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苦手な方はご注意ください。

現代恋愛

彼女との青春戦争

作者: 尋道あさな

 

 櫻田美妃は美しい少女だった。


 小柄で華奢、それでいて、ほんのり赤く色づいた血色の良い頬は愛嬌があり、風に靡くさらさらの髪は毛先に痛みなんてものをまったく感じさせない。

 お転婆とまではいかないが、行動力は有る方で、しかし慎みがないかと言えばそういうわけでもない。学校内の生徒に美妃について尋ねれば、きっと誰もが「ムードメーカーかな」と美妃の印象を告げるだろう。

 美妃は様々な事に関わりが多すぎる。誰とでも親しく、正義感もあり、かといって一方的な思い込みや決めつけで相手を非難することもない。


 一見、完璧とも思える美妃だが――そう思わせない原因もまた、多く存在する。


 成績は良いが秀才という訳ではなく、スポーツ万能だが本物には遅れを取る。運動部の部員から「あいつ、すごいな」と評価されていても、部のエースに叶うわけではない。凡庸でもなく、特別でもなく。けれども、誰もが思っている。


 櫻田美妃には、勝てない――と。



 圧倒的存在感というものが美妃には備わっていた。別段、何かに特出して秀でているわけではないのに、美妃は誰からも認知され、誰からも嘗められない。不思議なことだが、櫻田美妃は敗北というもの今まで一度ですら経験したことがなかった。そのことから来る勝者の風格とでも言うのか、不思議な威圧感を持つ。美妃の無敗を語るには、これを先ず述べておかねば始まらない。櫻田美妃は負けたことがない、というよりも勝負自体を仕掛けられたことがないと言った方が正しかった。

 体育祭で美妃が出場した種目は陸上部の部員がエントリーを禁止されていたとは言え必ず勝ったし、文化祭で美妃のクラスの出し物はなんの変哲もない演劇だったが、見事に一位を取った。

 だが、例えば、陸上部の短距離を得意とする生徒が美妃に短距離走で勝負を仕掛けたとする。

 当然、美妃は負けるだろう。普通に考えると負け以外、有り得ない。けれども、美妃は陸上部の生徒から勝負を仕掛けられたことがない。だから、負けを知らない。

 今まで生きてきた人生の中で、誰かに勝負を仕掛けられたこともなく、故に負けたこともない。ちなみに、運が良いのか勝敗が一瞬にして決まるじゃんけんでは負けたことがなかった。それはある意味、誇れることかもしれない。


 美妃を第三者視点から見て教師は言う。

 櫻田美妃はいつの間にか中心に存在し、違和感なく周囲から慕われている不可思議な生徒だと。

 ――そんな美妃だからこそ。

 真のムードメーカーと称される美妃だからこそ、教師はその話を持ってきたのかも知れない。



 不登校の生徒がいる。

 その生徒を卒業させてやりたい。


 担任からの唐突なお願いを美妃は当然、断らなかった。

 正義感の強い娘だ。

 担任の教師も勿論、美妃がそういう生徒だと知っていて頼んだのだ。


 不登校になっている生徒は、浅野昇司(あさのしょうじ)という二年生の少年だった。

 美妃が口外しないことを条件に担任は白状したが、浅野昇司は美妃の担任の甥にあたる少年だと言う。担任の兼原(かねはら)の兄夫婦の息子らしい。

 この時点で、教師として――神聖なる教職者としては、ある意味失格とも言えるだろう。身内の為に学年の違う美妃を使わそうとなどとするのだから、美妃が嫌悪感を抱いても致し方ないと言えるのだが――やはりというべきか、美妃は、櫻田美妃は、不快感を少しも抱かずただ相槌を打ち話を聞いた。


 兼原の兄は婿入りで、妻の実家は大手企業なのだと言う。両親とも忙しく、産休明けで昇司の母が会社に復帰してから両親揃って昇司と過ごす時間はほぼなくなったのだとか。

 浅野、という苗字は昇司の母方の性で、故に担任の兼原とは苗字が違う訳だ。

 浅野家には家政婦がおり、昇司は家政婦との生活を強いられた。しかし、その家政婦とやらがハズレだったらしい。

 年齢もまだ若く、未熟だったのだと兼原は語る。直接、その家政婦との面識があったのか、兼原の表情は苦々しく歪んでいた。


 何があったのか、浅野昇司はその家政婦に一体なにをされたのか、詳しい事は語らなかったが、兼原は一言だけ言った。


「女嫌いになっただとか、そういう訳じゃないから――女だからといって櫻田が乱暴をされることは決してないし、特に心配はしなくていい」


 美妃は頷く。


「少し、いろいろあって、意地っ張りに拍車がかかったようなものだから」


 また頷く。深くは聞かず、しかし決して半端な気持ちで頷いている訳でもなかった。

 心の中だけで美妃は思う。強く思う。――なんて、勿体無い。



 そんな、兼原からのお願いを聞いた日から三日後。

 美妃は学校が終わると、助っ人を頼まれたバスケ部に丁寧に断りを入れて目的の場所へと向かう。

 豪邸と言うには小さいが、一軒家と称するには大きい。お洒落と言えばお洒落だが、そこはかとなく漂うモダンな雰囲気が温かみを感じさせる、そんな家に浅野昇司は住んでいた。


