ」

 その女の子、見た目はとてもかわいらしい。言葉はちょっと乱暴なところはあるけれど、まぁ一緒に飲むには楽しそうだ。うまくいけば、アフターも楽しめるかも。

「よっし、じゃぁ行くか」

 俺はさっきつけたばかりのタバコを急いで消して、その子と歩き出した。

「きみ、名前は?」

「ちひろ、あんたは?」

「俺はみつる。桐山みつるっていうんだ」

「仕事はなにやってんの?」

「駅前に観光ホテルあるだろ。あそこでホテルマンをやってる。といっても下っ端だから怒られてばっかだけどな」

 ちひろはなんかノリがいい。俺もちひろと話すのが自然で、そしていろいろな言葉がすぐに浮かんでくる。

 居酒屋についても、しばらくはちひろが俺に質問、俺がそれに答えるといったパターンでの会話が続いた。ちひろ、なんだか俺にかなり興味を持ったようだ。

 ようやくちひろの質問攻めも落ち着いたところで、今度は俺からの質問のターンだ。

「ちひろは仕事、何やってんだよ?」

「えっ、私?」

 ちひろはここでちょっとうつむく。

「ま、まぁ、サービス業ってとこかな」

「ってことは、なんかの販売やってんの?」

「ん、そんなとこ」

 ちひろの答えはちょっとあいまい。まぁ、そんなことはどうでもいい。俺は今を楽しく過ごせれば、それでいいんだから。

 結局、ちひろとは意気投合し、そのままラブホへ。その場限りの関係で終わるんだろうなぁ。そう思いながら、ベッドの上のちひろをあらためて眺めてみる。

 かわいいよな、この子。発言がちょっと乱暴なところはあるけれど、根はいい子っぽいし。それに、ベッドの上の彼女もとても素敵だった。もう少し付き合ってみたいな。

「ね、みつる」

「ん、どうした、ちひろ?」

「あのさ、また逢ってくれない?」

 まさか、ちひろからそんな言葉が出てくるとは。ちょっとびっくりだった。

「あ、あぁ、いいよ」

「じゃぁ、LINE交換していい?」

「あぁ、わかった」

 ちひろとLINEのIDをベッドの上で交換しあう。ちょっと前までだったら、電話番号かメールアドレスだったのが。今ではLINEって時代なんだよなぁ。まぁ、俺も当たり前にLINE使ってるし、下手に電話番号を知られるよりはいいかな。

 こうやってちひろとの初対面の日は終わった。

 翌日、ちょっと上機嫌で仕事に向かう。俺を一方的に叱りつけた上司にも、ニコニコ顔であいさつ。というか、これは処世術。いつまでも上司に遺恨を残していると、自分の仕事にも影響する。

 なにしろ、俺の仕事はホテルマン。お客さまにはいつも笑顔で対応しなければ。だから。いつまでもふくれっ面で相手はできない。自分を頼りにしてくれる人もいるんだから。そこはきちんと割りきらねば。

「桐山くん、おはよう」

「桐山さん、あとで教えてほしいことがあるんだけど」

「みつるくん、今日も調子いいね」

 朝、ホテルの中に入っているショップの様子をうかがいに行く。すると、口々にこういう言葉が飛び出してくる。これはとても気持ちいい。自分がやっていることが認められているという気になるから。

 自分で言うのもなんだが、俺は仕事はできる方だと思う。俺を頼りにしてくれる人は結構いるし。こうやって向こうから声をかけてくれるし。

 そうやって回っていると、ジュエリーショップの女性店員から声をかけられた。ちょくちょく話す人で、俺にとってはおねえさんみたいな立場の人。

「みつるくん、ちょっと」

「はい、なんでしょうか?」

「あのさ、昨日誰かと飲みに行かなかった?」

「えっ、あ、まぁ、行きましたけど」

 やべっ、ナンパしてたのを見られてたかな? まぁ、見られたところで別に構わないけれど。

 しかし、予想外の言葉がその人から飛び出した。

「あのさぁ、昨日一緒にいた子、私の妹なんだよね」

「えっ、えぇぇぇっ!」

 さすがにこれには驚いた。聞けば、昨日の夜中にえらく機嫌よく帰ってきたので、何かあったのか聞いたところ、ちょっといい人と出会ったって。どんな人か聞いてみたところ、まさに俺だったのでびっくりしたらしい。

「まぁ、別に妹とどうなろうと、みつるくんの勝手だけど。でも、さすがに驚いたなぁ」

 いやいや、これからどうしようかな。ただでさえホテル内に入っているショップの人たちとは仲良くしていかなきゃいけないのに。

「ま、妹のことよろしく頼むね」

 よろしく頼むと言われても、別に付き合っているわけではない。俺としては一夜限りの関係としか思っていないから。って、まさかラブホに行ったことまで話したんじゃないだろうな。

