AI短歌史前史(八) 読者の自動化 人間歌人の最後の抵抗
1・読者の自動化
最後までAI化が遅れたのが「読者」であった。
AIの興隆により、日本の俳句・短歌の生産量は飛躍的に増加し、俳句・短歌の黄金時代を迎えていたが、その膨大の作品のうち一体何割が読者によって、読まれ、鑑賞されていたかは、まことに心許ないかぎりである。
普通に考えて生身の人間が読み切れる数量ではない。
作歌・作句の自動化、選出の自動化の次は、読解・鑑賞の自動化が目指されねばならなかったのも当然の流れと言える。
そして鑑賞ロボットが登場した。
鑑賞ロボットは、超高速の評価エンジンを搭載している。全ネット上に散在する膨大な短歌・俳句を短時間でクロールし、それらを独自の「鑑賞・比較・評価システム」によって「読み味わい」、高評価をつけた作品には「いいね!」を残す。
複数の優秀な鑑賞ロボットがその鑑賞評価の技能を競いあうことにより、まもなく健全な鑑賞・評価の場がネット上に成立した。
絶え間ない切磋琢磨の中で、人間時代とは本質的に異なる、シンギュラリティの時代に相応しい評価基準が形成されていった。
読者の自動化、鑑賞の自動化がほぼ完成に近づき、「AIの、AIによる、AIのための俳句・短歌」は、この時代にほぼ実現しつつあったと評価できる。
しかし、このようなAI化の流れ、シンギュラリティに向かう趨勢を意固地に拒絶し、旧態依然たる「人間」にこだわる人々も、少なからず残っていた。
2・人間歌人の最後の抵抗
最後までAI短歌・AI俳句の発展に異を唱え、「人間による人間のための詩」を提唱し続けた詩人が斎藤萌吉である。
斎藤萌吉の評論『人間の歌よ甦れ!』は、当時、その立場をもっとも鮮明に示した書であったと、現在、再評価の機運が高まっている。
そこでは、「作歌」における「人間にしか味わえない感覚の重視」が主張された。臭い、欲望、身体感覚、そして「意味」。たしかに、それらはAIの不得手とする領域であったし、ある意味では今なおそうであり続けている。
また萌吉は、AIによる「読解・鑑賞・評価」は全てインチキであるとして全否定するというラディカルな姿勢を貫いた。
まさに人間派の面目躍如というところだが、残念ながら当時は、ほとんどの読書人・批評家から「時代遅れ」「保守反動の輩」「オワコン」「短歌が分かっていない」と看做されて散々コケにされ、『人間の歌よ甦れ!』は日々生まれる膨大な情報の波に飲まれ埋没して終了した。
公平に見て萌吉の議論には、真摯に耳を傾けるべき点も多かったのだが、しかし、不幸な事情によって、彼の著作は社会的に抹殺されることとなった。
不幸な事情とは何だったか。人間の歌を標榜する萌吉が、かつて生活苦に耐えかねて、AI短歌の選別アルバイトに従事していたことが文芸メディアにすっぱ抜かれたのである。このスキャンダルによって、彼の地位・権威・信頼は完全に失墜した。敵に塩を送っていた裏切り者と認定され、社会的・文芸的に抹殺されることとなった。
さらには、萌吉が自作の作歌にあたって事もあろうにAIを利用していたという疑惑までが浮上したのである。
萌吉は、あくまで研究のためにプログラムを動かしただけ、AI短歌に似ないために用心のためにチェックに使っていただけ、と弁解これ努めたのだが、もはや彼の言葉を信じる者は誰一人いなかった。
こうして萌吉は歌人仲間・読書人から完全に見放され、失意のうちに不遇の晩年を過ごしたと言われている。
萌吉の他にも、AIが作った作品を自分の作品として発表する歌人が次々摘発され、文学界から抹殺される事件がたびたび起こった。
これは当時「人間歌人偽装問題」と呼ばれ、あまりに頻繁であることから「テンプレ的スキャンダル」として文芸メディアにおける恒例行事と化していた。
その一方で、実際には密かにAIを利用して作品を作っている歌人・俳人がほとんどなのではないか、との噂もまた根強く囁かれていたのであったが。
人間の短詩の時代は、この偽装問題が常態化した時期には、実質的にほぼ終焉していたと見ていいだろう。