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星持ちと弁当屋  作者: 久吉
第四章 番外編
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<番外編>Magic of love④

Magic of loveは、これで終わりです。



 ―――話さなければいいのに。


 物心つく頃から繰り返し言われてきたことば。


 ―――本当に綺麗。


 口をつぐんだ私が言われる賛辞。


 そのたびに、身を裂くほどつらかったことなど、微笑みの裏で幾度涙を飲んだかなど、一体誰がわかるというのだ。




 母にも父にも似ていない、真夏の太陽を編み込んだような髪。澄みきった空色の瞳。何もしなくとも荒れたことなどない肌。


 幼い頃から私の容姿は両親のいさかいの元だった。


 外ではよく働く真面目な大工だった父は、家では浴びるほど酒を飲んだ。

 それはもはや、飲むというよりも呑まれていると言った方がいいかもしれない。


 帰宅するなり足音荒く貯蔵庫を開け、肴をつまむこともなく一杯、また一杯。


 やがて手元や足元が覚束なくなり、呂律が回らなくなった頃、父の激情が噴き出す。


『そいつは誰の娘だ!』


 がたん、と父の向かい側の椅子が蹴り倒される。

 はじめの頃こそ父をたしなめていた母だったが、何度か強か殴られてからは怯えるばかりだった。

 もちろん、父の怒りが恐くて、酒を捨てたり隠したりといったこともできない。

 ただ、なるべく父の視界に入らないように身を小さくしているだけだ。


『ええ?! 何とか言ったらどうだ! 俺の親父もお袋も、お前の親にだってこんな顔した奴はいねぇ! お前がどっかでこしらえてきたガキなんじゃねぇか!』


 父が叫び終わるや否や、ものすごい力で身体が引き倒された。

 ゴッ、と鈍い音がして、あちこちの骨から痺れるように痛みが襲う。

 床板に擦れた皮膚がちりちりと痛んだ。


『いっ…、痛い!』

『母親が淫売なら、ガキもだな!! ゲイルにまで色目を使いやがって!』


 むしりとるような力でぎりぎりと髪を引かれる。

 精一杯手を伸ばして父の指をほどこうとするが、その手は弛むことさえない。


 恐怖感と嫌悪感から、涙がこぼれた。


『色目…なんて、』


 使ってない。


 ゲイルは隣家に住むサムのお父さんだ。

 私とは三十近く年も違うはずだし、私はサムが好きなんだ。

 仲良くしたいとは思うけど、それだけだ。


 ―――なんて、馬鹿馬鹿しいのだろう。


 実の娘をこんなありもしないことで疑って。

 前後もわからなくなるほど酔っ払って。


 私が綺麗に生まれたのは単なる偶然がかけ合わさっただけなのに。

 よくよく探せば、爪の形だって、耳の形だって、瞳の色だって、お父さんのものにそっくりなのに。


 どこで、すれ違ったのか。

 どうしたら、わかってくれるのか。


 ぼろぼろと涙が頬を伝うのは、思いが伝わらない無力感。そして、幸せだった頃の記憶。


 まだ私が小さなお人形と呼ばれて済んでいた頃の記憶。


 夢中で父の手から逃れようとしていた私は、気づかなかった。

 呆然と父が口を開いていることに。


『……お前……』


 涙を拭いながら父を見ると、そこには驚愕と、恐怖に揺れる濁った瞳があった。


『……お父さん…?』


 問いかけには応えはなく、そのまま床へと身体が投げ出された。



 ◇◇◇


 はじまりは、きっとあのときだった。


 父の手から逃れようと必死だったあのとき。

 絶望に震えながら、幸せだった記憶を辿っていたあの瞬間。


 繰り返すたびに、疑念は確信に変わる。


 私は、人の気持ちを操ることができる。


 私を憎んでいる人でも、何か嫌なことがあって塞ぎ込んでいる人でも、怒りにうち震えている人でも。

 私が手を触れて願えば、気持ちは変わる。


 あれほど酒を飲んで暴れていた父が、私が手を触れればもとの父になった。もう飲むのをやめてほしいと願えば、適量でやめることさえあった。

 怯えて小さくなっていた母が、もとの明るく優しい母になった。


 元通りの家族が帰ってきた。


 なのに。


 家族に愛してほしいという願いは叶ったのに、どこか渇いた感覚はなくならなかった。



 大好きな機織りをしていると、ふと虚しくなる。

 縦糸と横糸を組み合わせて、一枚の布を織り上げる。

 これを纏う人が、うきうきしたらいい。長く大切に使ってもらえたらいい。


 だけど、私は―――?