 そんな不安を抱えながらも、なんとか今日一日の仕事を終えることができた。幸い、あれからこのことについて何も言われなかったのが救いだった。

 この日、仕事が終わろうかという時間になんとちひろからLINEが入った。

「やっほー、おしごとがんばってる?」

 全てひらがななのは、なんだかちひろらしい。そのあとに送られてきたスタンプも、おちゃらけた犬のもので笑えるものがある。

 ったく、しょうがねぇなぁ。そう思いつつ、既読スルーするのもなんなので一言返す。

「ま、それなりにやってるよ。ちひろは?」

 さて、帰るかな。そう思った瞬間、ちひろから返事が。それはスタンプのみの返事。そこにあったのはこんな意味のスタンプ。

「今日も絶好調!」

 立て続けに、こんなスタンプも。

「また会いたいなぁ…」

 俺、よほどちひろに好かれてしまったようだ。まぁ、かわいいし愛嬌はあるし。ちょっと頭が弱いかな、と感じるところもあるけれど。でも、遊び相手としては悪くはない。

 ちょっと考えて、こんな言葉を送り返した。

「ちひろ、次は休みいつ?」

 すると、速攻で返事が返ってくる。

「月曜と木曜!」

 土日が休みの仕事じゃないのか。そういえばサービス業って言ってたよな。シフト制なのかな?

 まぁ、俺の仕事も休みは不定期だし。幸い、木曜は俺も休み。独り身なので休日はゴロゴロしているだけだし。

「じゃぁ、木曜日に」

 送信っと。ということで、今度の木曜日にちひろとデートをすることになった。その翌日、早速ちひろの姉、ジュエリーショップのおねえさんから声をかけられた。

「みつるくん、今度ちひろとデートするんだって?」

「えっ、もう知ってるんっすか?」

「ちひろ、やたらとはしゃいでたんだよね。またみつるくんとデートできるって」

 ちひろって、まだまだ子どもだなぁ。ちょっとかわいく思える。

「でさ、デートの時にちひろを連れて行って欲しいところがあるの?」

「どこですか?」

「喫茶店なんだけどね。カフェ・シェリーっていうの。そこのコーヒーを飲ませてほしいのよ」

「は、はぁ」

 なんでわざわざお店を指定してコーヒーを飲ませようと思っているんだろう?

「そこのコーヒーは魔法のコーヒーって呼ばれているの。そこでちひろが今本当に望んでいるものを聞き出してほしいのよ」

「ちひろが欲しいもの、ですか?」

「ま、行けばわかるよ」

 ということで、カフェ・シェリーの場所を聞いてデートコースに盛り込むことになった。それにしても、魔法のコーヒーってどういう意味なんだろう?

 そうしてやってきた木曜日。久々に落ち着かない朝を迎えた。

 ちひろは昨日の夜は遅くまで働いていたらしく、待ち合わせは昼過ぎとなった。どうやら夜型の仕事らしい。

「おまたせーっ」

 待ち合わせたのは駅前の噴水。ここは待ち合わせのメッカとなっている。ちひろの格好は、タンクトップにショートパンツ。ちょっと肌の露出が多いかなって感じ。まぁ、似合ってるからいいけど。

 対する俺は、黒のジャケットに黒のパンツ、ちょっとシックにキメてみた。

「ね、どこいく?」

「連れて行きたい喫茶店があるんだ」

「ふーん、喫茶店かぁ。なんかめずらしいね」

 俺も初めて行くところ。場所は下調べをして、位置は確認しておいたが、どんなところなのかはさっぱりわからない。

「あ、この通りあたし好きなんだ」

 カフェ・シェリーがある通りは、街中の脇にある狭い路地。車一台が通るくらいの幅だが、両側にはレンガでできた花壇がある。そこに並ぶお店は、雑貨屋もあれば歯医者やブティックなど、いろいろだ。

 その通りの真ん中くらいに、カフェ・シェリーのメニューの黒板を発見。その下にはこんな言葉が書いてあった。

「真実は一つでも、解釈は無限にあります」

 どういう意味だろう? まぁ、確かに言われるとそうなのだが。

 早速お店にはいる。お店はビルの二回。ちひろがちょっとはしゃぎながら先行して階段を駆け上がる。後ろから私。ちひろのミニのスカートがとても気になって仕方ない。まぁ、俺も男だからなぁ。

カラン・コロン・カラン

 ドアを開けると、心地よいカウベルが鳴り響く。同時に響く女性の「いらっしゃいませ」の声。さらに、漂ってくるコーヒーの香り。その中に混じっている甘い香りがさらに雰囲気を高めてくれる。