 この家で生活をしているのは、家政婦二名と浅野昇司のみ。浅野夫婦はもう何年もこの家には帰っていないと言う。


「事情は話してるって聞いたけど……急に私が単独でお邪魔しても大丈夫かな」


 こてん、と首を傾げて美妃は浅野家を見上げる。

 暫し考え、結論は出た。

 ゆっくりと腕がインターフォンへ伸びる。

 表現し難い程に柔らかな呼び鈴の音がして、インタフォーンは低い音を醸し出した。ヴ、ジジ、と電波が通るような音がして、向こうから明るい女性の声が飛び出してくる。


「どちら様でしょう?」

「櫻田美妃と申します。兼原先生に言われて此方に伺いました」

「まぁ!中へどうぞ!」


 礼儀正しく自己紹介をし、美妃は警戒を抱かせない表情で微笑んだ。


 モニターの向こうに映る美少女。穏やかな笑みと柔らかい雰囲気。機械越しでもわかる優等生然とした姿。

 家政婦の女は話を聞いていたこともあり、また、問題を抱えた雇い主の息子を思い浮かべ、大歓迎とまではいかなくとも好意的に対応をした。


 美妃を迎え入れた家政婦――四十代半ばだろうか、独特の暖かさを持つふくよかな顔でその家政婦は笑みを浮かべた。

 すぐさま広いリビングへと美妃を案内し、柔らかいソファーに座らせる。恐らくキッチンがあるのであろう奥の部屋からは茶器の微かな音がした。そこでは、もうひとりの家政婦が美妃への茶を淹れていた。

 壁に飾られた大きな額縁の中には、産まれて間もない赤ん坊の写真が入れられている。

 恐らく、浅野昇司だろう。

 美妃はそう予想して写真を静かに見つめる。美妃を案内した家政婦はそれに気が付き、小さく笑った。


「とても愛らしいお姿でしょう。今も昔も、昇司様は大変お可愛らしい」


 今も昔も、と言ったか。

 美妃が家政婦の顔を見上げると、家政婦はにっこりと笑い頭を下げて背を向けた。

 彼女は昔からいたのだろうか。はて、浅野昇司の家政婦は元々は三人だったのだろうか。深く突っ込んで聞いていないが為に、美妃の頭に疑問は残る。しかし、まぁ、いいか、と思考を切り替えて美妃は再び写真を眺めた。


