<番外編>ある兄弟の日常<小話>
長い王城の廊下を、軽装の青年が一人歩いている。
まだ少年の面影を残した頬は喜色に染まり、瞳には春のきらめきが見えた。
足取りも軽く、鼻歌が飛び出しても不思議がないほどの上機嫌な様子だった。
「おかえりなさいませ、エディラード様」
廊下ですれ違う侍女が脇に立ち止まり、丁寧に腰を折った。
年齢こそエディラードと変わらないが、その手腕を買われて、ここ二年ほどは兄の私室につけられていたはずの侍女だ。
夜も随分更けているのに、どこにも乱れのないその立ち姿に、エディラードは微笑みを浮かべた。
「ただいまー。ねえ、兄上は戻ってる?」
「はい。先程お戻りになられました。お茶をお持ちいたしましょうか」
「いや、いいよ。茶器はあるんでしょ? 自分でやるから」
兄づきの侍女であれば、兄やエディラードが身の回りのほとんどを自身でやるということはわかっているだろう。
中にはそれでも役目だから、と細々としたことをやりたがる者もいたが、そういう者は長くはそばにはいない。
ひらひらと手を振れば、エディラードが予想した通り、侍女は黙って腰を折った。
大股で兄の私室まで行き、ノックの応えも待たず扉を開ける。
「おかえりー、兄上。ただいまー、僕」
「……随分、機嫌がいいな」
兄はまだ旅装さえ解いておらず、星持ちとして動くときに愛用しているローブの襟元を緩めただけだった。浮かれた様子のエディラードに、ほんの少しだけ目を見開いている。
「えっへへー。今日ねえ、僕ラトーヤに行ってたんだ」
「…………」
弾むようにエディラードが言えば、兄の柳眉がわずかに中央へ寄った。
他の人間にはきっとわからないであろうその変化に、エディラードはほくそ笑む。内心穏やかではないのだろう。
「一緒にお茶してー、手作りのミルフィーユを食べたんだー。苺とクリームがたっぷりで、パイもさくさくで、美味しかったぁ。“あまり無理しすぎないように”って」
主語はひとつも言っていない。
言っていないが、兄にはすべてわかっただろう。
ラトーヤにはディルス公爵家の屋敷がある。そこに兄の恋人が数日前から滞在しているのだ。
兄はここ一ヶ月ほど国境の街で鉱道の修復にあたっていたから、恋人には長く会っていないだろう。兄の強い望みで大量の魔石と通信機を持たせているとはいえ、顔を見たい、“心”が込められた手料理を食べたいと思っているのは聞かなくてもわかる。
十以上年が離れて、何でもできる完璧な兄。
その兄が手を尽くし、用意周到に捕まえにいった恋人。
こんなことでもなければ、エディラードが兄に敵うことなどないのだ。
少しくらいからかっても、構わないだろう。
「羨ましいで……」
「ハノーヴァー公爵令嬢に、言う」
さらに自慢しようと口を開いたエディラードは、ぽかんとそのまま動きを止めた。
今、何と言った?
「え、マデリーンに何を……」
「エディラードの初恋が、ミンティ先生だと言う。まだ十だったのに、結い上げられた髪の間からのぞくうなじや、露出のないドレスや、眼鏡の裏の素顔を暴きた……」
「うっ、うわあああああ?!」
次々と飛び出す兄のことばに、エディラードの頬が真っ赤になった。
彼が計算で頬を染めることはあっても、素でここまで狼狽える姿は珍しい。
「なぁっ、何で知ってるの?!」
「当然だろう。俺は兄だ」
言いながら兄は、にやりと口角を上げる。
きっとこれも、滅多に他人には見せないであろう、悪い笑顔だった。
「当然、握っている弱みは、これだけではない」
「…………ずるい! 兄上の初恋は誰なのさ!」
エディラードがムッとすれば、兄は目を細めて喉を鳴らした。
脱いだローブの埃を軽く払い、長椅子にかける。
「お前が物心つく頃には、とうに済ませている」
「~~っ!! もういい、おやすみ!!」
怒りのまま後ろ手に扉を閉めれば、忍びやかな笑い声が追ってきた。
―――どうやっても、兄には敵わない。
悔しい、と思うのに、なぜかエディラードの口元には笑みが浮かんでいた。