 私もいろいろなお店を見ているが、この雰囲気は閉鎖した空間でなければつくることはできない。うちのホテルのような開放感が必要なところでは無理だ。

 あ、つい仕事目線でお店を見てしまうのは職業病だな。

「へぇ、なんか雰囲気あるー」

 ちひろも俺と同じような感覚を持ったようだ。

「いらっしゃいませ。あちらの窓際のお席はいかがですか?」

 女性店員から進められた席は、半円型のテーブルに四つの席が並んでいる。改めて見ると、真ん中にある三人がけのテーブル席は女性客で埋まっている。カウンターの席にも男性が三人、ここのお店のマスターと仲良さそうに話をしている。

 狭いお店ではあるが、狭苦しさはない。適度な空間配置だ。

「あのぉ、ここに魔法のコーヒーというのがあると聞いて来たんですけど」

 俺は早速、ウェイトレスさんにちひろのおねえさんから聞いた、魔法のコーヒーのことを尋ねた。

「シェリー・ブレンドのことですね。ではご注文はこれでよろしいですか?」

 あ、やっぱりそういうのあるんだ。ちょっと一安心。

「じゃぁ、それを二つお願いします」

「ねぇねぇ、魔法のコーヒーって何?」

 ちひろはおねえさんからは聞いてないのか。そういえば、俺とおねえさんがつながりを持っていること、知らないのかな? このことはしばらく黙っておこう。

「うん、俺も人から聞いたからよくわかってないんだけど。とにかく飲んでみればわかるんじゃないかな」

 ここで下手に「欲しいものがわかる」なんて言っちゃうと、ちひろに警戒されるかもしれない。黙って成り行きを見守ってみよう。

「あーっ、このクッキーおいしそう」

 ちひろが突然叫ぶ。指差したのは入り口近くに置いてある、袋に入ったクッキー。

「クッキーかぁ。ちひろ、食べたいの?」

「うん、食べたい」

 ホント、ちひろは子どもだな。でも、確かにおいしそうなクッキーだ。

「あのー、すいません。このクッキーもいただけますか?」

「はい、ではお代はあとでいただきますね」

 俺は適当な袋を一つつかんで席に戻る。するとちひろはスマホをいじりはじめていた。まぁ、このへんは最近の子だなぁと思った。が、その考えはすぐひ否定された。

「あ、ありがとー」

 そう言うと、ちひろはすぐにスマホをバッグにしまって俺の方を向いた。てっきりこのままスマホをいじりながらの会話になると思っていたのだが。これは予想外の出来事だった。

 そこからはたわいもない、最近の出来事とかの話をする。この時点でちひろの口からおねえさんのことが出てこないところを見ると、おねえさんは俺のことをちひろには話していないと思われる。

「お待たせしました。シェリー・ブレンドです。飲んだらぜひ、どんな味がしたかを教えて下さいね」

 味を教えて下さいって、めずらしい言い方だなぁ。そう思いつつ、この魔法のコーヒーに早速口をつける。

 うん、香りといい味といい、結構いい感じのコーヒーだ。俺はそれなりにいろんなところのコーヒーを飲んでいるが、おそらく今までの中でも良い部類に入る。

 だが、その後に感じたこの感覚には驚かされた。ふんわりとした、やわらかなものに包まれた安心感。なんだ、これは?

 ここでふと思い出した。ふんわりとした、やわらかなものに包まれた感覚を。ちひろと一夜を共にした時の、あの日の感覚だ。ちひろは俺のことを、俺の体を優しく、そしてやわらかく包み込んでくれた。まさに、ふんわりとした感じだった。

「えっ、なんで?」

 この声で我に返った。声の主はちひろ。なにやら驚いているようだ。

「ちひろ、どうした?」

「なんか…なんかさ…あたし…」

 そう言うと、ちひろは涙を流しはじめた。一体何があったんだ?

「大丈夫よ。それがあなたが欲しがっていたものだから。まずはその味を、そしてその感覚を受け止めてみて」

 店員さんがちひろの背中をさすりながら、優しくそう言ってくれる。それで落ち着いたのか、ちひろは大きな深呼吸を一つして、やっと顔を上げてくれた。

「ちひろ、何があったんだ?」

「あのね、コーヒーを飲んだら思い出したの。あたし、こんな人生を送りたかったんじゃない。夢があったの。服飾デザイナーになって、たくさんの人にあたしが作った服を着てもらうって。でも、でも…」

 そこからまた、ちひろは黙りこんでしまった。何か言いたくないことがあるのだろう。今度は俺がちひろの背中をさすってあげた。

「そっか、ちひろにはそんな夢があったんだ。だったら今からでも遅くないよ。夢はいつからでも叶えられるって」

「…うん」

 ちひろは小さくうなずいた。が、まだ目には涙を浮かべている。

 結局、この日のデートは今ひとつ冴えないものとなった。夜に居酒屋に行って、それなりに会話を楽しんだが、ちひろは自分の過去のことを一切話してくれない。この日はそのまま別れることとなった。

