15
帰りのボートの上で、チャコの手で強制的にバスタオルを体に巻きつけられたシンディが、傍若無人的にくつろいでいる。
「やっぱり飛ぶよっか、動力船の方がラクチンよねーっ」
チャコの顔を覗き込んでくすくす笑う。チャコは、ぶすっとしたままだ。
シンディは一回満足げに笑って、
「チャコ、まずは、なにから報告いたしましょうか?」
と誘ってくる。チャコはぶっちょうづらだったが、悔しいことに好奇心には勝てなかった。沽券を保つため、できるだけぶっきらぼうに、
「まず、アンタ、オカの上で何をしてたの?」
と訊く。
「ラモスのお見舞い」
とたん、チャコは顔を明るくさせる。やはりシンディ、まともな理由があったのだ。そうと知れば、不機嫌もあっという間に霧散したのだった。
「へえ、お見舞いに行ったんだ! ――あれ? でも重体で面会謝絶じゃなかったっけ?」
シンディ指をチッチッチッとしながら、
「だから面会したんだよ」
「まさかむりやり……?」
「そう。だって、ラモス、命が危なかったから。人生に絶望しかけていたから。だから、急いで励ましてやらなきゃいけなかった」
「……」
うかつだった。
「ごめん……わたし、気が利かなかったみたい」
「わたしがお節介すぎるだけよ。気にしないで」
チャコはあらためて尋ねた。
「どうやって元気づけたの?」
「『生きがい』、を提案してみたの」
チャコ、なんとなくひらめくものがあった。ポーチから例のスプーンを取り出す。
「……これね?」
ひっくり返して、緑の苔の面を見せる。
「この、『苔』が、おじさんの生きがいになるのね?」
シンディは上等なほほ笑みをみせた。
「さすが、さすが、さすが──さすが、マイ、ディア、チャコ……でもそれ、何か知ってる?」
今一度、軽く目を向けてから、首を振る。
「残念だけど、まったく……。初めて見る」
「知らなくても恥じゃないわ。かく言うわたしだって目にしたのは今回初めてなんだもの。俗名『酒田苔』――ザパーン国特別天然記念物。超貴重種。絶滅危惧生物よ」
とたん、ハリーの唸り声。とりあえず無視する。
「このコケが?」
シンディ、軽く笑い声をあげる。
「説明するわ。その酒田苔、ただの苔じゃあもちろんない。特別な、ある特性を持ってるの……。
それは何かというと――とってもおいしいの!
お魚、とくにアユなんかの好物で、太古の昔は、彼らの食生活をおおいに豊かなものにしてくれていた。味だけじゃなくて、香りも抜群で、それが名前の由来になっているとも言われているわ。
ランカーバスが釣れたのは、水中に広がったその香りに『酔っぱらった』せいかもしれないわね」
チャコは、太古のアユが、この苔を大喜びで頬張っているさまを想像した。シンディは続ける。
「ところがね、一見無害そうに見えるこの苔には、実は一つだけ、とんでもない武器があったの。
それは、毒よ。
食われないようにするため、毒の成分を、自分の体の中に隠し持っていたの」
「さっきの話と、矛盾してない? アユたちの好物なんでしょ?」
「そうよ。それから、ここが重要ポイントだけど、黒バスも、この苔を摂取することが確認されているわ! 岩から剥がれて、水中を漂っているところを、酔っぱらったバスが、パクリ、とやるみたい。お酒でも飲むように! 理性を狂わされたのかもね。
ホントに、食性に関係なく、お魚はみんな、この苔が大好きなのよ」
「シンディ、まだ、話が見えないわ……」
「慌てない……。
さて、なぜ、毒を持っているはずの苔を、お魚たちは平気で食べられるのか?
答は、お魚が体内に持っている酵素のおかげなの。
アユをはじめとするザパーン国在来種のお魚にはすべて、この酵素がある。この酵素が毒性を分解してくれるから、苔をおいしく頂くことができた、てわけ……」
ようやく見えてくる。
「……だけど、黒バスは違う?」
「そう。外来種である黒バスには、そんな酵素はない。だから、酔っぱらって口にしてしまったら最後。まずエラがただれ、つぎに内臓が腐り、骨が溶け……実に悲惨な末期を迎えるハメになる……」
彼女は自分の両の肩を抱いた。
「ああ、黒バスは、アユを食べる!
そのアユは、酒田苔を食べる!
