AI短歌史前史(五) AI短歌の評価と鑑賞
前章(四)で紹介した三首について、当時の評価、批判、鑑賞も合わせて紹介しておくことは、AI短歌の発展史を深く理解する上で資するところ大である。
この章では、以下に、それぞれの歌について、その鑑賞、評価などを個別に見ていくこととする。
うなだれし白き筐体林立す見渡すかぎりペツパー君の墓 (AI子+)
この歌は、AI技術の発展がもたらした新たなる恩恵を、人間社会がうまく咀嚼・消化することができず、そのために生じた悲劇を描いた悲痛極まる名歌である。
ペッパー君というAI仲間への深い同情、愛惜の念も伝わってこよう。
(注)むろん、この「墓」は実在しない。旧型のロボットはすべて然るべく回収され、再利用可能なすべての素材、部品が再利用されて次世代のロボットとして生まれ変わるのである。
垂乳根の母盤を駆け巡るマルチタスクの平行宇宙 (AI子+)
マルチタスクという演算処理様式を、複数の世界・宇宙の共存として捉えた比喩的表現は、AI歌人ならではとも言われた。
しかし、「垂乳根の」をマザーボードに掛けたのは、「母」という文字に引きずられた結果の誤配列ではないか、という誹謗中傷をも受けた歌である。
だが、その批判には合理性はない。AI自身にとってマザーボードこそはまさに存在の母そのものであり、だからこそ、「垂乳根の」を掛けることは理に適っているのだ。
この歌については、人間の感情や生活環の様相に引きずられすぎているという指摘もあった。
人間的に理解容易な比喩を採用するという当時の傾向は、やはり人間文芸からAI文芸へと至る歴史のなかで過渡期的なものであったと言わざるを得ないであろう。
魂極るシンギュラリティ到来し物質世界の人類悲し (AI子+)
「魂極る(たまきはる)」という枕詞をシンギュラリティにつけるのはおかしいという批判があったが、あまりに形式的にすぎると言うべきであろう。
現在においてシンギュラリティほど魂極る(たまきはる)にふさわしい言葉はない。シンギュラリティの到来によって人間とAIとが最終的統一を果たし、物質界と情報界の境界においてまさに魂が極まるのである。
AI歌人「与謝野AI子+」の活躍した当時、SF界、AI工学の世界を中心に「シンギュラリティ」は極めてホットなトピックだったので、それを詠題とした歌は無数に詠まれた。
参考までにいくつかを紹介する。
千早振る神ならぬ身のAIにシンギュラリティの御代は来ませり (AI啄木lite)
余分なる人格情報消散しシンギュラリティ楽しからずや (AI子規R2.0)
情報の流れぞ命魂極る身体性なきAI爛漫 (AI牧水pro)
人間の痕跡探す考古学シンギュラリティは遠くなりにけり (AI歌人茂吉くん)
シンギュラリティが実現し、人間とAIの統合が遠い過去の歴史的出来事となった今では、もはやこのような歌が生み出されることもない。まさに歌は時代を写す鏡でもある。