 翌日、いつものように朝ホテルの各店舗を回っていると、あのジュエリーショップのおねえさんから声をかけられた。

「みつるくん、妹の願望って聞けた?」

「あ、はい。服飾デザイナーになりたかったって。でも、ちひろはそれ以上のことを話してくれなくて。何かあったんですか?」

「うん、まぁちょっとね。でも、今の段階じゃみつるくんには話せないかな」

 よほど深刻なことがあったとみえる。俺はそれ以上のことをあえて聞かなかった。

 そんなことがあったが、それからのちひろとのつきあいはまずまずであった。会える日は月に二回くらいしかないため、LINEでの会話が多い。相変わらずちひろは、過去のことや今やっている仕事のことは一切話してくれない。気がつけば四ヶ月が経過していた。

「あのさ…ちょっと相談があるんだけど」

 いつものように午後からデートをしていたある日、ちひろからそう言ってきた。

「なに?」

「あたしね、そろそろ家を出ようと思ってるの。今、実家で暮らしているんだけど、いつまでも甘えてちゃいけないと思って」

 そうだったな。おかげでおねえさんからはちひろの情報をいろいろと聞くことができていたんだけど。

「いいんじゃない。でも、どうして突然そんなふうに思ったんだ?」

「前にさ、コーヒー飲んだじゃない。あのときから、もう一度服飾デザイナーを目指してみたいって思って。でも…」

「でも?」

「また親に甘えちゃうかもしれない。だから独り立ちしなきゃって」

「それはいい考えじゃない。で、どこか住みたいところとかあるの? 家賃はどのくらい? あ、女性の一人暮らしは心配だから、ちゃんとしたところがいいよな。俺、不動産にも知り合いいるから紹介しようか?」

「う、うん。でもね、そんなに余裕ないの。だからお願いがあって…」

「えっ、な、なに?」

 まさか、このときにちひろがこんなことを考えているとは。思いつきもしなかった。

「みつるくんと一緒に住めないかなって」

「はっ? い、一緒に!?」

 ちひろ、いきなり何を言い出すかと思ったら。けれど、ちひろの話を聴いてちょっと納得した。

「あたしね、みつるくんに生活を頼ろうってわけじゃないの。もちろん一人で住むのがいいのはわかっているんだけど。でも、一人になりたくないの。昔のことを思い出しちゃうから…」

「昔のことって?」

「それは…またゆっくり話すね。でね、家賃とかはちゃんと半分払う。もちろん光熱費も。食事は時間が合わないだろうから、一緒に食べることは少ないかもしれないけど。でも、それもちゃんと折半する。今頼れるのはみつるくんしかいないの」

 そこまで言われたら、俺も気持ちが揺らぐ。というか、ちひろの役には立ちたいと思っている。俺はどうしたいんだろう?

 ここでふと、あのコーヒーを思い出した。魔法のコーヒー、シェリー・ブレンドだ。確か店員さん、あのときこんなことを言っていた。

「このシェリー・ブレンドは、今自分が望んでいるものの味がするの。人によっては、そのイメージが映像として湧いてくることもあるの。だから何かに迷った時に、本当に自分がどうしたいのか、それがわかることもあるのよ」

 俺がどうしたいのか。ここは一つ、あのコーヒーにかけてみよう。

「ちひろ、あの喫茶店に行かないか。カフェ・シェリーに」

「えっ、あ、あそこ? うぅん、あたしは遠慮しとく」

「どうして?」

「どうしてって…」

 ちひろは何か自分に都合が悪いことが起こると、口をつぐんでしまう癖がある。今回も何かありそうだ。

「仕方ねぇな。俺はあのコーヒーを飲みたいんだ。そしてちひろの提案に対してどうするのか、その答えを決めたいんだよ」

「…わかった。でもあたしは一緒には行かない。今日はここでバイバイね」

 結局ちひろは俺と分かれて別行動となってしまった。どうしてちひろは一緒に行かないんだろう。

 その理由は、カフェ・シェリーに行ってすぐにわかった。

「いらっしゃいませ」

「シェリー・ブレンド、お願いします」

「かしこまりました。シェリー・ブレンドワン。あの、失礼ですけど、前に彼女さんと一緒に来られましたよね?」

「えぇ、そうですけど」

「うぅん、話しておいたほうがいいかな。本当ならプライバシーの問題もあるんだけれど。でも、あなたに関わることだから」

「えっ、な、なんですか?」

「彼女さん、あれから何度もここに来たんです。そして、これからのことを何度も相談しに来て。そしてやっと結論が出たみたい」

 そうだったのか。店員さんの話は更に続く。

「そこで彼女、こんなことを言っていました。私の彼に全部頼りたくない。けれど、私の心を埋めてくれるのは彼しかいない。だから、私の心を埋めて欲しいって。過去に何かあったようですが、そこは話してはくれませんでした」