 知っていようがいまいが、自分が出来ることはひとつだけ。

 美妃は最初から決めていた。

 自分に出来ること、浅野昇司を学校へ行かせる為に自分が出来ること。

 考えて、考えて抜いて、美妃は一本の道筋を決めていた。



「昇司様はお部屋から出ることをひどく嫌がられます」


 紅茶を淹れ、茶菓子であろうミルクレープを一緒に運んできた若い家政婦は、美妃の前にそれらを置くなり冷めた表情でそう言った。


「ですので、お部屋の前までお連れします。恐らくドア越しになりますが、会話は出来ると思いますので」


 それだけ言うと、着いてこいとばかりに背を向け暫く待つ。

 美妃は出された紅茶とミルクレープを一瞥し、何とも言えない微妙な表情で立ち上がった。

 先ほどのふくよかな家政婦は既に別の場所へ行ってしまったらしかった。彼女ならばこの状況になにか一言申してくれたであろうに。

 おもてなしをするつもりがあるのかないのかよく分からない対応だ。

 ふくよかな彼女は割と好意的だったが、目の前の家政婦はそうではないのだろう――と美妃は苦々しく思いながら後ろを歩く。


「無理にドアを開けようなどと無遠慮なことはお控え下さいませ」


 まるで、以前にそうしようとした人がいたような、非難めいた口調で若い家政婦は言った。


 しかし、


「分かりました」


 他人の家だ。美妃がルールに従うのはもはや当然とも言えた。


「……それから、一時間ほどでお話は終了させて頂きます」

「終了、ですか」

「一時間以内で昇司様とのお話に結論が出ない場合、昇司様からお帰りを促す連絡が此方に入った場合、即刻お帰り下さい」

「――分かりました」


 美妃は従順だった。反論することもなく、問いかけを繰り返す訳でもなく。家政婦の出した条件に素直に頷き、余計な事は口に出さない。


 そのことに面食らったのは言った本人――若い家政婦の方だった。


 少し長い廊下を歩く。家自体はそこまで大きくないのに、この距離。わざとリビングから離れた部屋を、浅野昇司は自室にしたようにも思えた。


「貴女だけでは、ございません」


 ――浅野昇司を説得に来たのは。


 暗にそう言っているのだろう。

 愚痴でも零したくなったのか、それとも美妃が何をしても無駄だと言っているのか。しかし、美妃には家政婦の発言の真意はそのどちらでもないように思えた。


「もう何人もおいでになりました。皆さま、最後には痺れを切らすのです」


 足が止まる。振り返り、家政婦は美妃を睨みつけた。


「どうか、昇司様のお心を傷付けるようなことが、ないよう」


 そう言ってまた、歩き出す。美妃は家政婦の言葉を聞き抱いた違和感に正解を見つけたようで、その口元にはうっすらとちいさな笑みが浮かんでいた。



 ――私なんて、ただの家政婦だ。

 身の回りの世話をしているだけの、浅野昇司という少年の心すら、まったく開くことができない、不出来で役立たずな家政婦だ。

 何度も声をかけ、何度も無視をされ、少年が抱えた深い闇に触れることを怖がった。

 こうして、屋敷を訪れては説得をする人々よりもずっとずっと身近に居るくせに、話しかけることすらをも今は怖がる始末だった。

 これ以上、傷ついて欲しくない。

 これ以上、悲しい思いはさせたくない。

 自分には何も出来ない癖に、好き勝手に訪れては少年の傷を抉って帰る人々に、苛立ち冷たく当たって来た。――だというのに。


「まだお名前を伺っていないので、お聞きしても?」


 ふと、浮いた――はっきりとした、それでいて可愛らしい声が背後から掛けられる。

 ゆっくりと振返ると、家政婦はハッと息を呑む。


「私は櫻田美妃と申します」


 話を、聞いていなかった訳じゃない。

 家政婦の話を聞いて尚、櫻田美妃は変わらぬまま。愛らしい笑みを浮かべ、慈愛すらをも孕んでいそうな優しい眼差しを向ける。


「家政婦さんって呼びかけるのもなんだが味気ないですし、折角出会えたんだから名前を聞いて名前で呼びたいのですが」


 なかなか言い出す機会に恵まれなかった、と美妃は気まずそうに眉尻を下げる。

 表情の変化は著しいのに、動揺だとか恐怖だとか、家政婦の話を聞いて抱いたであろう感情が一切現れていない。

 家政婦――園田由貴(そのだゆき)は、細い銀縁眼鏡の下で一瞬だけ動揺する。

 なんだろう、この少女は。なにを言っても響かないと思わせるような――強固な雰囲気。

 従順な程に素直で、反論は何一つない。それなのに、分の意見を聞き入れているような感覚がまったくない。納得して頷いた訳でもなさそうで、かといって自分に嫌悪感や不快感を抱いているという訳でもなさそうで。


「園田、とお呼び下さい」


 辛うじて口に出来たのは、それだけだった。


「園田さん、ですね。ひとつだけ、お聞きしても良いでしょうか」

「なんでしょう」

「今まで浅野昇司くんの所にきた人たちは、大人ですか?」


 不思議な問いかけだ。しかし、害はなさそうな。

 園田は少し考えて、答えても大丈夫だろうと来訪者の人数と顔を思い出すことにした。


「皆様、専門家でいらっしゃいました」

「そうですか」


 専門家。つまりは、大人だけ。

 美妃のような高校生が説得に来たことはないのだろう。美妃は少し考える素振りをすると、園田に笑みを向けた。


「ありがとうございます」


 問いかけにどんな意味があったのか、園田には分からない。しかし、美妃は充分に何かを得られたようで、表情はホッとしたようなものだった。


 浅野昇司が自室にしているドアの前に辿り着く。園田はドアをノックすると、控えめに用件を告げた。


「昇司様。兼原様よりご案内を任せられました、新しいお客様で御座います。お約束により園田は席を外しますが、御用の際はベルを鳴らしてお呼び下さいませ」


『兼原様より』『お約束により』引っ掛かる部分は多々あれど、美妃はやはり何も言わなかった。

 正真正銘、浅野昇司は甥になるというのに、担任は『兼原様』とこの屋敷で呼ばれていること。お約束により、という取り決めのようなものが存在していること。


 しかし、それらを詳しく知らなくとも、美妃の行動に差支えはなかった。


 園田はちらりと美妃を見て、一礼し背中を向けた。そんな園田を美妃は引き止める。


「園田さん」

「……はい」

「私、期待に応えられるかどうかは分かりません。でも、園田さんの気持ちはほんの少しだけ受け取りました」

「何を――」

「傷付けたりなんか、しない。もう、誰にもそんなことさせない」


 まるで、これが最後だと――そう言わんばかりの美妃に。


「……宜しくお願い致します」


 どうして『大丈夫』だなんて、自分は思えるのだろう。園田は何故か一瞬だけ安心して、はじめて、来訪者に笑った。すぐに表情を元に戻し背を向けると、その場から歩き出す。そして、不可解な感情に胸を騒がす。いま、私は笑った?――この少女は一体、なに。





 さて。と美妃は向かい合う。浅野昇司がいるであろう部屋のドアと。

 第一声は決めていた。他には思いつかなかった。


「昇司、久しぶり」


 張り上げた訳でもない。

 小声だった訳でもない。

 普段よりはトーンを下げた、少し切なげな声。



 ――その言葉の数十秒後、ドアは静かに開いた。



「ひ、卑怯だ……!」

「随分な言い草ね。私は卑怯なことなんて何もしていないけれど」

「久しぶりなんて言うから!」

「前に会ったことが無かった……?記憶違いだったのかな」


 しれっと美妃はそう言って、浅野昇司の自室にまんまと入り込んだ。


 作戦と言えば作戦だが、こんなに簡単に行くとは露ほども思っていなかったのだ。


「普通、久しぶりとか言われたら誰だって知り合いだと思うだろ!?」


 念の為に言っておくが、櫻田美妃と浅野昇司に面識は一切無かった。

 浅野昇司が美妃を知り合いだと勝手に勘違いをして、自らドアを開けたのだ。警戒心のない浅野昇司の失態だと言ってもいい。美妃に非はない。

 会ったことがあったような無かったような、という曖昧な態度で美妃は昇司の怒りを受け流した。


「これでもう知り合いよね。顔見知り程度でも一応は知り合いなんだから」


 飄々と言ってのけると、美妃は昇司の自室の隅に置かれたソファーに腰掛ける。


 浅野昇司は――美妃が想像していたよりも、ずっと普通の少年だった。

 少年然とした可愛らしい顔立ちで、身長もまだ伸び盛りらしく低くも高くもない程度。色白ではあるが、恐らくそれは引きこもりの弊害であろう。染めていない黒髪はベタベタしているというようなこともなくサラサラ。細めな腕も足も、筋肉がつけばそれなりに逞しくなりそうだった。強いて引っ掛かる部分を挙げるならもう夏も近いというのに長袖を着ている部分だけだ。