酒田苔は、黒バスを死に至らしめる……! なんて都合がいいんでしょ!」
「でも……」
とチャコ。
「さっき酒田苔は絶滅危惧生物って言ったじゃん……? 太古に食べつくされて、おそらくはこのピュアにも、もう自生してないんでしょ? 鮎にとって都合がよくても、絶対数が……」
口に出してからチャコはようやく気づいた。
「ラモスおじさんに苔の培養を依託する気なのね!?」
シンディはウフフと笑う。
「この苔は、人工で増やすことが非常にメンドクサイの。みんなそれで困ってた。でもラモスだったら……ミスター・ラブリィ・へんくつ親父だったら……あの蔵の管理の腕前が、あの人生のポリシーが、きっと役に立つと思う!
そして大量に量産できたら、あとはアイデアしだいよ。このようにルアーに貼り付けて売りまくったっていい。集魚用の撒き餌にしてもいい。どんどんつくって、みんなを巻き込んで湖にドカドカバラまきゃいいの!」
「ディア・シンディ……グレイトアイデア……!」
「でしょ!」
シンディは振り返った。
「だいたい理解してくれたかしら?」
悪戯っぽい視線の先に立つのは、舵輪を握るハリーだった。
「イエス……イエッサー、シンディ・ブライアント」
シンディ、平然と説明を続ける。
「……とりあえずこうしたんだけど、この三すくみの状態が、最適なシステムかどうか今は評価できない。ラモスのお手伝いと、今後の推移を見守り管理するのが、あなたの役目よ。大きな仕事だわ。覚悟決めてね」
「イエス……。一つだけ教えてください、サー・ブライアント」
「なに?」
「その、『酒田苔』……一体どこから、持ってきたんです?」
「あは、当然の疑問よね? だけど何の不思議はないわ。――博士よ」
「博士?」
「カール・ベルンシュタイン博士が、養殖していたの。川石に張り付く程度の面積分……。博士ですら、一人ではそれ以上の増殖が難しかった。それを、スプーン1杯分だけ、提供してもらったの!」
「ぐうう――」
チャコは思う。これは、いつものシンディだった!
「――昨日の夜ね? 遊びに行くと見せかけて、こっそり博士に会いに行っていたのね?」
「いやんチャコ! 仕事オンリーじゃないよ。最後はちゃーんと踊ったんだからね! 見損なわないでね」
「あああ……よく、よく博士は、そんな貴重な物を、タダで分けてくれたわね?」
「あらやだチャコ、世の中に、タダのものなんてないわ!」
そう言うとシンディはハリーを見据えた。
「カールは、キョーツ大学に復帰することが決まったから。だから、後は、よろしくね」
チャコの方が驚きの叫び声をあげた!
「あんた一体どんな手口使ったの!? 今のは驚いた! なにかツテがあったの?」
「偶然よ。ぐ、う、ぜ、ん! たまたまキョーツ大学は、今、絶滅危惧生物の研究に力を入れていた。博士は、たまたま酒田苔を所有していた。そしてラモスという人材を得て、増殖させる見込みがついた。ようするに、博士自身の実力と運で、復帰が可能になっただけ」
「――」
ほんとかウソか──チャコには判別不可能だ。
ハリーはハリーで、絶望の表情をしていた。
「僕一人じゃ……無理だよ……博士がいないと……」
シンディは厳しかった。
「ハリー、そこが貴方の悪い癖! 権威に盲従してたら、何にも生まれてこない。わかる? 貴方の生き方が今、問われているのよ!」
だが、今、シンディは優しかった。
「ああ、愛しのハリー!! 貴方わたしらに言ったくれたじゃん。憶えている?
別にアマチュアのままでいい、それでプロを押さえつけてナンバーワンになったら、それこそ凄いことだって。地位がほしかったら、実力で奪っちゃえって。俺に任せろって。
あのときの貴方、とっても輝いていた。かっこよかった!」
ふっ、と表情を和ませる。
「……心配しないで。カールもあなたを見捨てたりはしないわ」
ボートが岸に到着した。シンディはチャコの手を取った。
逃がさない。
と、でも言いたそうに力を込めて――
「じゃあね、ハリー。とっても楽しかった。貴方のこと、忘れないわ」
「――」
「――」
シンディに強引に引っ張られるチャコ。ハリーと一瞬目が合い、すぐに彼の方が視線を外し――
なんにも言葉を交わせずじまいで――
――
――
――すべて、終わった。
……。