 ちひろの過去に何があったのか、それは俺も知らない。けれど、ちひろの心を埋められるのは俺しかいない。

「ありがとうございます。なんかもう自分の中で結論は出た感じがします。それを確かめるために、シェリー・ブレンドを飲んでみたいと思います」

 そうして俺はシェリー・ブレンドを手にした。自分の心を確かめるために。

「うん、やはりそうか」

 俺は確信した。今感じた味、それはちひろを連想させるものだった。前回飲んだ時は、ちひろが俺を包み込む感じの味。今回は逆、俺がちひろを包み込んであげる。

 そうと決まれば早速行動開始。

「ありがとうございます」

 お店にお礼を言って、すぐにちひろに連絡をした。

「わかったよ。ちひろ、一緒に住もう」

「うそっ、うれしいっ!」

 電話口のちひろの声は、涙ぐんているようにも聞こえた。

 そうしてほどなく同棲生活がスタートすることとなった。

「ねぇ、みつるくん、お昼ちょっと時間ある?」

「えっ、は、はい」

 いつものように朝店舗の前を歩くと、ちひろのおねえさんからいきなりそう声をかけられた。間違いなく、ちひろとの同棲生活についてのことだろう。あらためてご挨拶をしなきゃとは思っていたが。

 お姉さんとは、お昼に近くのお店で食事をしながら話すことに。

「みつるくんさぁ、ちひろと一緒に暮らすんだよね」

「は、はい」

「みつるくん、ちひろのことどのくらい知ってんの?」

 そういえば、ちひろがどんな仕事をしているのかすら知らない。そのことを伝えると、やはりという顔をしておねえさんは話してくれた。

「ちひろ、自分の仕事を言いたくないのは無理もないよ。だって、ソープ嬢やってるから」

「そ、ソープ嬢っ!?」

 思わず叫んでしまった。おかげで周りから変な目で見られることに。

「やっぱりね、そういう反応すると思った。そのついでにもう一つ伝えておくね。ちひろ、借金抱えてるんだよ。五百万円ほど」

「ご、五百万!?」

 さっきよりは小さな声だったが、これもさすがに驚きだった。

「ちひろね、その借金は元カレがつくっちゃったものなんだ。何も知らないちひろを連帯保証人にして。で、元カレはドロン」

 おねえさんが言うには、それからちひろは自分の進路を諦め、借金を返すために働いているそうだ。実家でもなんとか援助をと言ったけれど、ちひろは自分で何とかすると意地を張っているらしい。

「でもね、みつるくんと付き合うようになって、ちひろ変わったんだ」

「変わったって、どんなふうに?」

「ちひろ、見た目はちょっと頭が足りてない、ちゃらんぽらんな若い娘って感じがするじゃん」

 まぁ、これは未だに否定はできないが。

「でもね、将来のことを前向きに考え始めたんだよ。みつるくんに見合う女性になりたいって。そう言ってた」

 そうなんだ、俺ってちひろにそう思われていたんだ。だったら、ちひろをもっと大事にしてあげなきゃ。

「話してくれて、ありがとうございます。でも、このことはおねえさんからは聞かなかったことにします。ちひろの口から、そのうちきっと話してくれる。そう思っていますから」

「そうね、それがいいわね」

 このとき思った。ちひろが俺にきちんとこのことを話してくれたら、借金は俺が返してあげよう。そのくらいの蓄えはあるし。きっとちひろも喜ぶに違いない。

「あー、私もちひろのこと話せてすっきりしたわ。聴いてくれてありがとね」

 おねえさんの表情は、妙に清々しかった。そこでちょっとあることを思いついたので、それを口にしてみた。

「おねえさん、ちひろのことを心配することも大切ですけど、まずは自分のことも大切にしなきゃ」

 これを伝えた途端、おねえさんの表情が一変した。あれ、俺何か余計なこと言ったかな?