「座るな。……帰れよ」

「分かりました。じゃあ、兼原先生がいらっしゃったら、貴方から私に会ったことを伝えて下さいね」


 そう言って美妃が立ち上がると浅野昇司は「えっ」と声をあげた。


「は……?はぁ!?なん、え、なんだ、は?帰るのかよ?」

「帰れと言われたらそうするしかないじゃない?」


 帰るつもりは更々無いけれど、と内心で美妃は思う。その証拠にすぐにソファーに座り直し寛ぐ。

 ――浅野昇司は突然のぶっとんだ来客を、かなり持て余しているようだった。


「お前、あいつに言われて来たんだろ」

「兼原先生?」

「そうだよ。あいつ、今まで関わって来なかったのに」


 ぶつぶつと何か文句らしきものを言っている。が、美妃の耳までは届かない。


「詳しい事情は知らないけれど、貴方を学校に連れてきて欲しい、と言われて私はここに来たの」

「知ってるよ。どいつもこいつも俺を外に出したくて必死だからな」

「そう。複雑な事情がありそうね」

「何も聞いてないのかよ」

「聞く必要がないでしょ」


 美妃が言い切ると昇司は不可解だと言わんばかりに眉を顰めて美妃を睨む。


「私は貴方を学校に連れて行くだけ。それ以外の事はどうでも良いの。知ってもどうしようもないじゃない?」

「……学校には、行かねぇよ」

「行くの」

「勝手に決めんな。行かないって言ってんだろ」

「行かない理由を聞いて欲しい?」

「……誰がっ」


 べつに、煽った訳ではない。聞いて欲しそうな顔をしていたから、確認したまでだ。

 昇司は恥ずかしいものを見られてしまったかのような羞恥心でいっぱいの顔をして、吐き捨てるように言った。


「おまえなんかに、はなすか」




 暫く互いに無言になった。

 美妃は昇司をじっと見つめ、昇司は居心地が悪そうに俯いて背を向けている。

 タイムリミットまで、あと四十分。美妃はひたすら無言を貫き、その時(昇司が口を開く時)を待った。そして、それは案外すぐに来る。


「……おまえ」

「なあに」


 少し離れた場所から此方を睨みつける、少年。警戒心でいっぱいの顔を隠しもしなかった。


「なんでここに居座ってんだよ、帰れよ」


 美妃は考える素振りもなく、あっさりと言い返す。


「知ろうと思って」

「はあ?」

「浅野昇司、という名前を私が聞いたのは数日前で、私は貴方のプロフィールを一切聞いていないから」


 美妃は知りたかった。

 彼のことを。浅野昇司という少年のことを。誰かから聞かされた話ではなく、自分で見て知りたかった。


「私ね、願掛けをしてるの。貴方に」

「願掛け?」

「そう。もし、貴方が学校へ行くようになれば、私の願いが成就するって、願掛け」

「どんな?」


 夕焼けが、差し込む。日暮れが訪れる。


 眩いほどのオレンジを背に、ひとり、光に包まれて。美妃はゆっくりと唇を動かした。


「――ひみつ」




 これは、初めから決まっていたことだった。

 美妃の中では揺るぎない、決定されたシナリオだった。

 初日は、浅野昇司とのファーストコンタクトは、あっさり終わらせようと。




 その報せが届いたのは、それから三日後のことだった。

 兼原は信じられない、としきりに口に出していたし、動揺なのか焦りなのか、よく分からない顔で興奮気味に美妃と向かい合っていた。

 放課後の科学準備室。

 兼原が鍵を借りてふたりの密会がはじまる。密会というより密談のような色気のないものだ。


「家政婦から連絡を貰った。櫻田、凄いよ。昇司が気にしてるみたいだ。櫻田のこと」

「それで、私はどうすれば良いんですか?」

「今日の放課後、行ってくれ」

「今日は写真部の現像を手伝う約束があるんですが」

「……断れないか?」

「はい」

「どうしてもか?」


 縋るような瞳で見つめられると美妃も否とは言えない。

 そういう性格だと分かっていて言うのだから、兼原も案外腹黒い。

 美妃は仕方がなさそうに息を吐き出すと、ゆっくり頷いた。


「……分かりました。行きます」



 写真部の部員には謝りに行き埋め合わせは必ずすると伝えたが、どうやら季節外れの新入部員が入ったらしく気にしなくて大丈夫だと笑い飛ばされた。美妃が人間関係を円滑に築けるのは、不思議な運のおかげかも知れない。

