約束
遅れましたこと誠に誠にかたじけない。
「ハァ、ハァ…やっと撒けた…?」
息が切れ、膝に手をついている少女。年は十四、五ほどか。長い黒髪に漆黒の輝く瞳は、深い理知がうかがえる。少なくとも、今少女がいる場所にはふさわしくはない。
「…結構汚れた。侍女の古着を拝借したものだけど…ここまで汚れると申し訳ないわね」
乾いた糞尿と血の臭いが篭る路地裏。力無く、死体と区別のつかない人間が横たわる地獄、一歩手前の場所。その場所において彼女は限りなく浮いている。
地味で質素なものと思って借りてきた服はここでは超がつく上物。一挙一動からして違う、隠しきれぬ気品。周りを見渡す瞳は、凄まじい教育の賜物である知識からくる理知が全てを見通そうとするかのごとく。それは、笠を被っていてもわかるものだ。
まさに、住む世界が違う。そんな存在。
「酷い臭い…臭いし…汚いし…でも…」
わずかに顔を顰めた少女は、それでも皮肉げにつぶやく。
「こんな場所でもアソコよりはマシね。だって、こんなに心が軽い」
普通の感覚であればだ。表の、ましてや上等な暮らしをしている筈の少女がこの裏路地の環境になど例え一秒でもいたくはない筈だ。
だというのに、この少女はたしかに安堵の表情を浮かべた。この悪辣な環境に安息を見出したのだ。
それは、たしかに少女が持つ異常性。感覚がひどく狂っている。
「………まぁ、予想はしていたわ。こうなることは」
この路地裏の死にかけの住人が目を血走らせ彼女を凝視する。この場所で浮く存在である彼女。逆に言えば、相応の立場がある人であることがこの場にいる誰もがわかる事だ。それでも、生死の狭間で限界を迎えかけている彼らには関係はない。
どうせ、明日にでも潰える命。その服、身体に身につける全てを剥ぎ取る。一か八かの賭けなど、その賭けが成立すること自体僥倖。ならば手を伸ばすだろう。
「ガ、キ…寄越せ…全部ぅッ‼︎」
まるで亡者の群れ。フラフラと立ち上がるもの、這ってくるものいる。皆、少女を見て離さない。
「残念。流石に自衛の手段くらいは持ってるの」
小さい声で詠唱。ごく短いそれで発動の準備は整う。
「影よ…縛れ。縛って、縛って、締めつけて。……貴方達が選べる選択は締られ、絞め殺される前に早く諦めること」
少女の影から伸びる影が彼らの身体に纏わりつき、身体を縛り上げる。動くことで精一杯の彼らにそれを解く力は無い。
力無く諦める彼らを見て安堵の息を吐く少女。
「ふう…この妖術が通じてよかった…。これでなんとかやっていける」
逃げた彼女のいちばんの課題は襲いくる、路地裏の人間たち。それさえクリアしてしまえばあとは身を潜めるのに最高の場所。
そう思っているなら、やはり甘いとしか言えない。ここには亡者一歩手前のような存在ばかりではないのだ。
「カシラ…聞いてますか?朝から出回ってるあの噂」
「あぁ、なんでも隣のシマを牛耳っていた悪鬼、小綱組みの頭目が殺され立って話だろ?ガセだろ?」
「いや、それがそうじゃない見たいですぜ。本当にアイツのこと誰も見ていないんです。小綱組みの組員も半分以上が殺されていたって話ですし」
「しかしよ、普通カシラがとられたらほぼすぐに消滅するだろ。それかこっちに流れてくるかよ。この世界に生きている奴は今更表にはでれねぇんだから」
「えぇ、やられたばかりで混乱しているのかもしれません。しかし、もし噂が本当だったら…動くなら今では?あの悪鬼に何度も煮え湯を飲まされたんです。ここは…一気に攻勢にでるのが吉」
「……他の奴らに取られる前に一気に総取りしようってか。よっしゃ、やるか‼︎準備しろ!テメェら」
「ヘイッ‼︎」
「……ここの酷い臭いにも慣れてきたわね」
懐から保存食である乾いた餅を取り出し、モソモソと唾液で柔らかくしながら食べる。比較的に綺麗な場に腰を落ち着けた。何故だかここにはあの死にかけの人たちは誰もいない。裏路地の中にしては不自然なほど綺麗な場所だ。
「そういえば、あの時見かけた男たちが持ってた槍と刀…」
あれは昔、蔵で見たことがある。銘は無いが丈夫で切れ味の良い名刀と名槍だ。そして、我が敬愛する兄が唯一持って行くことが許されたふた振り。
「見間違える筈が…ない。あの二人は…どこで兄様の得物を?」
もしかして都から離れ、金に困ったから手放したのか?それとも、本当に見間違いか。
「それか…それか…お兄様を殺して奪い取ったか…」
それなら。それならばだ。
「殺す。絶対に殺す。長貴お兄様を…手にかけたなら…絶対に許さない…」
少女にとって今はいない兄。唯一、少女を気にかけてくれたあのやさしき兄。その存在は今なお少女の中で非常に大きい。何度立場が違うと言われても怒られても隠れてあって慰めてくれたあの優しき彼。