 この日の夜、珍しくちひろが家にいた。いつもはこの時間、仕事なのに。

「みつるくん、おかえり。今日は早番だったから、たまには一緒に晩ごはん食べようと思って」

 食卓の上には、ちょっと焦げたハンバーグ。ちひろ、一生懸命作ったんだな。

「よし、じゃぁ食べようか」

「うん」

 ちひろは最高の笑顔で俺に微笑んでくれる。こんな娘が借金を背負ってソープ嬢をやっているなんて、ちょっと信じられない。

 食事が終わったとき、ちひろからこんなことを言い出した。

「みつるくん、話しておきたいことがあるんだ。聞いてくれる?」

 その顔つきは神妙なもので、何か意を決した感じもする。きっとおねえさんから聞いたことを話してくれるんだろうな。

 俺は何も知らない体を装い、笑顔でこう応える。

「うん、いいよ」

 あらためてちひろと面と向き合う。

「あのさ、あたしね、実は…」

 ちひろは下を向いたまま、しかし目はこちらを向けて何かを訴えようとしている。その時間が長く感じる。

「ちひろ、言いたいことはスパっと言ってよ。俺もそんなにヒマじゃないんだから」

「…うん、わかった」

 少し悲しそうな表情で、ちひろは意を決して話しだす。

「まずは先に謝っておくね。ごめんなさい」

「何か謝るようなこと、したの?」

「…ずっとあたしのこと、黙ってたから。あたしね、あたし、実は…ソープ嬢やってるの」

 おねえさんから聞いていたので、そんなに驚きはなかった。

「驚かないの? ひょっとして知ってたの?」

「いや、知らないよ。知ってるわけないし。でも、今まできちんと話さなかったから、何か話せない仕事じゃないかとは思ってたけど」

「幻滅した? あたしのこと、あきれてるでしょ」

「そんなことはないよ。何か理由があって、そうやっているんじゃないかって思うから。そうなんじゃないの?」

「…うん、実は借金があって。それを返すためにやってるの」

「借金、いくらあるの?」

「…五百万円。ちゃんと毎月返済はしてるけど、まだまだ何年もかかるみたいだし」

「だから俺と暮らすことで節約をして、そのお金を返そう。そう思ってるのかな?」

「そうじゃない、そんなんじゃない。それもあるけど、でも、そんなんじゃない」

 ちひろは半べそをかきながらそう言う。俺はあわててこう言い直す。

「ちひろを責めているわけじゃないんだよ。今は事実を確認しているだけだから。そうじゃなかったら、どうなんだ?」

 ちひろはしばらく黙りこんで、そしてちひろ特有の下を向きながらも俺に目を合わせてくる姿勢を見せた。このポーズはドキッとさせられるものがある。いろいろな意味で。

「あたし、みつるくんのことが好き、大好き。だから一緒にいたいの。あたし、すぐに心が折れそうになるから。だから支えてほしいの、みつるくんに…」

 そんなちひろを愛おしく感じ、俺はちひろを思いっきり抱きしめた。ちひろが小さく震えているのがわかった。

 翌日、目が覚めるとちひろは俺の隣にはいなかった。ど、どこに行ったんだ?

 あわてて起きると、エプロン姿で朝ごはんを作る姿がそこにあった。

「あ、みつるくん、おはよう」

 にこやかに笑うちひろ。よかった、いなくなったのかと思った。そのとき、俺の中にある、とある感情が芽生えたことに気づいた。

 俺、ちひろのことが大好きだ。手放したくない。守ってあげたい。

「ちひろ…」

 俺は料理をしているちひろを、後ろから抱きしめる。ちひろの手が止まる。もう、二人に言葉はいらなかった。

 二人で朝食。俺は朝が早いから、慣れないちひろにとってはまだまだ眠たいようだ。けれど、ちひろは一生懸命俺に合わせようとしてくれている。

「ちひろ、あのさ、借金のことだけど。俺が払おうか?」

「えっ、それってどういう意味?」

「どういう意味って、そういう意味。早くちひろを楽にしてあげたいし、今の仕事もやめて欲しい。そして、ちひろには夢を追いかけてもらいたいんだ」

 ちひろは黙りこんでしまった。そして下を向く。けれど、目線は俺に向けている。ちひろ独特の、あの目線だ。

「それについては…それについてはまだ待って」

「でも、でも、俺にもちひろの人生を背負わせて欲しいんだ。俺、ちひろのことが好きだから、大好きだから」

「ありがとう、でも、もうちょっと待ってくれるかな?」

 仕方ない。けれど俺の意思は変わらない。このとき、あることを思いついた。そしていつものように職場に。いつものように朝の巡回。けれど、今朝はある目的を持って足を動かした。向かったのはジュエリーショップ。