 モダンな浅野昇司の家は三日前に見たものと変わりなかったが、二度目となると感動が薄れるのはやはり慣れというもののせいだろうか。

 美妃はインタフォーンを押して、返事を黙って待つ。

 数秒もしないうちに園田が玄関から出てくる。小走りにコチラへ向かってくる園田は、三日前に会った時よりずっと美妃に好意的だった。


「お待ちしておりました」

「園田さん、こんにちは」

「昇司様がお待ちです。兼原様から連絡を頂いてから」


 一瞬、そわそわしている子犬が脳裏に浮かぶ。確かに、人懐こそうな少年ではあったけれど、充分に警戒はされていたはず。


「……そんなに待たれるほど、仲良くなってはないんですが」

「さて、私には分かりませんが……お茶の準備を申し付けられました。初めてのことで、御座います」


 ぼそぼそと紡いだ言葉は決して前のようにつめたいものではない。嬉しい感情を堪えたが故の小声、と思えるつぶやきだった。



 部屋の前まで案内される。園田はドアをノックして、すうっと息を吸った。


「昇司様。兼原様よりご案内を任せられました、櫻田美妃様で御座います。お茶はすぐにお持ち致します」


 すぐに身を翻す。それから瞬きもしない間に内側から僅かにドアが開いた。園田の肩がびくりと跳ねる。美妃はドアの向こうに視線を向け、昇司の苦々しい顔を目ざとく見つけた。


「気まずいの?」

「……早く入れ」

「お邪魔します。お茶の準備をお願いしてくれたんだってね、ありがとう」

「べつに」


 部屋の中に入ると案内を待たずに美妃はソファーに腰掛けた。昇司は呆れたような顔を一瞬だけ浮かべ、すぐに乾いた笑みを作る。


「おまえと話せるのも、あと一回だけだ」


 美妃の返事を注意深く、観察するように昇司は待った。どんな反応をするか、試しているみたいだった。


「そう。あと一回だけしか会えないの。寂しくなるね」


 用意されたセリフをすらすらと読むように返事をする美妃。昇司はがっかりした様子で肩を落とすと、一応、と言わんばかりに美妃へぞんざいな視線を向ける。


「理由、聞かないのかよ」

「聞いて欲しいなら、聞くけど」

「……聞いて欲しいわけじゃねぇよ」


 ――ただ、あまりにも、どうでも良さそうだから。


 美妃は昇司が思うほど、昇司をどうでも良いと思ってはいなかった。けれど、きっと、そういう振りが必要だと昇司を前にして自然と思った。

 昇司の戸惑いを無視して、美妃は軽く首を傾げる。


「今日はあんまり元気がないね。体調でも悪い?」

「悪くない。――願掛け、結局なんなんだよ。それが、気になってた」

「ひみつって言ったでしょ。言わないからね」


 コンコン、とノックの音がして。


「取ってきてあげようか」

「……おう」


 家政婦が苦手、と昇司の顔には書いてあった。


 園田か、もうひとりの家政婦か。どちらが運んできたものかは分からないが、小さめのワゴンにはふたり分のティーカップとティーポット、茶葉が入った硝子の瓶、ミルクの小瓶、角砂糖の入った瓶、それから――以前、食べ損ねたミルクレープが乗っていた。

 昇司は慣れた手つきで紅茶を淹れると、美妃に自然な動作で振舞う。高校二年生の男子があまりにも自然に紅茶を淹れるので、美妃は多少驚いて、しかし突っ込んでは聞かなかった。


「美味しい」

「紅茶の味が分かんのかよ」


 すこし、馬鹿にしたような笑み。しれっとした顔で美妃は答える。


「飲んだことはあまりないけれど、美味しいか不味いかくらいは分かるかな」

「へぇ」


 自分の分を淹れて、昇司は向かいのソファーに座る。美妃の返答は、昇司にとって充分な賛辞になったらしかった。


「また、あいつに言われて来たのか」


 昇司がぽつり、と零した言葉に美妃は反射的に顔をあげた。


 ――そういえば「来て欲しいと言っていた」とは聞かされていない。

 ただ「気にしていた」ということしか。

 ならば昇司は美妃がここに来た本当の理由を、まったく知らないのだろう。


「私は今日の放課後、写真部の現像を手伝う予定があったの」


 嘘は吐かない。気も使わない。

 美妃は昇司を喜ばせる為にここに足を運んでいる訳ではない。


「その予定をキャンセルしてここに来た。兼原先生にお願いされて」


 知らなかった事実を知らされた昇司は、それはもう眼球がぽろりと落ちてしまうのではというほどに大きく目を見開いて、美妃の言葉に絶句していた。


「貴方が私のことを気にしていた、と聞いて来たの」


 ――真実は、あなたにとって、残酷なもの?



「おれ、は、」



 ああ、きっと、彼は、いつも。

 ああ、おれは、いつだって。


「――名前を呼んでも良い?貴方って呼ぶのは、味気ないから」


 張り詰めそうになった空気を、一瞬にして和らげる。美妃は何でもないことのようにそう聞くと、昇司の返事を待った。


「好きに呼べよ。その代わり、俺も呼ぶ」

「どうぞ。私の名前は知ってる?」

「美妃」

「そうだね。貴方は昇司」


 名前がふるえた、と昇司は思った。自分の名前が、はじめてふるえた。



 美妃は昇司の背景を自ら進んではひとつも知りたがらなかった。昇司も話さなかった。

 けれど、話していて、実際に触れ合ってみて、嫌でも知ることはある。

 昇司は家政婦が苦手。紅茶を淹れるのが上手。学校に行きたくない。理由を話したくない訳でもない。

 素直になれなくて、意地っ張りで、年相応で、周囲が心配するほどにひねくれている訳でもなかった。


「明日、またここに来るよ。何でもないことを話そう」


 なにか言いかけた昇司を遮って、美妃はいつものように笑った。




「だから、ダージリンとアールグレイは違う銘柄なんだっつの!」

「茶葉の違いなんて分からない。どっちも美味しい、それで良いでしょ」

「ゴクゴク飲むもんじゃねぇの!紅茶は水じゃねぇの!」


 三日目――最後の日。

 美妃は三回目の訪問だというのに、慣れた様子で部屋までたどり着いた。

 昇司はドアを少し開けて、ベッドに座って美妃の入室を待っていた。今日も昨日と同様に、昇司の紅茶が振舞われる。なんの感動も感慨もなく紅茶を飲み干した美妃に、昇司はつい驚いて「ありえねぇ!」と声をあげた。それから繰り返される応酬はキリがないもので、次第に美妃は返事が雑になっていくし、昇司も意固地になっていく。互いにふっと息をゆるめ、無言になることで話題には終止符を打った。


