AI短歌史前史(二) AI芸術への批判――斎藤萌吉の唯人論
AI俳人のAI俳句は、各界の称賛を浴びた。
だが当然予想されたように、批判や否定の声もなかったわけではない。
たしかにAIは、それらしき17文字や、31文字の文字列を出力する。また出力結果文字列には、心地よいリズムも感じられるし、詩的感興(!)まで備えている(と思われた)。殊に、意外性のある語の組み合わせを創造する能力は、すでに人間の俳人を凌駕しているとまで評された。
しかしながら、それを生み出すためのルールや、語の配列や組み合わせに用いる「語の点数化」の指標自体は人間のプログラマが設定しているのであった。
出力結果を鑑賞し、評価するのもあくまでも人間の読者である。作り出したAI自身にとっては、出力結果文字列は意味のないデータの羅列にすぎなかった。
この時点で、世界中のどんなAIも「意味」を感得し、理解、認識することは出来なかったのだから、それも当然だった。
だとすればそれは、人間の詩人・俳人・歌人が、予測変換の極度に発達したワープロソフトで短歌や和歌を執筆するのと、本質的に何も変わらないのではないか?
この頃、「唯人論」という反時代的な主義主張を掲げた俳人(人間)に、斎藤萌吉がいる。
「AIは、人間に与えられた定義に従って語を配列しているに過ぎない!」
「AIは、まったく新しく出会った事象・事物、未定義の対象に対し、美しさを感じることができない。従って新たな美を生み出すこともない!」
「そもそもAIは、生きていない。笑うことも、泣くことも、感動することも、性欲や食欲などの各種欲望を覚えることもない。侘び寂びを感じる感性もない。そんなモノに芸術が出来るのか?」
当時、萌吉の主張に与する人間はかなりの数にのぼっていたはずだと、今日の文芸考古学者は推定している。
しかし当時の世の中において、政府も産業界もメディアも、こぞってAIを称賛し、ことあるごとにAIが人間を超える日は近いと喧伝し、危機を煽り、シンギュラリティは近いと、まるでノストラダムスの大予言のように言い募っていた。
このような趨勢の中、空気を読み、長いものに巻かれ、大樹の陰に寄り、体勢に順応して生きることを国是とする日本の社会において、AIに関する事柄を批判することは憚られた。
萌吉のごときAIに批判的な声は、社会的には無視しうる程度の弱小勢力でしかなかった。