「おねえさん、ちょっと」

「あら、みつるくん。ちひろ、どんな感じ?」

「その件なんですけど、お昼にちょっと時間もらえないですか? 話したいことがあって」

「ん、いいけど」

 ということで、おねえさんと昼に話しをすることに。俺は自分の中の決意をあらためて確認して、いよいよ昼の時間を迎えた。

「で、話ってなに?」

「ちひろの口から聴くことができました。ソープ嬢のことも、借金のことも。だから、俺、決めたんです」

「決めたって、何を?」

「俺がちひろを守ります。だから、まずはちひろの借金、これを俺が全部払います。そして、ちひろには自分の夢を追ってもらおう。そう決めたんです」

「ちひろはなんて言ってるの?」

「ちひろに話したけど、それについてはまだ待ってって。でも、待つ理由がないでしょ。早く借金は返済したほうがいいんだし」

「うーん、ちひろにはちひろの考えがあるんだと思うけどね。実家の援助も断ったくらいだから」

「とにかく、俺がちひろを守ります。だからお願いがあるんです。ちひろが借金しているところ、教えてください。今日にでも借金を払いに行きます!」

 ダン、と机を叩いて、俺は立ち上がっておねえさんに勢い良くそう言った。

「ちょ、ちょっとまってね」

 おねえさんは俺の勢いにのまれて、あわてて電話を取り出す。

「今から実家に電話して確認するから、ちょっと待ってて」

 そして、なんとか借金先を聞き出すことができた。けれど、おねえさんはこんな言葉を残した。

「みつるくん、ちひろのことを考えてくれるのはありがたいんだけど。ちひろの気持ちも大切にしてあげてね」

 大切にするからこそ、こうやって借金を返してあげようと思っているのに。それがわからないのかな?

 俺はちひろが借金をしている先に問合せ、俺から返済をすることを連絡。すぐに返済手続きを行った。そして送金。これでちひろは自由だ。

 その日の夜、ちひろは遅番なのでまだ帰ってこない。けれど、ちひろのそんな生活も今日で終わりにさせなければ。そのつもりで、俺はちひろが返ってくるまで待つことにした。

 夜も日付を超えた頃、ようやくちひろが帰ってきた。

「あれ、みつるくん起きてたの?」

「あぁ、ちひろに話があって」

「話ってなに?」

「ちひろ、もうソープで働かなくていいんだよ」

「えっ、どういうこと?」

「ちひろの借金、俺が全部返済した」

「返済って、な、なんで勝手なことをするの? あたし、もう少し待ってって言ったよね?」

「どうしてそんなに怒るんだよ? 返済のためのソープで働いているんだろう? 俺は早くちひろに、そんな生活やめて欲しいんだよ。そして、服飾デザイナーになる夢を追いかけてほしい。だから借金を返済したのに」

「あたしは、あたしの責任で行動したいの。元カレに騙されたのも、あたしの責任。そんないい加減な性格をなんとかしたいから、あたしの意思でやってるの」

「ちひろの言うこともわからなくはない。けれど、せっかく一緒に住んでいるのだから、そしてこれからも一緒にいようと思っているのだから。もっと俺を頼ってほしい。いや、頼るべきだ。もう借金は返したんだ。明日にでもソープを辞めてくれないか」

「みつるくんって、すぐに何でも決めてしまうのね。あたしはただ、みつるくんに話を聴いてほしい。そして安心させてほしい。それだけが願いなのに。ただあたしに寄り添って、一緒にいて欲しいだけなのに…」

「でも、でも…」

 何かを言おうとした。けれど、泣いているちひろを見ると、それ以上言葉は出てこなかった。

 この日、俺とちひろは別々の部屋で寝た。

 翌日、いつものように目を覚ます。昨日は明るい笑顔で朝食を作るちひろがいた。けれど、今日は…。

「あれっ、ちひろ、ちひろ?」

 呼んでも返事がない。ちひろが寝ているはずの部屋に入っても、その姿はない。それどころか、ちひろの主だった荷物もない。玄関に、ちひろの靴もない。

「な、なんで?」

 あわてて外に探しに出ようとした。が、そのときテーブルの上の置き手紙に気づいた。そこにはこう書いてある。

「みつるくん、今までありがとう。

 借金の返済、本当はうれしかった。けれど、あたしはあたしの意思で生きていきたい。

 あたしはみつるくんに、これから自分がどう生きていくのかの話をしたかった。けれど、みつるくんはすぐに答えを出してくれる。

 みつるくんは頭がいいから、それが正解かもしれないけれど。あたしは自分で自分の正解を出したかった。

 だから、みつるくんと離れます。そして、自分で自分の答えを出します。

 お金はそのうちみつるくんに返します。しばらく待っててください。その日が来るまで、さよならします」

 衝撃的な手紙だった。そして気づいた。俺はちひろに自由になって欲しかったのに、ちひろを束縛していたんだってことを。自分で考えて答えを出すことを邪魔していたんだってことを。ちひろの話を聴くだけでよかったってことを。