その顔を思い浮かべるたびに、憧憬、慕情の念が溢れてくる。幼き頃の淡い初恋の大事な記憶。
「後で、確かめないと…お兄様なんだかんだ弱かったし…ゴロツキに殺されるなんてありえるもの」
甘い思い出、しかしそれでも賢き少女は客観的な視点は失わない。ただ、会わない間の成長は視野に入れていないが。
「…足音?多い…」
周りを見渡し、隠れる所を探すが見当たらない。仕方がないので足音から離れるように移動する。路地裏の道は複雑怪奇、碁盤の目場の都の表側以外はまるで迷路のよう。そのため、行き止まりも無数にある。
その一つに彼女が当たった。外れたとい言うべきかわからないが。
「う、嘘!もうそこまで来てるのに!」
多人数の移動時にある不揃いの足音。あらゆる声。かちゃかちゃとなる武器の音すら聞こえる。
彼らがどこに向かうかはわからないが、それでも存在はバレる。今度はあの妖術でどうにかなるかわからないのだ。今度は武器を持って戦うもの達だから。死にかけの人間を縛り付けるのとはまるで違う。
「……カシラ。やはり、あの野郎は死にましたね」
それでも僅かな望みを賭けて息を殺し影に隠れる。その場所に男が立ち止まり話始めた。
心臓が煩いくらいになり、恐怖に震えるのを必死に腕で抑える。すぐ近くに止まったからこそわかる、格の違い。妖力量は自分とは比較にならないほど多く禍々しい者がいる。また、他のもの達も多かれ少なかれ戦闘経験があるのだろう。磨かれた妖力を感じた。それが…40人はいる。
「そうだな、アイツならこういう見逃しは絶対にやらねぇ」
「はい、こういう絶好のカモは見逃さねぇですからね」
僅かに身を隠せる場所、カビの生えた汚いゴミのような木箱が木っ端微塵に破壊された。それにより、現れる少女に姿。
「よう、嬢ちゃん」
「影縛りッ‼︎」
「へぇ、嬢ちゃん貴族かい?それともお武士様の姫か。妖術が使えるのかぁ。偉いねぇ。随分といい生活を送って来たんだなぁ。没落したか、先の戦で死んだか、まぁいい気味だぜ。今までいい暮らし、楽して来たんだ、納得して捕まれや」
影に縛られているはずの男はそれでも、少女に手を伸ばし影の拘束を破壊する。
「うぐッ!」
「はい捕まえた。全部活用してやるよ、服は売り、身体も存分に売らせてやる。いいだろ?今まで幸せなんだから?」
眉を上げてバカにしたような表情を見せる頭目に、震えが止まりキッと睨みつけて吠えた。
「ふ…ふざけるな‼︎し、幸せなんて…無いッ‼︎アソコにはそんなもの無い!」
「はっ、贅沢だな。食うものに困らない、雨を凌げる屋根がある。これが当たり前すぎて幸せに感じねぇときたか。嬢ちゃんッ!」
頭目が握る少女の腕がメキメキと音がなるほど強く軋む。頭目からも静かな怒りが溢れたのだ。それは掃き溜めのような場所で生まれた彼の怒り。
「いっつ…ッ!お前の幸せを…押し付けるな…あの地獄を見てないくせに!こんな居心地のいい所にいるくせに!明日殺されるかもしれない恐怖に怯えたことがあるッ?みんな裏切っていく!みんな離れていく!近くのは屑ばかり!操られる、全て決められている、最後!最後に!全て!全ての責任を背負わされる!私の知らない全てを!そんなところに生まれたのが幸せ!?」
「なら、味わってみろよ。これから、本当の底辺。地を這う生活を」
「グ…ッ…ァ……」
腹にめり込む拳。膝から崩れ落ちて溢れる唾液で土を汚す。
「こんなのは日常茶飯事だ。どうだ?嬢ちゃん、効くだろ?」
「……ぜ…ん……ん」
「はっ、甘々の嬢ちゃんにしては根性座っているじゃねぇか」
「……カシラ。奴ら来ました。やはり残党がいるようです」
「ッチ。いい所なのによ。まぁいい。奴のいない小綱組みなんて瞬殺だ。いくぞ」
得物の棍棒を担ぎ、倒れる少女を置いて進む。
逃げるなら、今しか無い。
「に……げ…無いと…」
身体が動かない。意識すら朦朧として来た。しかし、今逃げなければあの場所から逃げ出した意味がない。アソコにも、ココにも自分の居場所はないことを証明してしまうのだから。
「それは…いや…だ。私は……道具じゃ…」
敬愛した兄の笑顔が、頭を撫でてもらった記憶が蘇る。
「長貴兄様ッ…!」
「長貴、長貴……。なんか聞き覚えあるな。なんか、凄く大事な……人だった気がする…」
血に濡れた見たことがある男。あの槍を持つ彼だ、それが片手に頭目の死体を引きずり現れた。
「あぁ…お兄様……」
線の細い体の長貴兄様とは似ても似つかないはずなのに、たしかにどこか長貴の因子を感じ久方ぶりに心底安心した少女その意識を暗闇に手放す。
「あ…大丈夫——」
あぁ、長貴兄様。約束通り助けに来てくれたのですね———
多分、これからもちょくちょく送れる日があるかもしれません。ご了承ください…お願い…( ;∀;)