 美しいと言ってもらえる容姿は、いつまでも保ち続けられるわけではない。

 私が褒められるのは容姿と機織りの腕だけ。

 皆、私が口を開けば気の毒そうな、苦笑いを浮かべていなくなってしまう。


 このまま誰もいない部屋で機織りをしながら、黙って老いていくのか。


 突如胸に沸き上がったのは、猛烈な焦りと孤独感。


 ぶつり、と鈍い音が耳に届き、緩慢に手元へ目線を落とせば切れた糸。


 織り合わされば重宝されるのに、こうして切れてしまえば屑だ。


 ―――そこに、未来の自分が重なって見えた。



 ◇◇◇



 頭に響いたのは、誰の悲鳴だったのか。

 私を食い殺そうとしているのは、怒りが、哀しみか。


 ただ夢中で手を伸ばして、その首を捉えた。


 柔らかなそれに力を込めると、瞼の裏でちかちかと光が明滅した。


 ―――真っ白になった視界には、もう何も映らない。



 ◇◇◇


 スープ作戦の効果は絶大だった。

 早い者では二匙で、遅い者でもスープを食べ終わるまでにはクレアの支配から抜け出た。


 隙をつかれた気まずさからか、男たちは平謝りするばかりだったが、娘たちの怒りは当然クレアに向けられた。


「このまま黙っているわけにはいきません!」

「そうよ! ひとの婚約者に不貞を働かせようとしたんだから、ただじゃおかないわ」


 甲高い叫び声を上げ、娘たちがまなじりをつりあげる。


「直接やり返したい気持ちはわかりますけど。クレアさんの身柄は星見台で預かることになると思います」

「何それ! あんなことしたのに、罰もなく保護されるの?!」


 女性が穏やかに言うと、娘たちはさらに気色ばんだ。

 星見台すなわち特別な場所、というイメージしかないためだろう。


「そうですねぇ。私の予想では、数年は基礎を叩き込まれて、その後はタダ働きさせられて…ってところでしょうか。確実に婚期も逃すでしょうし、故郷に帰ることも許されないと思います」

「………」


 勢いを削がれたように、娘たちが口をつぐんだ。


 女性はわざと婚期ということばを入れたのだろう。自分よりも美しい娘が、罰として娘盛りを棒に振るというなら、溜飲が下がるということか。


「……やるな」

 娘たちには届かないよう小さくつぶやいたイーニアスのことばに、女性か小さく口角をあげた。



 クレアのことはこちらに任せてほしい、とよく言い含め、娘たちは家に帰した。

 それぞれ恋人と話し合う時間も必要だろう、と促せばそれ以上粘る者もいなかった。



「じゃあ、行きますか」

「どこへ」


 荷物も何も持たずどこへ行くのか、と問いかければ、女性は首を傾けた。


「そりゃもちろん。クレアさんの確保ですよ。このままにしておくことはできないですし、確実にクレアさんは接触してくると思います」


 言いながら歩き出した女性についていきながら、イーニアスは何とも言えず複雑な気持ちになる。

 普段は自分がエスコートすることはあれど、女性のうしろをついていくことなどない。

 だが、この女性は何とも思っていないのだろう。それはイーニアスを侮っているわけでもなく、女性が庶民だということも大きいだろう。


 ―――であれば、仕方がない。俺が紳士的に譲ってやろう。


 そう決定したことを、イーニアスはあとからひどく後悔することになる。



 ◇◇◇



 気づいたときには、若草色の何かが視界を過っていった後だった。


「…っ!」

「あんたが…、あんたさえいなければ!」


 呆然と見やれば、地面に倒された女性の上に、金髪の娘が馬乗りになっていた。

 たおやかな白い指が、女性の首をぎりぎりと締め上げる。


「な、クレア!! やめろ!」

「触らないで!!」


 指を引き剥がそうとした瞬間、大きな何かに体当たりされたような衝撃を受ける。


「…っく…」


 “心”だ、と思う間もなかった。

 そのままよろめき、尻餅をついてしまう。


「あんたが…いなければ…っ! みんな愛してくれたのに…この力があれば…、っ?!」


 クレアから注ぎ込まれていた“心”が止まった瞬間、弾かれたようにクレアが女性から飛び退いた。


「なにしたの! なによ、これ!!」


 拘束から逃れた女性は、激しく咳き込む。目尻には涙が浮かび、内臓が出るような深い咳だった。


「…それ、が、あなた、だけの、専売特許じゃないってことですよ」


 咳の合間に告げる女性に、クレアが激しくかぶりを振った。


「なによ、それは! 私のこの力は、神様がくれたのよ! あんたみたいなのに、同じことができるはずないじゃない!」


 喚きながら地団駄を踏み始めたクレアは、どこからどう見ても幼い子どもだった。


 あれもほしい、これもほしい、それは気にくわない。


 イーニアスはそこでようやく我に返り、女性の腕を引いて助け起こす。首は真っ赤に鬱血していたが、咳はおさまり呼吸も落ち着いてきたようだった。


「クレアさん。なぜ皆いなくなったか、わかりますか?」


 掠れた声だったが、しっかりとクレアの耳に届いたらしい。華奢な肩が震えた。


「あなたが、誰も愛していなかったからですよ。欲しい欲しいとひとに求めるばかりで、誰にも何も返さなかった。うわべにばかり気をとられ、真実を見なかった」


 イーニアスの手を支えに、女性が立ち上がる。

 その顔には、明らかな怒りが見えた。


「口を開かなければいいのに、ですか? バカにするなと、私は人形じゃないとはね除ければ良かったんです。子どもっぽい中身も含めて、あなたなんです。あなたがそれを認めて、周りの人を大切にすれば、必ず心を返してもらえます」