 もう何度目かの沈黙のあと、やっぱり話しだしたのは昇司だ。


「三回目以上、面会したら……親父に連絡が行くんだ」

「そう」

「そしたら、おまえは、美妃は、もう、自由に出来なくなる、から」


 今までがそうだった。

 昇司と多少でも打ち解けると、毎日家に来るようになる。


 父親のいらぬ気遣いで、自由を奪われた人間がいる。

 夕方から夜までの時間をこの家で拘束され、次第に昇司とのやり取りが業務のようになっていく。


 それは確かに、彼らにしてみれば業務だったのだ。金銭が発生するようになると、彼らは妙に昇司を気遣い雇い主に何か言われまいとまるで腫れ物に触れるように昇司と接するようになった。


 昇司が望まなくても、周りが気を回してしまう。それは家政婦が起こした事件の以降、一際激しくなった。

 昇司の行動が少しでも浮けば、すべて報告されてしまっていた。もうとっくに櫻田美妃のことも報告されているだろう。

 それでも、三回目を超えなければ動かないと昇司は知っていた。

 離れているが故に過保護になる、両親。昇司をひとりぼっちにしたのは両親であるのに、まるで昇司へ同情するかのように人間を寄越すようになった。本当はわかっている。自分とどう接していいか、両親は分からなくなってしまっているのだと。

 時には会社の部下の知り合い、時には友人の知人、誰かの紹介で来る人間が増えていく度に昇司の心に何かが溜まっていくようだった。

 一度、園田に来訪者と会いたくないと手紙で告げたら、来訪者を帰した園田はひどく叱られ、両親から約束事を契約内容に追加された。園田に言わなければ良かった。園田でなければ、あんなに怒られることはなかったはずだった。

 謝りたい。しかし、昇司は家政婦をどうしても信用できなかった。一言、声を掛けるだけで良いのに、それがなかなか出来ない。

 用件があるときは紙に書き、自室の前に出しておく。ベルを鳴らせば園田かもうひとりの家政婦が手紙を受け取り用件をこなす。

 そうやって生きてきた。自室にはバスルームもトイレも完備してあるのだ。部屋から出る必要はまったくなかった。

 そうやって、自分の殻にこもって、平和な時間を過ごしていた。そんな時、訪れた。――櫻田美妃は、すこしだけ、いや、かなり、変な来訪者だった。


「――学校はね、自由じゃないように見えて、自由なところなの」


 昇司は一瞬、ついていけなかった。何の話だ、と美妃を見る。


「時間割、休み時間、委員会、部活、自由には思えないかも知れないけど、実際はどんな場所よりもずっと自由」

「はっ。だから、行けって?」


 昇司を無視する。美妃は続けた。


「委員会も部活も自分で選べる。時間割だって選択授業は自分で選べる。休み時間は何をしても良いし、最低限のルールを守っていれば多少奇抜なことをしたって許される。――でも、家はそうじゃない」


 美妃の瞳が昇司の瞳とかち合う。一直線に結ばれる。真剣な表情だった。それは、笑っていない顔。


「全てにおいて管理される。行儀、生き方、将来、すべて。自由になんかなれない。少し変なことをすれば咎められる。少し反論すれば生意気だと叱られる。自分を解放できるのは、個人を主張できるのは、学校という場所だけなの」


 少年は、泣きそうな顔をした。昇司はぐっと眉間に皺を寄せ、真剣な顔の美妃を睨む。


「最後の最後で、説得に走んのかよ……っ!」


 もうこれが、最後なのに。

 まだまだ話したいと思うことが、いっぱいあるのに、そんな話を。

 おまえと話せるチャンスは、もう、これきりなのに。


「それから、学校には素敵なところがある」


 美妃は立ち上がる。もうすぐ夕暮れが訪れる頃。


「約束なんてしなくても、待ち合わせをしなくても、学校に行けば」

「美妃っ!」

「――私と昇司は会えるよ」


 窓際へと歩き出す美妃は最初と何一つ変わらない。立ち姿はきれいで、表情は凛として、愛嬌のある色づいた頬はオレンジに染められていて。


「私はね、最初から昇司の平和を崩してやろうって決めてた。そうするって決めてたから、他の情報はいらなかった。平和を崩すのなんて、私の身一つで充分だったから」


 ぶつかれば、崩れる。知っていた。

 ひとは、ひとを受け入れられない。

 自分のテリトリーを犯されたら、戦うことを選ぶのだと。


 内側から徐々に犯していった。美妃は昇司の部屋の中で、昇司の心を擽った。


 ――はじまりだ。


 オレンジ色の夕焼けの光が差し込む午後五時三十分。目が痛いほどのオレンジを背景に、美妃は微笑んだ。


「知ってた?」


 美妃の瞳が、昇司を射抜く。

 金縛りにあったみたいに、昇司の体は硬直した。

 視線を逸らせない。逸らさせない。


「これはね、戦争だよ。勝つか負けるかの」


 一方的に仕掛けられた戦争によって、昇司の平和は壊された。


 後戻りなど出来ない。この女は最初から、昇司を引っ張り出す為だけに、ここへ出向いて来ていたのだ。


 三回目がなんだって?昇司の事情がなんだって?


