〈番外編〉青い炎1
星持ち様、契約を望む。
の頃の話です。
全三話予定。
これを、冬の湖に喩えたのは誰だったか。
呆然とエリクは薄青の瞳を見返す。
それは冬の湖などではなく――すべてを音もなく燃やし尽くすような、青白く、気高く燃える炎そのものだった。
◇◇◇◇◇
「師長、お土産です。ものすごい長蛇の列で、さすが人気店! て感じでした」
三日間連続で行われた新年祭の翌日。
寝不足だとありありと描かれた目元でリリアが差し出したのは、王都で有名なミラー菓子店の袋だった。
袋を見た瞬間、盛大に顔が強張ったのに気づかれなかったか、エリクは適当な返事をしながら、そっとリリアを伺う。
彼の視線には気づかない様子のリリアは、ふわ、と一つ欠伸をして、定位置に腰かけた。
「もう、全然お祭り気分が抜けなくて。勉強していても、ついぼんやりしちゃうんですよねぇ」
「……毎年、アカデミー内ではそんなものだ。しばらくはうっかりで怪我をしたり、羽目を外し過ぎて寝込む奴も多い」
どうやらリリアはエリクの動揺には気づかなかったらしい。
そっと胸を撫で下ろしながら、茶を淹れて差し出す。
受け取った袋を開ければ、中には黄金色に焼かれた結晶を象ったクッキーが入っていた。
『そこで座って、待っていてください』
ふと耳の奥で蘇った声に、びくりと肩が震えた。
内臓の奥底から痺れるような感覚が上がってくる。
あの程度のこと、何を動揺することがある、とエリクは強く目を瞑って眉間を揉んだ。
「疲れ目ですか?」などとふざけたことを言うリリアの声が、いやに遠くに聞こえた。
◇◇◇◇◇
医療師長は、国の中でも最も忙しく、最も誇らしいと言われる職業の一つらしい。
誇らしいという部分には賛同しかねるが、忙しいという部分には真実しか含まれていないと胸を張って言える。
国中が新年祭を楽しむ雰囲気に包まれていても、病人も怪我人も減りはしない。
むしろ祭りで浮かれて起こる暴動、飲み過ぎて倒れる阿呆、持病が悪化する重病人……。
エリクが診る重篤な患者は多くはないが、のんびり休んでいる暇はなかった。
次々と運び込まれる患者を診ながら、ようやくすべての医療師に休憩を取らせ終わり、エリクが休める頃には、後夜祭の始まりを告げる花火が上がる時間だった。
本来なら医療棟につめているべきなのだが、ほんのわずかな時間くらいなら、副師長も持ち堪えられるだろう。
まだまだ頼りない男ではあるが、いい加減エリクの背中を守れるくらいにはなってほしいものだ。
そう告げられた副師長は頬を引きつらせていたが、見て見ぬふりをしてエリクは背を向けた。
人ごみを好まないエリクだが、中心街へ出かけたのには理由があった。
王都で人気のミラー菓子店が、新年祭だけで出す菓子が欲しかったのだ。
身近な人間なら大抵知っているが、エリクは甘いものに目がない。砂糖の甘味も、果物や野菜の甘味も、疲れを解かす効果があると彼は信じている。
とりわけ、ミラー菓子店のクッキーは他では真似できない、とエリクは昨年味わった甘味を思い出して頬を緩める。
アカデミーの門を出て、適当に乗り合い馬車でも探そうか――と歩き出して間もなく、エリクの脇で一台の馬車が停まった。
「こんばんは、エリク・クロフォード様」
医療師長、と役職で呼ばれるようになってから随分遠ざかっていたその名前に、思わず足が止まった。
誰何するように睨み上げれば、そこには感情の読み取れない薄青の瞳があった。
「ライラ・ディルス……。こんなところで何をしている。確かリリアと新年祭へ行ったのでは……」
本来なら、エリクのこのような話し方は許されるものではない。
同じ貴族だとはいえ、こちらは末席、あちらは今をときめく宰相閣下の一人娘である公爵令嬢だ。
だが、アカデミー内ではその身分を問わない、という決まりがあるためエリクはそれに則った。
もちろん、ご丁寧なことば遣いに慣れていないという理由もあったが。
「それが。幼なじみから、どうしても二人きりにしてほしいと泣きつかれました。今頃二人で花火を見ていると思います」
ライラが幼なじみと呼び、リリアと二人きりになりたがる人間、と言えば、一人しか思い当たらない。
リリアの身元保証を受け、何くれとなく気にかけている第一王子。
その姿を思い浮かべたエリクの眉間に、皺が寄った。
「……面倒事に巻き込まれなければ良いが」
「護衛もつけているので、大丈夫かと。……それより、よろしければご一緒させていただけませんか? 私もこれから新年祭へ行くので」
ライラの視線をたどれば、そこには別の馬車が止まっていた。
御者らしき者が、申し訳なさそうな顔で目礼してくる。
どうやら、道が空くのを待っているらしい。
厳密に言えば、馬車がすれ違う道幅は十分にある。
だが、ディルス公爵家の紋章が彫られた馬車の横を通り過ぎることが失礼にあたると考え、待っているのだろう。
普段のエリクであれば、このような誘いに頷くことはなかった。
見知った顔だとはいえ、相手は未婚の年若い女性。
いつ誰に見とがめられるとも限らない往来。
醜聞のもとになりかねない、いわゆる『面倒事』だ。
「申し訳ありません。今退きます。……急患があれば、呼び戻されてしまいますよね? ミラー菓子店もそろそろ混み合う時間だと思います」
「…………同行、させていただこう」
ライラは後ろの馬車の御者に謝ってから、エリクを見つめる。
わずかな時間、逡巡していたエリクの心は、決まった。
早く決めないと後ろの馬車の迷惑だから。
ミラー菓子店のクッキーがほしいから。
新年祭だから。
診療つづきで疲れているから。
たくさん理由はあった。
だから、開かれた扉に、吸い込まれてしまった。
――あとから考えれば、それが運命の分かれ道。
音もなく、エリクの足元へ縄が絡められた瞬間だった。