「そんな…そんなの、信じられない」


 いやいやと首を振るクレアの頬は涙で濡れている。地面に座り込んだ膝頭へぽたりぽたりと滴が落ちていく。


「信じなくていいですよ。とりあえずやってみて下さい。五年経っても成果が出なければ、責任とります」


 女性が差し出した手をクレアが見つめる。

 頼るべきものを無くした、幼子の瞳だった。



 ◇◇◇


「あれで、良かったのか」

 星見台の扉を開いて先に通しながら訊くと、女性は頷く。


「クレアさんはこれからいくらでも変わることができますよ。今までが怠惰だったんです。ちゃんと周りの人とぶつかって学んでいけば、大丈夫」


 クレアの身柄はアカデミーに送られることになった。

 貴重な“心”の使い手だが、精神的な幼さもあるため、数年は星見台の監視下に置きながらスキルを磨かせるらしい。

 その間にかかる費用は、自分自身で働いて返せというのだから、なかなか厳しい。アカデミーの学費は本人や養育者の経済状態で決まるため、クレアの学費自体はそう高くないだろうが。



「…その、すまなかった」

「何がですか?」


 女性の首にはくっきりと手のあとが残っており、爪も当たったのかいくつか傷もあった。

 薬は塗ったものの、下手をすれば跡が残るかもしれない。


「ああ、別にこれくら…」

 きゃあ!!と上がった悲鳴で、女性のことばは中断した。


 見れば受付嬢が顔を青くして震えている。


「ど、どうなさったんですか?! それ!」

「や、ちょっと色々と…。医療師さん、近くにいませんかねぇ」


 喉元をさすりながら、女性が眉を下げる。受付嬢はなぜかイーニアスをきりりと睨み付けた。


「やはり、お任せするのではありませんでした。…医療師はもう間に合いません。中でお待ちになってますから」


 えっ、まじで、とつぶやいた女性も顔色が悪い。きょろきょろと落ち着きなく辺りを見渡す。


 そのとき。


「リリア」


 驚きで人が飛び上がることがあるのなら、女性はカウンターの高さくらいは飛んだだろう。


「…っ、はい!」


 振り向けば、男が立っていた。

 イーニアスよりも頭半分背の高い、がっしりとした体型の男だった。


 ―――どこかで、見たことがある?


 どこだったろう。顔面のつくりもかなり整っているし、纏う雰囲気も貴族のそれだ。どこかの社交場(パーティ)か、あるいは仕事でか…。


「リリア、それは?」

「え…っと、これは…その、色々と…」


 男はうっすらと笑みを浮かべているのに、なぜか空気は冷える一方だ。

 受付嬢に至っては頭を抱えて下を向いているし、周辺にいた人間はいつの間にか壁際にまで避難している。


「待て。これは俺がリリアを庇えなかったせいだ。彼女を責めるのは違うだろう」


 ―――イーニアスがもう少し賢かったら、気づくことができただろう。


 男性がリリアに対して怒っていたわけではないということに。

 イーニアスがその名を口にしたことでさらに空気が凍りついたことに。

 イーニアスがしゃしゃり出たことでもう取り返しがつかなくなったことに。


「…そうか。詳しく聞きたい。少しあちらで話ができるだろうか」

「ま、待ってください! この仕事は私が行きたいって言ったんです。怪我をしたのも私の不注意で…」


 リリアが慌てて男性の袖を引くと、男性はにこりと微笑んだ。


「…あちらに、医療師がいる。その傷を治療してもらうといい。俺は彼と話をしてくる」


 言いながら男性はリリアの腰に腕をまわし、額に口づけを落とす。いとおしげに髪をなで、さらに頬へ、こめかみへ。


「早く行かないと、このまま先へ進むが」

「…っ、い、いってきます…っ」


 足をもつれさせながら、リリアが離れていく。

 この男と恋人同士だったのか、という軽い落胆を覚えはしたが、名前を知ることができたのは収穫だ。

 今後も仕事で一緒になることもあるだろう。

 そうすれば恋人がいようが間に入ることは…。


 ―――そうか、俺は好きなのか。


 すとんと落ちてきた気持ちに、ようやく納得がいく。


 ―――イーニアスがもう少し賢かったら、気づくことができただろう。


 名前がついたばかりの感情を速やかに手放さねばならないことに。


 もう二度とイーニアスとリリアがともに働くことはないということに。



「無知も、ある意味幸せなのかもしれませんね…」


 火の粉が飛んでこないことを切に祈りながら、受付嬢がつぶやいた。

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