〈番外編〉青い炎2
馬車の中、向かい合って座ったライラは、静かな視線を向けてきた。
編み込まれ、緩やかに巻かれた髪は黄金色に輝き、白磁の頬にかかっている。
柔らかな白いコート、濃紺のドレス。
人形のようだと評されることの多い美貌は、少女から女性へ変わりつつある危うい時期の魅力をはらんでいた。
「…………何だ」
「いいえ。こうしてお話しできる機会を喜んでいるだけです」
じっと見つめてくる薄青の瞳に、すべてを見透かされているような気がして、エリクはぶっきらぼうに言った。
その態度に気分を害した様子もなく、ライラは小首を傾げる。
彼女の動きに合わせ、金の髪が揺れた。
「以前、医療基礎講座の臨時講師をなさったことを、覚えておいででしょうか」
「ああ……一年ほど前のことか」
普段はエリクがアカデミーの教壇に立つことはない。
単純に時間がないということもあるが、アカデミー生に必要とされる知識は、エリクでなくとも十分教えられるからだ。
確か――あのときはたまたま、医療基礎講座を受け持っている者が、体調を崩したのだったか。
急患もいないから、と引き受けたような気がする。
「あれが、私の転機になりました。あの講座を受けて以来、医療師になることを目標に、ここまで来ました」
「……そうか」
少し前、リリアが王太子妃候補者のいざこざに巻き込まれ、刺される事件があった。
血だまりに倒れる友へ、真っ先に駆けつけたのはライラだったはずだ。
湯上りで身体が温まっていたせいもあって、リリアの出血量は多かった。
報告を受けて現場にエリクがたどり着いたときには、ライラはひどい顔色で、必死に千切れた血管をつなぎ合わせ、奥深い傷を塞いでいた。
その治療痕を見たエリクは、内心舌を巻いたものだ。
親しい友が倒れたという動揺、きっと今まで見たこともないほどの大きな傷。
まだ年若い貴族の令嬢であれば、泣き叫んで卒倒しても非難は受けないだろう。
だが、ライラはその白い手を真っ赤に染めながら、悲壮なまでの決意をもって必死に治療にあたっていた。
その素晴らしい手腕と精神の強さに、思わずぞっとしたものだ。
これは、化ける。
磨けばきっと、エリクを追い落とすほどの、医療師になる。
「講座がきっかけにはなったかもしれないが、そこまで己の技量を磨いたのはお前自身だろう。それがリリアを助けることにもなった」
「……ありがとうございます」
息を飲んだことは、気づかれなかったはずだ。
人形のように無機質と評されることが多い少女の笑顔に、思わず目を奪われたことなど。
誰にも気づかれてはならなかった。
◇◇◇◇◇
馬車を降りてしばらく歩いたところにあったミラー菓子店は、想像していたほど混み合ってはいなかった。
それでも、甘いバターと砂糖の香りに溢れる店内では、多くの客が思い思いに菓子を選んでいる。
小さな袋に詰められた菓子はどれも輝くように美しいから、目移りする気持ちも良くわかる。
「エリク様は、どれがお好きですか?」
「…………」
隣からかけられた声に、思わずエリクの眉間の皺が強くなる。
ライラの手には、ミラー菓子店が新年祭限定で出しているクッキーがある。
一方のクッキーは香辛料を使っているのか、甘辛い香りがする。もう一方には干し葡萄がのせられていた。
――なぜ、ここまでついてきた、と彼は先程言った。
『クッキーを買うため』と彼女は答えた。
――なぜ、名前で呼ぶ、と彼は先程言った。
『直接教えを受けているわけではありませんから』と彼女は答えた。
どれも正論だ。
大体こんなくたびれたおっさんに、こんな美貌の少女がつきまとうこと自体おかしなことだ。
きっと、ただの偶然だ。
エリクは、むくむくと膨らむ得も言われぬ予感を無理矢理黙らせて、買い物を再開する。
なるべく食べ物以外のものが視界に入らないように、伏し目がちにすることも忘れない。
干し葡萄のクッキーと、いくつか焼き菓子を買って、エリクは店を出た。
「おい、そろそろ俺は――」
振り向き、声を出しかけたエリクは、目に飛び込んできたものに思わず呻いた。
そこにはライラの進路を塞ぐように立つ一人の男がいた。
「あなただってお忍びで来たんでしょう? 今日くらいは多少はめを外して遊んでも……」
「いえ……私は」
銀の髪を撫でつけた男の身なりは、それなりに良いものだ。
あなただって、と言うからには、男も貴族なのだろう。
清潔感もあるし、顔も決して不細工ではない。だが、その表情がいただけなかった。
明らかに良からぬことを企んでいそうな、嫌らしい笑みを浮かべている。
急に立ち塞がった男に、ライラも戸惑いを隠せない様子だった。
盛大に落とした舌打ちに、ライラがはじかれたようにエリクを見た。
その様子に男もこちらを見る。
「……なんだ、あんた」
「それはこちらの台詞だ。……行くぞ」
じろりと男を睨んでから、ライラの左手を取る。
背後で何か男が悪態をついているのが聞こえたが、立ち止まる気はない。
ふと、エリクの掌に触れる彼女の星が、温かいことに気づく。
誰でも、星は温かい。
体内をめぐる魔力をつかさどっているのだから、当然のことだ。
それなのに、その温かさは、妙にエリクの心を乱した。
◇◇◇◇◇
「あの、ありがとうございます」
「…………」
男は追っては来なかった。
きっと祭りの雰囲気に乗じて、手当たり次第女性に声をかけている輩なのだろう。今頃は別の女性を狙っているのかもしれない。
何となく、離すきっかけを失ってしまった手は、相変わらずエリクの掌の中にある。
ほっそりとして、少し力を込めれば折れてしまいそうなそれは、温かく柔らかだった。
「こんな日に、年若い娘が一人でうろつくのが危険だということくらい、わかるだろう。今すぐ家の者を呼ぶか、帰った方が良い」
「…………はい」
そっと伏せられた瞳は、明らかな落胆を映していて、エリクを苛んだ。
年に一度の新年祭。
本来なら親しい友とまわるはずだったというから、ライラは一人で出てきたのだろう。
帰れ、というのは簡単だ。
だが、今ここに一人でいることも、邪な視線を惹きつけてしまうことも、彼女の咎ではない。
忌々しい気持ちはため息となり、がりがりとエリクは頭を掻いた。
「――花火を」
「え?」
思わず口をついて出たことばは、しっかりとライラに拾われてしまった。
何でもない、と言おうとしたのに、どこか悲しげな薄青の瞳に、続けるつもりだったことばが出なくなる。
どん、と腹の底から響くような音がして、夜空に花が咲く。
ここからは一部分しか見えないが、祭りの終わりに向けて、星持ちと花火師が大玉と言われる花火を上げているのだろう。
「……花火を見てから帰れば良い。それまで付き合おう」
一瞬大きく見開かれた瞳には、次いで輝く光が躍った。
はい、と頷いたライラが握り返してきた掌は、なぜかエリクの深く柔らかいところへ食い込むような力を持っていた。