 そんなものはどうでもいい。櫻田美妃の目的はひとつ。昇司を学校へ行かせる為に、昇司の平和を崩すこと。


 会いたくなる。きっと。

 まだ何も始まっていない。

 美妃は敢えて始めさせなかった。


「………っ、上等だ」


 グッと拳を握り締め、負けじと彼女を見つめ返す。


 ――逃げねぇよ。受けてやる。


 その気持ちが伝わったのか、――櫻田美妃は不敵に、嬉しそうに、微笑んだ。


「ねぇ、昇司。願掛けは、私が勝った時に教えてあげる」


 ――絶対に、会いに行かねぇ。絶対に、思い通りになんて、ならねぇ。


「俺は、意地っ張りなんだよ。おまえが、思ってる以上にな」



 ひと月、ふた月、み月。季節が過ぎ行く、その途中で。

 彼女を、知っていく。


 触れ合わぬまま、三日間だけの、あの記憶だけを残したまま。



「これだけあれば、現状を脱することが可能かと」

「必要ありません」

「しかし、今のままでは――」

「受け取ったら、私は二度と彼の前に顔を出すことが出来ないから」


 彼女は頑なだった。へんな少女だと、男は思った。


「……受け取らなかった?」

「はい。断固として、お断りさせて頂きます、と」

「なんでだよ、ちくしょう……っ!」

「もう一度、お伺いしますか?」

「……したって無駄だ!絶対に受け取らない!あいつはたぶん、そういう女だ!」



 知っていく。知っていく。



 ――櫻田美妃。十八歳。

 両親共に幼少の頃、他界。

 施設にて六歳の頃引き取られ、養父母の元で生活。

 養父母は飲食店の経営を行っており、高校卒業後は養父母が経営する飲食店へ就職予定。

 六歳の頃から飲食店の手伝いを始め、過労により倒れたこと数十回。

 現在も月に数回、過労により体調を崩すも通院の記録は一切無し。


「こき使われて、これから先も、ずっと、続くってのに、馬鹿だ」


 ――学校はね、自由じゃないように見えて、自由なところなの。


「現代版シンデレラかよ。馬鹿じゃねぇの、馬鹿なんじゃねぇの」


 会いたい。会いたい。会いたい。……あいたい。


 ――約束なんてしなくても、待ち合わせをしなくても、学校に行けば――私と昇司は会える。


 しってる。わかってんだよ、そんなこと。


「昇司様のご指示通り、此方に通う際の交通費という事で援助のお話をさせて頂きました。一人暮らしをするにも充分な金額です。住居も賃貸契約で保証人はご用意出来ておりますが――ご本人様が頷かれないと、やはり」

「ああ、分かってる。あいつが納得しなきゃどうしようもねぇのは」


 さらいに行くことなんて出来ない。王子になんて、なれない。

 立派な馬車を用意して迎えに行けば、あいつは俺のことを、すげなく追い返してしまうだろう。


「お父上にご連絡をして養父母の方をどうにか――」

「良い。無理やりじゃ亀裂が入る。金は借りるしかねぇけど、使い道は俺が決めて良いって言ってただろ。将来、会社継いだ時に全額返すんだからな。他に恩は売りたくない」

「では」

「……どうすれば良いのかは分かってる。ただ、癪なだけだ」


 夕日の中で持ちかけられた戦争はまだ終わっていない。

 きっと、彼女は待っているだろう。きっと、予想外でもあったはずだ。


 すぐに追いかけることもできた。しなかったのは意地でしかない。彼女の想像していた以上に俺は意地っ張りだったんだろう。でも、それでも、最後には――俺は、負けを選んだだろう。今、そうしようとしたみたいに、結局は、選んだのだろう。


 華奢な身体に詰め込んだ、たくさんの傷跡を。

 勝手に知ってしまった俺を、彼女は軽蔑するだろうか。

 彼女が語らなかった背景を、勝手に調べ上げたことを彼女はどう思うだろう。俺が愛を囁けば、同情だと、罵るだろうか。


「――制服は、どこにある」





「先生」

「な、にかな」

「卑怯じゃありませんか」

「何の話かな」

「私のこと、話したでしょう」

「ん、んー?」

「昇司に私の家庭のこと、私の生い立ちのこと、話したでしょう」

「どうして?」

「昇司の使いの人がきました。養父母が留守の間を狙って」

「へ、へぇー……」


 櫻田美妃はムードメーカーだ。いつの間にか主導権を握り、中心に存在する。

 教師はそれを見て櫻田美妃に若干の恐れを抱く。あまりにも強い輝きは、まるで生き急いでいるみたいで。

 ここでしか輝けないと、自分を惜しみなく削って、今この瞬間を最大限に楽しんでいるようで。


 消えてしまいそうだった。

 光を放つにはか細く、不健康なんて言葉とは無縁そうであるにも関わらず、入ってくる情報はどうしても同情を誘う。かわいそうだ、不憫だと、思う心がフィルターをかける。櫻田美妃を尚更、眩しく見せている。