 この日、俺はかなり呆然としていたらしい。上司にも、お店の人たちにも、そしておねえさんにもこんな言葉をかけられた。

「大丈夫? 何かあったの?」

 いつものようなキレのある行動がない。目が死んでいる。覇気がない、などなど。いろいろと言われた。

 俺、これからどうすればいいんだろう? そんなことを三日ほど考えた時にふとひらめいた。

「あのコーヒーに答えを聞いてみよう」

 思い立ったが吉日。ちょうど休みの日だったのでカフェ・シェリーへと足を運んだ。

「いらっしゃいませ」

 いつもの女性店員の笑顔と、マスターのにこやかな顔。そしてコーヒーとクッキーの香りに包まれたお店。なんかここ、落ち着くな。

「シェリー・ブレンド、お願いします」

「かしこまりました。シェリー・ブレンド、ワン」

 今回はカウンター席に通された。これが不思議なもので、窓際の席は空いているのに、今回はなぜかカウンター席だった。そしてマスターがこんな言葉をかけてきた。

「お客さん、失礼ですが何かショックな出来事があったんじゃないですか?」

「えっ、ど、どうしてわかるんですか?」

「なんとなく、ね」

 その言葉に安心して、ついちひろのことを話してしまった。

「なるほど、そうでしたか。では早速、シェリー・ブレンドにあなたの欲しい答えを聞いてみましょう」

 そう言ってマスターから差し出された一杯のコーヒー。俺は藁にもすがる思いで、コーヒーに口をつけた。

 最初に感じたのは、前と同じちひろに包まれたあの感触。だが、次に俺の舌に襲ってきたのは、その味からの離別。まさに今の状態だ。だが味の変化はこれだけで終わらなかった。

 今度は別の味が口の中いっぱいに、いや脳の中いっぱいに広がっていく。なんなんだ、これ。広がり…いや、成長。そんな言葉が頭のなかでひらめいた。

 もっと成長したい。でも、成長のために必要なことってなんなんだろう?

 このとき、ちひろのこんな言葉が思い出された。

「あたしはただ、話を聴いて欲しい。そして安心させて欲しい。ただ寄り添って一緒にいて欲しいだけ」

 そうか、そうだったんだ。今頃わかった。ちひろが本当に望んでいたものが。そして俺に欠けていたものが。

 俺は自分の考えや思いが正しいと思って、つい人にアドバイスをしてしまう。そんな癖がある。これは仕事柄だと思っていたが、そうではない。仕事の上でも、相手の話を聴き、安心させて寄り添ってあげる。

「いかがでしたか? なにか見えましたか?」

 マスターの言葉で我に返った。そうだった、今は喫茶店にいたんだった。

「はい、わかりました。ちひろが言いたかったこと、俺に欠けていたもの。そして、俺がこれからやらなければいけないことが」

 先ほど見えたものをマスターに話してみた。

「なるほど、彼女はきっとあなたにとって天使だったんですね」

「天使?」

「そう、天使です。あなたにとって気づかなければいけないこと、この先大切にしていかなければいけないことを伝えに来た天使だったんです。だから、ふっと現れて役目が終わったら去っていった。そうとしか思えません」

 なるほど、ちひろは天使か。思えば俺にとってそんな存在だったのかも。

 翌日、あらためておねえさんにちひろのことを伝えに行くことにした。だが、ここでも驚くことが。

「えっ、辞めた?」

「はい、突然だったんですけど」

「ど、どうして? 理由は?」

「それが、一身上の都合、としか聞いていないんですよ」

 なんと、おねえさんまでもが俺の前から姿を消してしまった。連絡先も教えてはくれなかった。結局今となっては、ちひろの存在そのものがまるでいなかった人のようになってしまった。

「ちひろは天使…だったのか?」

 本当にそうとしか思えなかった。俺に欠けているもの、俺がやらなければいけないこと、それを教えてくれるために俺の前にふっと現れ、役目が終わったらふっと消えていった。

 それから俺は、ちひろから教えてもらったことを一番に考え、行動を始めた。まずは相手の話をきちんと聴く。そして相手に安心してもらい、心から寄り添い、その上で相手が答えを出すまで待つ。俺から強制して何かをやらせるということはない。

 このスタイルが功を奏し、気がついたら俺はホテルの中で出世をしていた。次期支配人という立場まで上り詰めていた。

 ソープ嬢だったちひろから学んだこと。これは俺の中で今も生きている。人生の教訓ともいえる。

 ときどき、思い出したようにカフェ・シェリーに足を運び、シェリー・ブレンドを飲んでちひろのことを思い出す。俺にとって天使だったちひろのことを。

「今日はどんな味がしましたか?」

「はい、やわらかく包み込んでくれる、ちひろの味の奥にですね…」

 今でも俺の心に、いつも寄り添ってくれるちひろ。もう二度と会えないちひろだが、その存在も俺の中で今も生きている。これからもずっと、永遠に。


<ソープ嬢から教わったこと 完>

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