20
湖面に太陽が沈みかかり、オレンジ色にまぶしく波が煌めき――美しい光景だった。
風が涼しい。――ここは誰もいない、オーツの北東の浜辺である。
「こんなところに住んでいる人たちは、幸せね……」
ついそんな言葉が口から出る。
「チャコらしくない。しっかりしてよ! この町と湖は、今病んでいるのよ!」
「ごめん、うっかりしてた」
チャコは気を引き締める。シンディがなにかをやろうとしている。こっちも本気にならなきゃいけない。
「で、なにをどうするの?」
「単純明快、黒バスを全部除去する!」
シンディはさらりと言い切った。チャコはいきなり言われたために意味を理解するのに手間取り、次いで、目を丸くして――湖を左から――右へと――眺め渡した。
「……どうやって? 黒バスって、それこそ何万匹もいるんでしょう? 今はお魚屋さんが困ってるけど、今度はルアー屋さんが困ることにならない? それに、また密放流されるわよ?」
「んもうっ! いっぺんに言わないでよ。だから対処方法と断ったでしょ?
まず、商売人なんて、黒バスよりも生命力があるんだから、心配する必要なんてまったくないわ! 断言!
それから――これがこのアイデアの眼目なんだけど――いっぺんに黒バスが消えたら、誰だって怪しむに決まってる。原因を突きとめるまでは、警戒して密放流もできにくくなる。
これが『無害な呪い』の正体。その呪いが効いている間に、ハリーとベルンシュタイン博士に、本物の根本的対策を考えてもらったらいいのよ! 博士だったら、なんかアイデアを持っているはずよ」
チャコは両腕を湖に広げてわめいた!
「この大きな、海みたいな湖相手に、どうやるってのよ!? それが一番の問題じゃない!」
「たしかに! この大ピュア湖を、いっぺんにどうかしようと思っても、無理なことよ。でも――
太古の人たちは、ぴったしな名言を残してくれてるわ。
いわく、『困難は分割せよ』!」
シンディは振り返り、湖面の一点をさっと指さした。みるみる湖面が盛り上がり、丸くなり――
朝露が草の葉から落ちるように、ぽつん、と抱えるほどの大きさの水球が空中に浮かんだ。そのまま5メートルほど上昇し、そこで静止する。チャコは思わず息をのむ。
あかね色の空が透けて見える。……なんて綺麗な玉なんだろう!
「直径1メートル。体積0.5236立方メートル。ちなみに重さ523.6キログラム――」
シンディは向き直った。わかりやすく解説しようと意識しているのだろう――両手を動かしながら――説明を始める。
「ピュア湖の体積は、約275億立方メートル。つまり約525億個の水球に分割することができる、ということ。言ってること、わかるよね? 一つがこれくらいの大きさの『困難』だったら、処理するのは容易だわ!」
自分の顔が引きつって行くのがわかる。声が震えた。
「……処理って?」
「まず湖を525億個の水球にして空に浮かべる。そのあと、『黒バスだけを別の場所に転送する』という魔法のスクリーンフィルターに通して、もとの湖の窪地に落下させる!」
「――」
……
……
『嗚呼、これぞ目の法楽と言わずして、なんといふべきか……!
地球深くえぐられた巨大な窪地の上空を見上げると、そこには525億個の水の玉が浮かんでいたのであった。
直径1メートル、約半トンの雨粒が、柴榑のごとく地に無限に降り注ぎ……』
……
……
……あは、あは、あはははは……
チャコはそのあまりにも文学的情景に意識を失いかけて、やっとこさ足を踏ん張り、元の地球に帰還したものである!
「……とってもナイスなアイデア! ……と言いたいところだけど」
「だめかしら?」
「現実をちょっと軽視しているように見えるけど、仕組みは間違ってないと思う。二人、力を合わせたら、やってやれないことは――ない――かも、しれない、かも。だけど――」
チャコは首を振った。意識をしゃんとさせる。
「――あのね、どこか、その――根本、大前提を、誤解しているように、思うの?」
「?」
「つまり――その、黒バスに――罪は、ないのよ――! 悪いのは、生態系を破壊すると知っていながら、自分の幼稚な欲望のために、黒バスを密放流したヤクザたちなの。だから、ここに生きついてしまった黒バスを、今さら、全滅させることは――とても――その――」
最後まで言えなかった。が、シンディは理解してくれたようだ。
「そっか、チャコはそういや、ボートの上では、共存をほのめかしていたもんね……うーん……」
一人ごちる。やがて彼女はため息をつき、心持ち肩を落とした。とたん――
半トンの水球が落下し、湖面で派手な音をたてて砕け、もとの水に戻った。そろそろ暗くなり始めた水面に、円く波が広がる。
チャコは――
シンディのアイデアは、とても魅力的だった! それは認める――そう思うチャコだ。
だけど――
なんかへんな感覚――だった。
唐突に黒バスの命を思いやるなんて、なんだかキレイ事のように感じた。偽善のようにも思う。
本当は――
本当は、自分は――?
首を振る。
イライラした。
シンディのアイデアは強力だ! 今からでも遅くない、認めるべきだった――
「──だけど、何にもしないでぐずぐすしていると、アユが絶滅してしまうし。やっぱり、シンディの対処法はいいかもしれない!」
「そうね……?」
突然意見を翻したチャコに、シンディ、何かを探るようにまじまじと見つめてくる。思わず後ずさりするチャコ。シンディ、小首を傾げた。
「少なくとも、急を要することだけは、確かね?」
「……?」
シンディは可愛く肩をすくめて見せた。
「ああ、今回はほんと、|いろいろな思いが絡み合っている《・・・・・・・・・・・・・・・》。厄介だわ。これ以上、面倒な要素が増えなきゃいいけど……」
なんだか悪いことをしてしまったような気分にさせられる。
「ごめんね?」
「あやまるなってーの。よくよく考えれば、チャコの言うとおりだわ」
シンディは悲しそうに微笑んだ。
「わたしとしたことが、ノータリンの単純なアイデアだったわねェ? 恥ずかし! もっとエレガントで、スマートなアイデアじゃなきゃ、わたしじゃないわ」
「とってもおもしろかったよ?」
「フォローになってなーい!」
二人は声を上げて笑った。笑いながら――
チャコは──
シンディのその発想の大胆さと豊かさと、あの――
磨き上げたように綺麗な水球を作った魔法の才能に――
表現しづらい、もやもやとした、居心地の悪い、何かしらの感情を覚えていたのだった……。