繊細かつ大胆に
ここは次元突破研究所。居住スペースでは今日も少女が食事の準備をしています。
年齢は10代後半ほどで、いたってラフな服装です。この場所は少女にとって、とても私的な空間なのでしょう。
少女が鼻歌交じりで料理を盛り付けていると、扉から中年の男性が入ってきました。
くたびれた白衣は少し黄ばんでいて、お世辞にも清潔とは言えません。
少女は男性に気が付くと、フライパンを傾けながら話しかけました。
「あ、博士。おはようございます。今日も哲也ですか?またやつれてますよ」
博士と呼ばれた男性はやや気怠げに挨拶を返します。
「おはよう毒田さん。私は今日も真だよ。哲也じゃない」
毒田さんは真顔です。
「何度も言ってますが、私のことは梅って呼んでください」
「何度も言っているが、私は女性のことは苗字で呼ぶ主義なんだ」
「じゃあ私の苗字を変えてください」
「そんなこと私にできるわけがないだろう。改名は役所でやってくれ」
「博士にもできるかもしれないじゃないですかー。どのみち役所でやることですけどー」
博士が椅子に腰かけて舟をこぐ姿を横目に、梅は盛り付けを終わらせます。
「博士、朝ごはん食べてから寝てください。半熟ですよ」
梅は博士に歩み寄り、体を揺すります。
「ああ、ありがとう」
梅は、寝ぼけまなこの博士とそのまま朝食をとりました。
その日の午後、梅が自室のベッドでくつろいでいると、博士が勢いよく扉を開けました。
「博士、必ずノックしてくださいって、私、言いましたよね」
梅は不機嫌な様子を隠そうともしません。
「すまん、いやそれどころではない。やっと完成したんだ。来てくれ」
博士は聞き流すように謝ると、興奮した様子で梅の手を引きます。
「え、本当ですか?」
梅は「完成した」という言葉を耳にした瞬間、目を見開いて驚愕の声を上げました。
「本当だ。やっと完成したんだ。是非確かめてくれ」
梅は博士に連れられ、地下の研究室に移動しました。
「これが、『次元突破ロケット』だ」
「博士、これがロケットって無理がありますよ。どこからどう見ても診察台じゃないですか。歯医者さんとかにある」
直前までの期待に満ちた表情は影もなく、梅は失望の面持ちで博士に抗議しました。
「毒田さん、見た目で判断してはいけない。確かにこれは宇宙を目指して飛んでいくような機械じゃない」
「梅って呼んでください」
「確かに大気圏を超えて飛んでいくことはできないが、疑似的に次元の壁を超えることが可能なんだ」
「その話は何度も聞いてますよ。だから期待してたのに。でもなんですかこれ。ロボトミー手術でもするんですか?」
「いや、外科的な処置は不要だ。専用の器具を頭部に装着するだけでいい。これをかぶって、ここで読み込んだ情報を脳に直接送るのさ」
博士は複数のくぼみがついたヘルメットのような器具と、診察台の真横に取り付けられたコピー機のような機械を交互に指さして説明します。
「はあ、よくわからないですけど」
「まあそうだろう。助手とはいっても君は研究にほとんど関わっていないしな」
「そもそもこの研究を続けているのは博士だけじゃないですか」
梅は半信半疑といった様子で、「次元突破ロケット」を観察しています。
「毒田さん、また明日実験するので、協力してくれるかい?今日のところは完成報告に留めて、私は一旦休ませてもらいたいんだが」
「梅って呼んでください。ここのところ徹夜続きで大変そうでしたし、いいんですけど、だったら最初から明日報告してくれてもよかったんですよ?」
梅が博士に顔を向けてそう言うと、博士は目をそらしながらこう答えました。
「そこはほら。完成した喜びを分かち合いたかったのさ」
翌日、梅と博士は研究室にいました。
「だから、漫画でも、小説でも、絵でも漫画でもゲームでもいい。二次元の媒体か、または二次元に出力される情報をここから読み取らせて、脳に送る。あとは使用者の想像力を別室の装置が最大限まで高めて、使用者の五感に作用させる。すると、使用者はあたかもその媒体や情報の中に実際にいるかのような認識を得られるというわけだ」
「博士が漫画の世界に飛んでいきたいんだなってのは伝わってきました」
梅は博士の説明を聞きながら、一つの疑問をぶつけました。
「いま流行りのフルダイブ技術ってやつですか」
「似て非なるものだ」
博士は反論を遮るようにぴしゃりと言いました。
「あれは製作者の思うがままに使用者の五感を支配する装置だ。だがこの『次元突破ロケット』は違う。あくまで使用者の思うがままの世界に飛んでいけるのさ。装置の元となるのは使用者自身の想像力だからね。同じ媒体、同じ情報を読み取らせても、使用者ごとに認識する世界は異なるはずだ」
「はあ。体験してみないと分からないですね」
梅は博士の熱弁の内容が半分ほどしか理解できないことに、いくらか申し訳なさを感じながら、そう答えました。
「では、まずは私が安全性を確かめる。毒田さんは、私が無事に帰ってこられたら実験してみると良い」
博士は「次元突破ロケット」を操作して、装置に身体を横たえました。
「最悪の場合、保険がおりると思うので安心していい」
「博士、ちなみに今ここには何がセットされてるんですか?」
梅はわずかに隙間が空いている読み取り部分を指さして尋ねました。
「もちろんドラゴン〇ールさ」
「そうですか。分かりました」
梅が上着のポケットに手を入れるのが見えましたが、博士の意識はすぐに装置に飲み込まれました。
数分後、博士は「次元突破ロケット」から転げ落ちました。意識がはっきりしていないようで、焦ったように何かをまくしたてています。
「博士、どうしたんですか」
肩を担ぐようにして梅は博士のふらつく体を支えます。
「どど、ど、どうしたじゃない。き、君、何かしたな?」
「うまくいったみたいですね」
梅は博士の赤くなった顔を見て満足げです。
「あれ、は、なんだ?」
「ラブレターです」
「や、やはりか」
博士はうなだれ、大きなため息をつきました。
博士はめまいと動悸が落ち着くのを待って、話し始めました。
「私は何もない空間にいた。地面も空もない一面ピンクの宇宙のようだった。次に見えたのは雪兎だったよ。何も言わず、じっと私を見つめているんだ。そして、空中に何か線が見えたかと思えば、そのあとはもう口にするのも憚られる言葉、というより感情そのものだったよ。まるで僕が僕じゃなくなるみたいだった」
博士が自分を「僕」と呼んでいるのを聞き、梅は言いました。
「嫌でしたか?あ、雪兎は便箋のデザインです」
博士は、自分を支えている梅を一瞥すると、弾かれるように顔を背けました。
「これはきっと好意だ。だが、違う。これはきっと『次元突破ロケット』の副作用だ。脳に送り込まれた情報に影響を受けすぎているんだ。私はしばらく調整作業に入るから、君は今日は部屋に帰りなさい」
博士は梅に預けていた体重を戻すと、あとは何も言わず梅を部屋に返しました。
博士の心臓が高鳴っていたのは、本当に「次元突破ロケット」の副作用だったのか、それとも、これまで自分が目を背けていた梅の恋心に向き合わざるを得なくなったからなのか、それはきっと、神のみぞ知ることでしょう。




