猫
博士が密かに「ラブレターショック」と名付けた事件の翌日。
その日の朝も、梅は朝食の支度をしていました。
しばらくして、ちょうど昨日と同じくらいの時刻に博士も入ってきます。
顔は一層やつれていて、また夜通し研究室にこもっていたことがうかがえます。
「博士、おはようございます」
「ああ、おはよう。毒田くん」
その呼び方に、梅は頬を引きつらせました。
梅は自分が笑えていないことに気づきます。
手元が狂い、フライパンから盛り付けていたスクランブルエッグがテーブルに零れました。
梅は無言で台拭きを手に取ると、博士に言いました。
「真さん、私のことは梅、と呼んでください」
自分の名前を呼ばれた博士は寝ぼけ眼を梅に向け、散らばった黄色い塊に一度だけ視線を落とした後で、諦めたように言いました。
「梅、ちゃん。分かった。すまない。私が」
悪かった、と言おうとしたのでしょう。しかし梅は静かに、しかし怒気をにじませた声で遮ります。
「梅ちゃんではありません梅です真さん」
「分かった。梅」
「あと、謝らなくていいです。私のわがままだってことは私が一番分かってますから」
「いや、しかし、そうか」
この日から、博士は梅のことを苗字で呼ぶことはなくなりました。
二人での食事はいつも静かでしたが、このとき無言で食べた朝食は、やけにパサついて感じるのでした。
夕暮れ時。梅が学校から帰ると、玄関に女性物の靴がそろえてありました。
簡素な作りながらも上品なその靴に、梅は見覚えがありました。
いつもであれば手を洗って真っすぐ自室に戻るのですが、梅は自室に荷物を置いて研究室に向かいます。
「へえ、ここには一応セーフティーがかけてあるのね。それで、ここの数値は」
梅が研究室に入ると、博士の隣で一人の女性が次元突破ロケットについて話を聞いていました。
「博士、ただいま戻りました。清田さん、いらっしゃいませ。ただいまお茶をお持ちします」
「あら、こんにちは。お邪魔してます」
清田咲希は梅に挨拶を返しました。
清田の容姿は美貌といって差支えありません。
背中まで伸びた艶のある髪に、涼やかな目元。すらりとした手足は実際よりも身長を高く見せています。
「いや、梅、そんなに気を遣わなくていい。ゆっくりしておきたまえ」
そんな女性と平然と会話をしている博士を見ると、梅は博士との距離が遠くなるように感じるのでした。
「わかりました。ごゆっくり」
梅は浅くお辞儀して研究室から出ました。
部屋に戻ってベッドに身を投げ出すまでの間、梅は悔しさとも虚しさともつかない気持ちに胸が苦しくなるのでした。
梅が出ていった後の研究室。
扉が閉まるのを見届けて、清田は博士に気になったことを尋ねました。
「どういう心境の変化なの?『梅』って」
「心境の変化というより、一つのけじめみたいなものだよ」
「まだあの子高校生よね?さすがに私は反対よ」
「勘違いするな。そうじゃない」
博士はそこまで言うと言葉を詰まらせましたが、清田は先を促すでもなく、しかし何かに期待するように口元に薄笑いを浮かべています。
「告白された」
「あっは!そうなんだ、おめでとう!とうとう菅原くんにも春が来たのね」
「反対するんじゃないのか」
「ああ、てっきり菅原くんが梅ちゃんをどうにかしようとしてるのかと思って。なんだかさっきの梅ちゃん、表情暗かったし」
「見損なうな」
「それでなんて返事したの?」
「何も」
博士は手元の資料に視線を移しました。
「え?いや、それはだめよ」
「君には関係ないだろう」
「なーにつまんないこと言ってんのよ。女の子に告白されて無視ってどんな神経してんのよ」
「無視しているわけじゃない。私にも考えがあるんだ」
「いつ告白されたのよ」
「昨日、ここで。いや厳密にはこのロケットの試運転にラブレターを使われた」
「意外とやるわね」
「これまでは気付かないフリをしてきたんだがさすがに言い逃れできなかったよ」
博士がそう言ったとき、これまで頷きながら話を聞いていた清田は無言で博士の額をはたきました。
「それはダメよ」
博士は予想外の衝撃を受け、持っていた資料が床に散らばります。
「いっ痛。なんだ、急に」
「菅原くん、ダメよ。ちゃんと向き合ってあげないと」
「なんで君がそんなに怒るんだ。そもそもまずは次元突破ロケットの話を」
「研究成果は研究成果で大事だけど別に今聞こうが明日聞こうが一緒よ。でも、梅ちゃんの気持ちをどうするかは今このときが大事なの!」
「大事と言っても私では」
「いいから。どうせ『はい』か『いいえ』じゃないの。どっちなのよ」
博士は清田の剣幕に驚きます。
清田が感情的になること自体は博士にとって珍しくありませんでした。
しかし、恋愛という、実利が伴わないものについて、しかも梅という、清田にとっては赤の他人のために怒っていることは、博士にとっては予想外のことなのでした。
「いいえ、だ」
「そう」
清田はそれ以上博士に詰め寄ることはせず、ただ、ため息をこぼしました。
「それ、ちゃんと梅ちゃんに伝えるのよ」
「ああ、分かったよ」
「今日はもうやめにしましょう。なんだか疲れちゃった」
清田は白衣を脱ぐと、予め冷ましておいたコーヒーを口にしました。
「相変わらず熱いのは苦手なのか」
博士は資料を揃えながら尋ねます。
「一生治らないわよ」
梅は制服のまま、ベッドに寝転がっています。
立ち上がったかと思えば、部屋の中をうろつき、ため息をついて、またベッドに寝そべって、枕に向かって何やら叫んでいるようです。
「ああえおおえーーーー!」
梅が息継ぎをしようと枕から口を離したとき、地下室に続く扉が開く音が聞こえました。
梅は服をはたいて着直すと、自室から出ました。
「あ、お疲れ様です」
梅は清田に声をかけました。
清田は先ほどよりも柔らかく微笑むと、梅の頭に触れました。
「梅ちゃんもお疲れ様。また綺麗になったわね」
「いえ、そんなことないですよ。学校も別にそれほど大変じゃないですし。そんなの」
清田はふふ、と笑うと、博士に向き直ります。
「それじゃあ、しっかりね」
梅は冷たい表情を博士に向ける清田をどこか頼もしく思いました。
しかし同時に、自分が入り込めないやり取りを前にして、またもや気持ちが暗くなるのでした。