 ざわ、と廊下が騒がしくなる。放課後にどうしてこんなにも騒めきがあるのだろう。

 兼原と美妃は反射的に騒がしくなった方を見た。


 互いに、目を丸くして。

 信じられないものを見た、と互いに思考を共有する。


 ぱりっとしたカッターシャツ、クリーニング上がりなのか新品なのか、一切汚れていないブレザー。

 きっちりとネクタイまで締めて、彼はそこに存在した。

 以前より短くなった黒髪、以前とあまり変わらない肌の白さ。以前より、少し逞しくなった顔で、不機嫌そうに此方を睨みつけて。


「負けで、良い」

「良いの?」

「どう思われても、嫌われても、それでもいい。俺はおまえが、おまえのことが――」

「私は、『それは同情だ』って言ったほうが良いの?」

「そう思われたって、仕方ない」


 兼原は困ったように頬をかいた。余計なことを言ってしまったと今更反省しているのだろう。

 美妃は少し、息を吐く。昇司はびくりと美妃を見つめる。


「ねぇ、知ってた?」


 人って本当に不思議で、自由で、


「三日で恋に落ちることも、そんなに珍しいことじゃないの」


 昇司は瞬きをして、ふっと苦笑した。


「なぁ、知ってるか?」


 全部、全部、受け止めるって、


「背中の傷がお揃いなんだ、俺と、美妃」


 三日過ぎて、後になって、思い出になりかけて――運命だって思って、恋に落ちることもあんだよ。




 美妃の背中には大火傷があると昇司が知ったのは、美妃との戦争が始まってからひと月が過ぎた頃だった。虐待による火傷と事故による火傷の違いはあれど、同じものを背中に持っていると知った時、胸が締め付けられた思いがした。


 ずっと忘れられなかった。でも負けたくもなかった。

 日がな一日美妃のことを考えている時点で既に、負けていたのかもしれないが、少なくともそれを知るまで昇司は行動を起こさなかった。


 初めて家政婦が派遣された頃、昇司はまだ慣れておらず、家政婦も慣れておらず、互いに微妙な距離を取りつつそれでも分かり合おうとしていた。しかし、次第に家政婦は仕事に慣れ始める。ついていけていないのは昇司だけで、戸惑っているのも昇司だけになった。

 家政婦はもどかしく感じ、昇司との距離を詰めにかかる。

 昇司は紅茶を淹れるのが好きだった。お湯を沸かす作業を家政婦は担おうとした。

 悪意はなかったと思いたい。しかし、当時不定期で派遣されていた家政婦の話では、若いその家政婦は、なかなか懐かない昇司に痺れを切らし苛立っていたとも言う。

 電気ポットが購入されたのは事件のすぐ後だった。昇司が背中に大火傷を負い、緊急搬送されてすぐ。両親はその時も、家には帰ってこなかった。


 それから引きこもりだした昇司は誰にも自分を触れさせず、殻に閉じこもるようになった。殻を破いたのはひとりの少女で、しかし、傷を舐めあうことも、馴れ合うこともしなかった、少女。

 後になって、少女の境遇と傷を知って、少女に完全に恋をした昇司はやはり少しずれてしまっているのかもしれなかった。


 それでも、少女はそんな昇司を拒絶しなかった。



「健全な理由が絶対じゃなくてもいいと私は思う」

「……同情だって疑ってんだろ。違うからな、否定するぞ、一応」

「思い出し笑いならぬ思い出し恋ってことね、理解した」

「……そうだな、思い出してばっかりだった」


 あの三日間は繰り返し、ずっと頭の中にあった。

 決定的な何か、と言われれば夕日に包まれた彼女の姿がぱっと思い浮かぶ。

 ひみつ、と言ったあの瞬間と、最後の三日目のあの瞬間。


「願掛け、言えよ。ちゃんと来たから」

「まぁ、ちょっと遅かったけど。しかも放課後だけど、約束だから教えてあげようかな」


 はじめて、触れる、互いのてのひら。


「昇司が学校に来たら、私は未来を作り変えることが出来る。そういう、願掛けだった」

「作り変えろよ。こんな恥ずかしい思いして来たんだから、叶わなくちゃやってらんねぇ」


 注目の的だ。不登校児が急に学校に来て、学校一の有名人の少女に告白したのだから。

 誇り高く、自らを削ってまで輝いていた有名人の彼女は、ぎこちない微笑みを浮かべ、少年の胸に飛び込んだ。


「学校に行きたくなかった理由は、本当は知ってた。というよりも、昇司に会いに行く前に兼原先生から聞いて察しが付いた」

「……行っても無駄だから行きたくなかったんだよ」


 親しい人間なんて作っても虚しくなるだけだと。どうせ、離れてしまうのに。


「――うん。二年生が終わったら、留学するんだってね」


 分かっていた癖に。どうして。


「……じゃあなんで来させようとしたんだよ。願掛けのためか?」


 腕の中で、彼女が笑う。ひとに触れるのは、本当にひさしぶりだった。僅かに力を込めると、彼女は擽ったそうに身動ぎをして振返る。


「私は卒業したら、自由がなくなる予定だったから――自由がなくなるって分かってて、今を閉じこもってる昇司が何だか許せなかったの」


 勿体無いと、心底思った。エゴでもあった。勝手な、押し付け。


「完敗だ。俺の領土はぜんぶ、やる。だから、いつでも家にきていい。おまえのもんだ」

「あ、昇司」

「なんだよ!いま、すげぇ、恥ずかしい思いして……っ」

「ほら、夕日」



 夕焼けに包まれる。今度は――ふたりだった。




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